○○な助教授は好きですか?
階段教室は、五分の入りだった。年末も近いこの時期を考えれば、上々だろう。
私は最上段の入口に程近い席に腰を降ろした。既に開始時間は過ぎている筈だが、お目当ての助教授は、まだ姿を見せていない。
(まさか、寝坊した訳やないやろな)
『これでやっとゆっくり寝られるぜ』
昨日の電話(そうやって話をするのさえ、なんと2週間ぶりだった)で、眠そうな声でうそぶいていたのを思い出す。
『お互い、大変やったな』
私は締切・火村はフィールドワークや学会などが重なって、とにかく多忙な日々を送っていたのだ。
『なあ……アリス』
ひとしきり近況報告をしあった後、不意に受話器の向こうの声に、甘やかな響きが混じった気がした。
『明日……逢えるか?』
耳に心地よいバリトンに、躯がぞくりと震える。
逢いたい。あの怜悧な眼差しに絡め取られてしまいたい。そして……口に出せない想いに、知らず、顔が赤らんだ。こんな事、言える訳ないではないか。
『うん……ええよ』
だからできるだけ平静を装って答えると、
『……つれないな』
溜息が、返ってきた。
『もう1ヶ月も逢ってない恋人に言うのはそれだけか?』
『え……?』
『もう限界だ………アリス』
疲れているのか……常よりも低く掠れた声。
『逢って、キスして、抱きしめて……全て俺のものにしたい』
『火村……』
この気持ちをどう言えば良いだろう?嬉しい、というのとも微妙に違う……胸が甘く痛む。
『ま、素面のアリスに睦言を期待しちゃいなかったけどな』
返す言葉を逡巡しているうちに、待ち合わせ場所と時間をてきぱきと決め、眠気も限界迄来ていたらしい火村は、早々に電話を切ってしまった。
(つれないのは……どっちや)
ぐるぐると考え込んだおかげで私は早々に目が覚めてしまい、待ち合わせまでの時間をつぶすためという名目をつけ、火村の講義を覗きにきたのだが。
「先生、遅ない?」
すぐ前に座っている女の子が、隣の子に話しかけているのが耳に入る。
「ほんま。休講やないよね?」
「やめてぇ。今日駄目やったら、年明け迄逢われへんやん」
どうやら、火村のファンらしい。こっそり眺めてみると、ショートカットのなかなか可愛い子だ。
「あんたもけったいな趣味やな」
もう一人の子は、ゆるくウェーブがかかった髪を肩あたり迄伸ばしている、顔立ちのはっきりした美人だった。
「火村先生ってええ男やけど……あれは半端やない女嫌いやで」
「そこがええんやないの」
「はあ?自分を見いへんのの追っかけして、何が楽しいんや」
「ええのっ。先生はあくまで観賞用なんやから」
「観賞用の為に、わざわざ彼氏との約束遅らせるんか?」
あけすけな言い合いに、私は心の中で苦笑した。
女性が怖いと思う瞬間だ。
(相変わらずやなあ……ほんま)
そしてこんな光景に出逢うのも、学生時代からのこと。
ただし、その度に起こる複雑な胸の痛みには、いつまで経っても慣れることはできないのだけれど。
「せやかて、あれ以来、火村先生めっちゃ格好ええやんか」
ショートカットの子の言葉が、再び耳に入った。
(あれ以来……?)
「ん〜……確かに、な」
もう一人の子も、頷いてみせる。
「1ヶ月位前やったよね……ほんま、最初に見た時はびっくりしたわ」
(1ヶ月前……だって?)
