プードル
夏の夜。
人ごみの中、アリスは上機嫌で歩いていた。
隣には火村。嫌がる助教授を、なんとか花火大会に連れ出すことに成功したのだ。
日中の、ジリジリと焼けるような暑さは日没と共に引いて行った。熱はまだまだもったりと残っているが、夕方から吹き始めた風が、温い空気を少しずつ入れ換えてくれている。
「やっぱ、日頃の行いやなぁ」
「あん?」
「よう晴れてるし。風がちっともなかったら、煙でせっかくの花火が見えなくなってまうやん。これくらいがちょうどええんちゃうか」
すでに打ち揚げは始まっている。来る途中のコンビニで買った缶ビールを行儀悪く飲みながら、同じく河原に向かう人の波に合わせてゆっくりと歩く。
「この天気がお前のおかげだってか」
「天気はここに来てるみんなの行いやろうけど、火村が付き合うてくれてるんは俺の行いや」
えへんと胸を張る。
「ほぉ、先生は日頃、俺に何してくれてるって?」
「うーんとなあ……」
火村のちょっとした嫌味も今は通じない。
ワクワクして。
花火が1つ揚がるたびに、もちろん花火も見たいような、それを見る火村の横顔もずっと見ていたいような、中途半端な気分になる。目は2つ付いているのに1つのものしか追いかけられないなんて、なんだか不便。
ドキドキする。
夜空を彩る光は辺りを照らしたり影を作ったりするほど強くはないのに、見慣れた横顔がいつもと違う。
不意に目が合って、頬に血が昇る。
「タ、タバコ吸うたらアカンよ。危ないで」
「解ってるよ。 ……ったく」
顔の熱が引かない。
夜に紛れて判らないといい、と願いつつ、アリスはビールを既に飲み干してしまったことを後悔した。
「このへんに居ようぜ」
土手の少し手前で立ち止まる。確かに、堤防の上まで登ったら、身動きもできなくなりそうだ。
「せやな。……あ、あそこ夜店立ってる」
祭りの宵宮に立ち並ぶほどではないが、それでも数々の露店がそこここで店開きしている。
「ええ匂いやな〜 火村、イカ焼き食お。それともホットドッグの方がええ?」
「さっそく食い物かよ」
「こういうのを手にしてこそ、風情ってもんやないか。正しい日本の花火や」
「それを言うなら、浴衣にうちわくらいのアイテムは身につけて来い」
ぶー。
今日のアリスは見事に普段着だ。悔しくて持っていたコンビニの袋の上から、中のビールの空き缶をベコっと握りつぶす。
「ほら、風情とやら、買いに行くんだろ」
「あ、うん……」
火村が背中を向ける。
視界にはいる光の饗宴。
周りからどよめきが起き、少し遅れて太鼓のような音が空気を震わせる。
大スターマイン。
「うわぁ、きれいやなぁ……」
見とれていたアリスが吐息と共に呟く。
「なあ、ひむら……」
火村?
振り返って話し掛ける相手はいなかった。
キョロキョロと辺りを見回す。
いない……
目に付いたイカ焼きの店に走っても、他の店の前を目で捜しても。
「どこ行ったん……?」
変わらずあがり続ける花火の、音だけが妙に耳に響いた。
肩車に大はしゃぎの子供を連れた、自分と同年代のパパとママ
一目でそれと判る恋人同士
親戚一同でやって来たような、老若男女
3、4人できゃあきゃあ歩く浴衣姿の女の子たち
わたあめ、べっこうあめ、かき氷
ヤキソバやたこやきの焦げたソースの匂い……
そんな中で自分だけが取り残されたような、
1人だけ除け者にされたような、
そんな気がして、アリスはその場に立ち竦んだ―――
「アリスっ」
ふいに後から腕をつかまれ、アリスに現実が戻ってくる。振り返ると、少し息を切らせた火村が立っていた。
「ひむら……」
「全く、迷子になったらその場から動かないのがお約束だろう」
「火村が迷子やと思ったんやもん……」
憎まれ口を叩いてみても、自分がどんな顔をしているか、アリスは自覚していた。
「来いよ」
腕を捕まれたまま歩き出す。
「なんや。痛いやんか」
どんどんと人ごみに分け入って行く火村に戸惑う。いったい、何処に行くつもりなのだろう。
「ちょっとここで待ってろ」
「えっ、いやや!」
唐突に立ち止まった火村の言葉に、アリスは慌てて離れようとする腕をつかんだ。
やっと逢えたのに。
先程の感覚を思い出して、置いて行かれまいとぎゅっと力を込める。
「すぐ戻る。いいか、絶対動くんじゃねえぞ」
火村はアリスの手を振りほどいてさっさと行ってしまった。
嫌だって言ってるのに!
