かそけきライン
「……でな。こうなったわけなんや」
アリスは長い話をそう締めくくると、火村の返答を待つように耳を澄ませた。
時刻は深夜を過ぎている。
肩に受話器を挟み込み、1口分だけ残っていたコーヒーを流し込むと、どれだけ自分が話していたのかが良く判った。喉はすっかり渇いており、1口だけでは物足りないと思ってしまったのだ。しかし、ここからキッチンへ移動すると、電波が通じにくくなってしまう。もう少し様子を見て、どうしても喉が渇くようであれば、一言断ってキッチンへ移動しよう。
そう結論づけたアリスは、再び、受話器の向こうへと意識を飛ばす。
静かだった。
街のネオンも既に消えはじめている。
車道を走る車の音も聞こえない。
―――やけに静かすぎないか?
アリスは何時まで経っても返ってこない返答を待ち、首を傾げた。
すると。
『―――……』
穏やかな寝息が聞こえてきたのだ。
その瞬間。
胸を飛来した様々な思いを、どう表現すれば良いのだろう。
人の話を聞かずに寝やがって、と思った。
その次の刹那には、疲れていたのではないか。それにも関わらず、付合わせてしまっていたのではないか、と後悔が過ぎり。
更にその奥から。
それでも、電話を切ろうとはしなかった男の心情を、愛しく思う気持ちが湧いて出てきた。
静かに、よくよく耳を澄まさなければ、聞こえないほどに静かに。
繰り返される寝息。
―――穏やかな眠りを。
気持ちの良い眠りを、君は味わっているだろうか。
アリスはそんなことを思いながら、耳を澄ます。
隣りに寝ているように聞こえる火村の寝息を聞く為に。
―――火村。
夢も見ずに寝てくれ。
どうか。
もし、夢を見るのであれば。
そこに……。
願わくば、俺を出演させてくれ。
眠りの中までも、共に。
電話を切ることも思い付かないで寝入ってしまった君と、共に。
君が目覚めるまで、このまま待ち続けるから。
どうか。
アリスは立ち上がり、書斎からリビングへと移動すると、ソファに寝転がる。
その耳元に、静かな寝息を繰り返す、小さくも大きい受話器を大事そうに置いた。
そして、ゆっくりと目を閉じたアリスは、先に旅立った彼の人に向け、小さく囁いたのであった。
「お休み、火村……」
◇◇◇◆◆◆◇◇◇◆◆◆◇◇◇
ガチャン!! と派手な音が耳音で鳴り響き、火村は肩を揺らして、突っ伏していた机から顔を上げた。
猫達が何か悪戯でもしたのか、と咄嗟に辺りを見回したが、何の異常も発見できない。寝るには不自然な体勢で寝入っていたためか、首筋の骨が鳴ったのを耳にしながら、男はがしがしと髪をかき乱す。
なんだったんだ、一体。
声には出さず、そんなことを思った火村は、起き抜けの一服をしようと煙草へと手を伸ばし、その脇に置いてある受話器に目を留めた。
「―――……あ」
思わず声が漏れてしまったのは、その通話ボタンがオンになっていることを見て取ったからだ。
そういえば、と記憶を手繰り寄せてみる。
昨晩、アリスと電話をした後に、通話を切った記憶がない。
火村は髪を更にかき乱し、溜め息を洩らした。
話している途中で寝てしまうとは、しくじった。
アリスはきっと怒っているだろう。
自分から近況を話すように水を向けておきながら、寝入ってしまった火村に対して。
苦み虫を潰したような顔をして、火村は受話器を取り上げる。
念のためにと耳を当てれば、やはり「ツーツー」と素っ気無い通話音。
やれやれ。肩を竦め、ラインを切った。
―――悪かった、と電話をした方が良いのだろうが。
ちらりとプラスチックに覆われた小さな機械を視界におさめる。
電話をするタイミング、というものがあることを、アリスと付合い出して、火村は知った。
声が聞きたい。話したいことがある。それだけで繋げたラインを、相手が受け止めるのに必要なタイミング。それが功を奏せば、そのラインは見えない距離を、時間を上手に縮めてくれるものなのだ、と。
離れていれば、いるほど。
会えない時間があれば、あるほど。
そのタイミングを見極め、上手く繋げなければならない。
火村は小さな煙草の箱を手の中で弄び、机に置かれた時計に目をやる。
あと少しで昼を過ぎる。
アリスが怒って寝たとして、そろそろ―――本当にそろそろ、起きても良い時間ではある。
火村はふむと顎をさすり、一端は置いていた受話器を取り上げた。
短縮を指定し、耳に当てる。
―――……出ない。
まさか、自分からだと予感してでないわけではあるまい。
見えないだけに、様々な憶測が瞬間浮かんだ。
それを打ち消すようにして、電話を切る。
もうどこも乱しようがないほどに乱れた髪に手を差し込み、火村は唸り声を上げて、電話を睨み付けた。
もどかしい。
側に住んでいれば、すぐにでも駆けつけて、異常などないことを確認してやるのに。