逢わない間に何があったのだ?昨日の電話では、何も言ってなかったのに……。
記憶を辿ってみる。確か、フィールドワークの帰りに火村が私のマンションに泊まっていったのが最後に逢った時で……。
『悪いな、突然』
あの日、遅くに訪れた詫びを口にして、火村が現れた。
『いや、かまへんよ……どうせ起きてるんやから』
夜型の私にとっては、午後11時など、宵の口だ。
食事はすんでいるという火村と自分の為に、つまみと大吟醸を出す。
『……この時期に冷酒かよ』
『ええやん、そういう気分なんや』
『これ、貰い物だろ。こんな高級そうな酒、お前が自腹を切るとは思えん』
『…………文句言うんやったらやらんで』
『失礼致しました。ご相伴させて頂けないでしょうか、有栖川センセイ?』
などと言う軽口の応酬から始まって、喉越しの良い酒に誘われ、いつもより早いペースで飲み交わしながら、今日のフィールドワークのこと、今取りかかっている原稿のことから、今後のスケジュールへと話題が移ってゆく。
『なんや、12月はお互い忙しくなるんやなあ』
年末に向けて忙しくなるのは、助教授も作家も変わらないらしい。
『さすがは、先生が走る師走や』
そんな下らないことを思いつき、くすくすと笑い出してしまう。……今思えば、飲み慣れない日本酒に相当酔っていたのだろう。
『ご機嫌だな、アリス』
そんな私を、不機嫌そうに火村が眺める。
『暫く逢えないって……判ってるのか?』
『あ……』
『今気付いたって顔だな』
『すまん……』
なんという鈍さだろう。やはり相当酔って……(以下略)。
『ったく……いいか、アリス』
謗る視線に無言で俯くと、
『こんなことも……』
ずい、と顔が近づいて……、
『できなくなるんだぜ?』
触れるだけの口づけを唇に残し、ゆっくりと、見せつけるように離れてゆく。
『火……村』
離れていく温もりが寂しくて、
『そんなん、嫌や……』
気付けば自分から抱きついてキスをしていた。もはや、酔っていたとしか……(以下略)。
『いつも、そう素直だといいんだが』
微かに表情を緩めた火村の手が、シャツのボタンを外してゆき……(以下略:こんな所で思い返せるかっ)。
慌てて、次の日の朝まで、記憶を早送りしてみる。
『起きろ、アリス。飯が冷める』
軽く揺すられ目を覚ますと、銜え煙草の火村がにやりと笑っていた。
『おそようございます、有栖川センセイ……もう、11時だぜ』
『……誰のせいや』
空が白み始めるまで、眠らせてくれなかったくせに。
『さあ?』
詰る瞳で見つめても、火村は涼しい顔のままだ。溜息を返し、朝食が並んでいるテーブルにつく。
『相変わらずマメやなあ、君は』
スクランブルエッグとサラダ、クロワッサン、ミルクのたっぷり入ったコーヒーを眺めて呟くと、
『何なら、嫁に来てやろうか?』
なんぞとぬかしやがる。しかも後ろからひとを抱き締めた上で、だ。
『銜え煙草で起こしに来る新妻なんていらん』
『まあ、どちらかといえば、アリスの方が嫁さんだよな……俺のとこにくるか?』
『君、まだ酔うとるやろ……朝っぱらから何言うねん』
『……夜なら良いんだな?』
『ええかげんにせえ』
邪険に腕を振り払い、思いっきり睨み付ける。
『つれないねえ……昨夜はあんなに可愛かったのに』
『……っ!』
真っ赤になって口ごもってしまった私のこめかみにキスをひとつ落としてようやく離れていったものの、火村は真向かいの椅子に腰掛け、にやにやと笑みを浮かべている。
そんな顔を見るのがしゃくで、乱暴に新聞を広げて遮った。
その後30分程経ってから、火村は京都の下宿へと帰っていったのだが……。
(別に変わった事なんて……)
恥ずかしいことだが、あんな風に私をからかうのは、火村の日常の行動なのだ。
(いや、そういえば……)
もういちど、朝食の席の……質の悪い新婚ごっこの後まで記憶を戻す。
『どうしたんや?』
紙面から顔を上げると、えらく厳しい表情で目を眇め、眉間に皺まで寄せた火村がた。
『え?』
『なんか気になる記事でもあったんか?』
問いかけながら覗き込むと、彼の方に向いていたのはスポーツ欄だった。阪神ファンの私ならともかく、野球に何の興味のない火村が、選手の年棒だの監督の人事なぞに興味を持つわけがない。
『別に……何でもねえよ』
私の手から取り上げ新聞を閉じた火村に、それ以上の事は訊けなかったのだが……。
(うーん……なんやって言うんやろ……)
考えてみても、浮かぶ筈もなく。
その時、慌ただしくドアが開いた。
「すまない、遅れてしまったな」
(火……村?)