「火村のアホ。花火の、アホ……」
ポツリと呟く。ついでに、変わらぬテンポで揚がり続ける花火に、やつ当たりするアリスだった。
「ほら、手ェ出せ」
火村は5分ほどで戻って来ると、咄嗟に両手を上に向けたアリスの左腕を手に取った。
「目印だ」
アリスの左手首に結び付けられたもの。それは、捻ってプードルの形に形造られた、赤い風船だった。
「なんで普通の丸いヤツがねえんだろうな」
ずいぶんと可愛らしいが、ピカチュウ柄の銀色の円盤型でないだけまだマシというものだ。
「こんなもん2人で買いに行けないだろ。 ……アリス?」
火村はじっと手首を見詰めたままのアリスを覗き込んだ。はっと目を合わせると、アリスは夜目にも鮮やかに頬を紅潮させた。
「こ、こんなん恥ずかしいやん……」
「俺は店のオヤジに変な顔されたけどな。お前なら似合うよ」
本当は風船自体の事ではなく、手首に結び付けられたことに、なんだかうろたえてしまったのだが、それは言わないでおくことにした。
代わりに、風船を買う姿を想像してふきだしたアリスの頭を、火村はぐしゃぐしゃに掻き乱した。
「あ、またスターマインや!」
アリスは歓声を上げた。今度ははぐれることのないよう、手はしっかりと火村のシャツの裾を掴んでいる。
さっきまでただの光の輪だったのに、火村が隣にいると途端にジンと心に沁みるような、煌きと鮮やかさが増したような気がするのはなぜだろう。
花から華になったような明らかな見え方の変化に、我ながら単純やなぁ、とアリスは自分を笑った。
「なぁ、終わりの5分前になったら帰ろな」
「なんでだよ。1番いいとこじゃねえか」
「うん…… 解っとるんやけどな。終わり近くなると、これでもかってくらいに尺玉の連発とか、大スターマインとかナイヤガラの滝とかやるやろ? そんで、いっちゃん最後に特大のが1つ揚がるやん。それが……」
「―――寂しいって?」
火村の言葉に、アリスは小さくうなずいた。
枝垂れ柳のように大きく放物線を描いて落ちてくる光の帯のまわりで、小さな光がキラキラと瞬く。その瞬間はとても好きなのだが、最後の煌きが消える頃にようやくズシンと腹に響く音が届いて、それが饗宴の終わりを告げる。
その瞬間が嫌だった。
楽しかった時間の終わりを告げられる。
火村とこうしている幸せな時間を、他の誰かに終わらせられるなんて、絶対にゴメンだった。
「ええやろ? せやから、今はもっとよく見えるとこに行こ」
ずんずんと歩き出したアリスを、火村が追う。
「先に行くな、またはぐれるぞ」
「平気や! そしたらまた火村が見つけてくれるんやろ?」
振り返って、アリスは左手首をクイクイと上下して見せた。
その動きに合わせ、赤いプードルはアリスの心を映したように、うきうきと飛び回っていた。
H11.7.31
花火大会で迷子… お約束なネタですね。
早い者勝ち! とばかりに上げてしまいました。……って、決してもう早くない?(笑)
ちっとも、暗闇と公衆の面前じゃなかったです。ごめんなさい(泣)
なんか纏りがないですが、ワタシ的には風船がメインです。