MY PRECIOUS
四月になった。
ぽかぽかと春めいた陽気に、火村の運転するベンツの中は暑いくらいで――なのに、アリスの心の中は、なんだか冬に逆戻りしている。
助手席で明るい陽射しをあびながら火村が隣にいて、昼食を食べたあとだからおなかもいっぱいで、身も心もあったか〜なはずなのに、どうしてかどよどよしているのだ。
理由は判っていた。
(火村……今夜、帰ってまうんやな)
アリスは、ハンドルを握る男の横顔に視線を移し、唇を噛む。
(嫌やなー)
それでも、それがただの我侭だと判っているので口にはしない。
春休みが永遠じゃないのは知っているし、助教授の春休みが暇じゃないのも知っている。フィールドワークを優先させて休講にした講義の埋め合わせもしなければならないし、新学期の授業の準備もある。生活と仕事の場をそれぞれ別の土地に持っているのだから、いつも、いつまでも一緒にいるという訳にいかないのは、アリス自身よく判っていた……つもりだった。
(――おかしいなあ)
なんだか不思議でたまらなくなって、首を傾げた。
(去年までと春休みの日数は変わってへんのに、なんで、こないに短いて感じるんやろ)
親友というだけの関係だった去年までと、自分はそんなに変わってるだろうか。
(いや、確かに変わっとるけど。なんや色々変わりすぎて、自分でもよお判らんくらいやけど)
たとえ自分自身の思考でもツッコミを入れずにいられないのは大阪人のサガ――ではなく、単に気恥ずかしいだけだ。
(火村は…何も思わへんのやろか)
そうだ。自分がこうして思い悩んでいる十分の一でも悩んだりしないんだろうか。淋しいとか、そういうことを――。
アリスは俯き、「はあ」と溜息をついた。
「人の顔見て悩ましく溜息ついてんじゃねぇよ。誘ってんのかと思うだろ」
ハンドルを握ったまま視線をこちらに向け、にやりと笑った火村に、アリスは真っ赤になる。
「火村っ、見てたの気付いとったんか!?」
「そんなにじろじろ見られて、気付かねぇ方がおかしい」
むう。アリスは返す言葉もなく押し黙る。
「何を考えてたんだ?」
にやにやと笑っている男前に何故か腹が立って、アリスは上目遣いに火村をにらんだ。
火村と『親友+α』の関係になってから早数ヶ月たつが、アリスの感覚では『まだ、たったの数ヶ月』でしかなくて、関係の変化に戸惑うことだらけなのに、この、火村の余裕っぷりは何だろう。
(なんや、むかつく)
すいと伸ばされた指先が自分の頬に触れるのに、心臓がどきんとはねた。
(めちゃめちゃ悔しい)
結局、翻弄されるばかりで。
「言ってみろよ、アリス」
自分にしか見せない、やわらかな微笑を浮かべる男に見惚れている。
心臓がばくばく音をたてはじめて、アリスは自分が座っているシートの縁に爪をたてた。
「き、君には関係あらへんもん」
どうにか強がってみたものの、成功しなかったのは火村を見ていれば明らかだ。
口元が楽しそうに笑んだのを見たとたん、かあっと頬が熱くなって、反射的に指を払っていた。
「君に言ったかて、何も判ってくれへんもん!」
あ。
アリスは、自分の言動に凍りついた。
陽射しを受けているはずの背中が、すうっと冷えていく。
今、何を言うたんやろ、俺……。
ずき、と胸が痛くなる。
視線を前に戻した火村は、口元を厳しく結んでいた。
気まずい空気の中、ラジオのパーソナリティだけが場違いにハイテンションなトークを続けていて、急に気分がへこんだ。
(喧嘩なんかしたないのに……)
言わなければよかったと思っても遅い。唇を噛みしめると、横からぽこんとたたかれた。
「噛むなよ。血が出る」
赤信号で車が止まり、火村は助手席へ手をのばして、落ち込んでいるアリスの頭へ手をのせた。
泣きだしてもおかしくないアリスの表情は、窓ガラスで確認済みだ。
「……ひむら」
アリスが言葉を続ける前に信号が変わった。火村は舌打ちしてハンドルを握りなおす。普段は勝手気侭に振り回してくれるくせして、自分の感情を言葉にしようとするとき、アリスは妙に臆病になる。
手間がかかると思いながら、その手間さえ楽しみのひとつなのだから、溺れ様が知れようというものだ。
「あのな」
交通量の多い大阪市内で脇見運転などできない。視線は前方を見ながらも、火村はアリスにしか向けない、やさしい声を出した。
「短すぎて驚いてるさ。俺も」
「みじかい…?」
主語の抜けたセリフに、アリスはきょとんとなった。
「だから、春休みだろ」
当たり前のように火村が言う。
「春休みが終わる話だったんだろ?」
「……ええと」
頭の中がまっしろになってしまって、とっさに言葉が出てこない。
『春休みが終わる話だったんだろ?』
火村の声が頭の中をリフレインする。
何を考えてるかは、一言も口に出さなかったはずなのに。
『終わる話だったんだろ?』
そうや。確かにそれを考えとった。
『春休みが』
あっという間に終わってしもうたて、そう思っとった。
ハルヤスミ。ナニハナクトモ、ハルヤスミ。
――て、違うわ。阿呆な俳句作っとる場合やない。そもそも春休みは季語なんやろか。季語やなかったら俳句やなくて川柳て言うんやったよな。かわのやなぎ。
「…………そやなくて」
深呼吸をして息を整える。ついでに思考も整える。
「なんで、何も言ってへんのに判るんや?」
返ってきた火村の返答は簡潔だった。
「アリスの考えてることだからさ」
簡潔すぎて判らない。