教壇に立った人物は、確かに旧知の友人……いや、火村の言葉を借りれば『1ヶ月も逢っていない恋人』だった。ただ……。
「早速、講義を始めよう。今日は……」
火村が椅子に腰掛けたところで目が合った。助教授はにやりと笑みを浮かべると、さりげなく視線を外して、淀みない口調で話し始めた……。
「どうした、アリス」
講義が終わった後、私達は火村の研究室へ座を移していた。じっと凝視する私に、火村がコーヒーを差し出す。
「どうしたはこっちの台詞やっ」
見下ろしてくる顔に、人差し指で指し示してやる。
「君、いつからこんなものかける様になったんやっ」
「ああ……」
薄く笑い、火村は細い銀のフレームの眼鏡を中指で押し上げた。
「字が読み難くて、1ヶ月程前から……な」
「老眼か?」
「馬鹿野郎」
言葉とともに、私の頭に平手が直撃した。
「痛っ……何すんねん」
「お前が馬鹿なことを言うからだ」
憮然とした表情で、火村が煙草を銜える。
「眼科医によれば、軽い近視だとよ」
「へえ……」
もう一度、ちょうど煙草に火を点ける為こころもち下を向いた火村の顔を、まじまじと観察する。
シャープな輪郭、すっと通った鼻筋、秀でた額。
俯いたせいで目にかかる前髪を左手が煩げにかきあげ……そのついでの様に、指が眼鏡を押し上げる。
(似合いすぎや……)
薄いガラスと銀色のフレームは、無言で外界との接触を拒んでいるかのようで……それが余計、彼の鋭く怜悧な容貌を引き立ていて。
いささか近づき難い雰囲気が増してはいるが、女生徒達が騒ぐのも判る気がする。
「………アリス?」
どのくらい、そうしていたのだろう。気付くと顔を上げた火村がまっすぐにこちらを見ていた。にやにやとした笑みを浮かべて。
「あんまりじっと見惚れるなよ。照れるじゃねえか」
「あ、ぁぁぁぁ……なに阿呆言うとんのやぁっ!」
ずい、と近づかれ、つい身体を引く。
「……逃げるなよ」
熱を帯びたバリトンが耳をくすぐる。そっと、火村の両手が私の頬を包み込んだ。
骨張った、でもすらりとして器用に動く指が、すうっと撫で下ろしてゆく。
「逢いたかった……」
額に、こめかみに、頬に……そして唇に、何度も口づけが降りる。
ひんやりとした微かな違和感を残し、近づいては離れていくさまを、目を閉じることすらできずに見つめていた。
「上の空だな……何を考えてる?」
そんな私を不機嫌な表情で、火村が見返す。
「うん……君が……」
違和感の原因は、頬に触れた眼鏡の蔓とレンズ。
「なんだか……知らん人みたいで、戸惑ってもうた……」
いつもより少しだけ傾けた顔の角度は、すっきりとした顎と高い鼻梁を余計に意識させ。
レンズ越しに見える伏せた瞼は意外と睫が長くて。
だけど触れる唇は、確かに自分の知っている火村のもので。
「全く………」
がっくりとわざとらしく、火村が肩を落とす。
「いつまでも新鮮でかわいい反応をすると喜ぶべきなのか、たかがこんなもの一つで別人にされたと怒るべきなのか……」
左手が私の頬を撫で……右手は見せつける様に眼鏡を外して胸ポケットに差し込んでしまう。
「なあ、アリス。どんな格好していても俺は俺なんだぜ?」
手を取られ、まずは甲に……それからゆっくりと指の一本ずつに口づけが落ちる。
「そんな大事な事を忘れるんじゃねえよ、馬鹿」
「ひむら……」
指先から、私の躯を甘い痺れが満たしてゆく。
この男からしか与えられない、もの。
「好きや……どんな君でも」
「やっと言ったな」
思わずもらした言葉に、火村が破顔する。
目尻まで下がる、まさに満面の笑みがくすぐったい。
「………いい男が台無しやで、それじゃ」
「うるせぇよ」
それ以上喋るなと言わんばかりの、噛みつく様なキス。
そんな、余裕のないさまも愛しくて。
「大好きや、火村」
きつく広い背中を抱き締めて、火村が与えてくれるキスに酔った。
(FIN)
2000.3.16
改訂・6.11
はい、くまちゃんこと宮沢 瑛さまからいただきました! ハッピーエンド推進委員会さんにアップされていたものです。 このたび委員会さんに閉鎖に伴い、こちらにお越し頂きました! これが、くまちゃんの記念すべき「ヒムアリ第0作め」なのだそうです。光栄です〜〜 「いつかは!」と野望を抱きつつ、結局最後まで委員会さんに入れなかった私には、今回初めて拝見できて 2重の喜びでございます〜!(>_<)o" うきゅう〜 |
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