電話の恩恵を、アリスと付合うようになってから、良く噛み締めることが多くなったが。
こういった時では、その恩恵もたいした慰めにはならない。
今。
すぐにアリスの声が聞きたいのだ。
火村は再度受話器を取り上げると、短縮を押す。
―――どうか。
出てくれ。
何にもないと、安心させてくれ。
それから、寝入ってしまったことを詫びさせてくれ。
火村はじっと乱雑に本の山が築かれた部屋を見つめながら、耳を澄ました……。
◇◇◇◆◆◆◇◇◇◆◆◆◇◇◇
「もしもし?!」
『―――アリス』
「火村か?」
『ああ』
「わ、悪い! さっき、電話してくれたやろ?」
『……なんで謝るんだ?』
素っ気無い火村の言葉に、アリスは鼻の頭に皺を寄せ、「参ったな」と呟く。
「ちゃうねん。ええと、どこから説明すればええんかな」
『アリスが何を言いたいのか判らねぇが。先に謝らせてくれ』
「謝る?」
『ああ。どうも寝ちまったらしいからな』
「え? ああ」
そんなこと。
言葉にはせず、口調でそう思っていることを伝えると、火村は神妙な声で、
『悪かった』
「気にしとらん。それより、俺も悪かった」
『悪い? 何が。昨日の電話なら、俺の方が悪いだろ? お前の話の途中で寝ちまったんだ』
「それは、だから、気にしとらんて。疲れとったんやろ? ちゃうねん。さっき、電話くれたやろ?」
『ああ』
「その前に、派手な音がせぇへんかったか?」
『した。―――驚いたな。アリスにしては鋭いじゃねぇか』
「俺にしてはっていうのは余計なことや」
ムッとして殊更に冷たい口調で言ってやる。
しかし、とにかく謝らなくては、と思い直したアリスは、すぐさま口調を変えて、
「あんな。実は俺、電話切らんで寝てたんや」
『―――それで?』
「そんでな。寝返りを打った拍子に、落としてもうたんや」
『ああ。判った。それが派手な音の原因だな?』
「そうや」
『そのあと、俺の電話に出れなかったのは、落ちた受話器を見付けられなかったせいか。さては、アリス。部屋が惨澹たる状態になってるな?』
「否定はせぇへん」
『少し位はして欲しかったぜ。誰が片付けるんだ? 俺を当てにするなよ?』
「しとらんわ!」
『どうだか』
「―――とにかく!」
実はほんのちょっぴり、手足としてこき使ってやろうと思っていたアリスは、咳払いをして、場を仕切り直すように声を張り上げた。
「悪かった!」
『―――俺も悪かったよ。元はといえば、俺が寝ちまったのが原因だもんな』
「……なんか、変なもんでも食ったのか?」
『ああ?』
「火村が殊勝な言葉を吐いてる……」
『―――どういう意味だ、ああ?』
「そういう意味や。あ、通りで、雨が降りそうな気配になってると思うたわ。君が普段、せぇへんようなことを言うからやな」
『ああ。通りでこっちは雨が降っていると思ったぜ。アリスが珍しく素直に可愛いことをしてくれたせいだったんだな』
「―――なんや、可愛いって」
『可愛いだろ? だって、アリス』
ふいに、火村が声を低めた。
寝起きの、まだ、あまり喉が開ききっていない声が、低く、静かに囁きかけてくる。
『俺の寝息を耳に寝入ったんだろ? お休みって、言ってくれたんだろ?』
「―――」
『俺の声が聞こえなくても、電話が繋がっていることで、俺を感じてくれてたんじゃねぇのか?』
「君はずるい」
『ああ。俺はずるい』
「それを判ってて、直そうとはしないんやから、ホンマ、始末に負えんわ」
『だが、それが、俺なんだよ。判ってただろ?』
「ああ」
『アリス』
「―――なんや」
『言い忘れてた』
「なにを?」
『おはよう』
明瞭に、気持ち翌朝を迎えたように、火村の声が、一日の始まりを告げる。
アリスは軽く見張っていた目を和ませ、
「ああ」
『―――』
「ああ、おはよう、火村」
そう答えて、深い笑みに、顔を彩らせたのであった。
鶴川さんのお話第2弾、いただきました〜(*^-^*) このお話を頂いた経緯は、まずチャット中に呟かれた某お話の争奪戦に負けた我々(複数)を、 鶴川さんが不憫に思って下さって 「今まで呟いた中で気に入ったのがあれば、手直ししてさしあげますよー」 と言ってくださったのでした。(概ね合ってるかな?) そういったチャンスは逃さない私が早速、鶴川さんの呟きログの中から、ほとんど完成されていると思われる 1つを送ったところ、なんと3倍くらいの長さになって帰ってきました。 放流した鮭が帰ってきたようだわ。(失礼/しかも、放流前の稚魚の段階からして、いただいたもの…) これではまるでほとんど書き下ろし…… はう、なんてラッキーなんでしょう! 鶴川さま、お休み中なのに、本当にありがとうございました〜〜<(_ _)> |
H12.6.20