「俺が判りやすいって言っとるんか?」
むっとなると、火村が「つっかかるなよ」と苦笑した。
「だって、そう言っとるんやろ?」
火村は相変わらず笑っている。
腹がたってきて、ていっと横腹にパンチを入れると、ぺしんと叩かれた。
「運転妨害」
「火村が俺の精神安定を妨害するからや!」
ベンツが車通りの少ない道へと入ってきたのをいいことに反撃すると、その腕が火村に捕られる。
そのまま、ぐいと引き寄せられて、アリスは運転席へと倒れこんだ。
「危ないやないか!」
右手をハンドルに残したまま、火村は体を起こそうとするアリスの頭を抱え込んだ。
耳元に口をよせて、艶のあるバリトンで囁く。
「アリスが、俺の特別だからに決まってるだろう」
ぼぼっと耳まで赤くなったアリスを解放して、火村は駄目押しとばかりに付け加えた。
「お前のことだから、判るんだぜ?」
「な、な……」
頭の中から指先まで沸騰しているように熱かった。
アリスは無言で自分のシートに座りなおし、膝をそろえてその上に手を揃えて乗せた。
心臓の音が、なりやまない。
あまりの恥ずかしさに、いっそ茶化して笑いをとってごまかしたいくらいなのだが、火村の囁きが本音だと判っているだけにそれもできず、アリスはひたすら固まっていた。
(こんなに火村に影響されとったら、俺、そのうち不整脈で倒れるんやないやろか)
火村の声と言葉ひとつに文字通り殺されては堪らない。
いつのまにか、ラジオはトークからリクエストに移っていた。聞いたことのある女性ヴォーカルの、のびやかな声が歌いだす。
アップテンポではない、バラード系のそれを聞いていると、少しは体の中の嵐も収まってきたらしい。見計らっていたように火村が呟く。
「いい曲だな」
「そおやな」
アリスは素直に頷いて――最初にそうしていたように、火村の横顔に視線を移した。
「せやけど」
行儀悪く、煙草を咥えて運転する男を見ながら、アリスは笑った。
「ん?」
「俺は、違う気持ちでもええな」
フロントガラスの向こうに、夕陽丘のマンションが見えてきた。自分にとって――おそらくは、火村にとっても既に馴染み深い、落ち着ける我が家だ。
「ずっと同じ気持ちやなんて無理やもん」
そこまで聞いて、アリスの突然のセリフが、『きっと何年たっても、こうして変わらぬ気持ちで過ごしてゆけるのね』と歌った歌詞にリンクしているのだと気付いた火村は、くくっと笑った。
「ひでぇな。俺はアリスに捨てられるのか?」
「何を言うてるんや」
アリスは憮然となる。
「そういうことじゃないのか?」
「そんなんと違う」
冗談だとは判っていても許せなくて、アリスは火村に言い募る。
「俺、たぶん、今日より明日の方が、火村のこと好きやもん」
ぎりぎりで駐車場にベンツを滑り込ませていた火村が、ばったりとハンドルの上に倒れる。
はああ…と大きく溜息をついてから、おもむろに顔をあげた。
「ずいぶんな殺し文句だな、おい」
「殺し文句てなんや。俺は本当のこと言っただけやぞ」
威張ってみせるアリスに、どっと脱力する。
「だから殺し文句なんだろ……」
火村の疲れ果てたような呟きは、アリスには聞こえなかったらしい。さっさとベンツから降りると、うう〜んとのびをしていた。
「まいるな、まったく」
アリスは『俺なんか火村に振り回されてばっかりや!』と力説するが、絶対に振り回されてるのは自分の方だと火村は確信する。
買った負けたの問題ではないが、なんとなく負けた気分だ。
そして、負けたままでは火村英生の名折れだ。
愛車から降りた火村は、マンションの入り口でアリスが待っているのを見て、にやりと笑った。
近づくまでに態勢をたてなおし、攻勢に転じる。
「アリス」
「なんや?」
ひょいと見上げてきたアリスに、火村は、アリスに対して最大限の効果を持つ殺し文句を口にした。
「お前が素晴らしいセリフを聞かせてくれた礼に、夕飯は好きなもの作ってやるよ」
「ほんま!?」
途端に目を輝かせたアリスに、火村は苦笑した。
どんな甘いセリフよりも、アリスに効くのは結局コレらしい。
「何、作ってもらおかな〜」
昼食から一時間もたっていないというのに、既に夕飯へと思考が飛んでいるアリスを見ながら、火村は、すい…と目を細めた。
エレベーターという密室の中なのをいいことに、くいと頤を持ち上げて口付ける。
「な…ひむ…っ」
アリスの声を飲み込んで、もう一度。
それから、囁きを。
――俺も。
昨日より今日のアリスを、百倍くらい愛してるさ。
<矩城しのぐさまよりコメント> 甘ったる〜な雰囲気を目指しました。 年齢28歳くらいです。出来上がって8ヶ月くらい。 asato さまのアリスを見て、めろめろに可愛いアリスを目指したのに、この始末……。 しかも、季節ネタだから、慌てて書き上げたし。だから文がめちゃくちゃだし。 ちなみに、<PRECIOUS>は「最愛の人」の意味をとりました。 |
えへへ。かわいいアリス、いただいてしまいました♪ 副題 『殺し文句合戦』 だそうで、やってくれますね、2人とも! 天然なアリスもイイですが、ちゃんと解ってる火村も私のツボに入っております。かっこいー(>_<)/ サイト作成を中断して書いて下さったそうで、なんともありがたいことです。 矩城さま、ありがとうございました! |
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