心 配
「少し眠る」
そう言ってごろりと横になった火村に倣い、私も身体を横たえた。少し迷った末、火村の方に背を向けて目を閉じる。眠るには、簡単に火村の姿が目に入らない方がいいかと思って。
眠ると言ったくせに、いくらもしないうちに火村が起き上がる気配がした。暫くごそごそしていたかと思うと、窓を開ける音がして冷たい風が吹き込んでくる。
「まだ降ってるんか?」
「ああ」
寒いやんかー。入り込んできた冷気に、私は首まで布団に潜り込む。戻ってきた気配に構わず目を閉じていると、火村の手が私の後頭部にそっと触れた。
「見事に瘤になってるな。―――痛むか?」
「ん、……少し」
ズキズキする痛みはなりを潜めていたが、まだ心臓の鼓動に合わせるような、奥の方で疼くような感じが残っている。それに、触るとやっぱり痛い。
と、手の代わりに何か冷たいものが押し当てられた。
「それで冷やしとけ」
「んー、冷たい。何?」
目を開けて手にとってみると、幾重にも畳んだビニール袋の中に雪が詰められていて、溶けても大丈夫なように、更に2重に包んであった。
「気持ちいー。ありがと」
「なんで俺を起こさなかった?」
「……よう眠っとったから」
「…………」
すうすうと寝息を立てて熟睡している火村を、起こすことはできなかった。いつだって、私は火村に穏やかな眠りが訪れて欲しいと思っているのだから。
「今度何かあったら、必ず俺を起こせよ。いいな」
「せやかて」
何か言いわけしようとした私の向きを変え、覆い被さるようにして火村が抱き込んできた。
「この、バカが……!」
「ひむら……」
心配、掛けたんだ。『馬鹿は禁句やー』っていうお約束のツッコミも、今は飲み込むことにする。確かに私が逆の立場だったら、人前だろうと何だろうと、何を口走ってしまっていたかわからないから。
「スマン。その、ごめん。堪忍な?」
「もう、2度とゴメンだ……」
表情は見えないけど、わかる。頭の上から直接響いてくる掠れた呟き。
雪の枕を押し当てた上から、壊れ物のようにそっと頭を包み込んでくれる火村の手が、声と同じく微かに震えているのが切なくて。嬉しいような哀しいような、ああもう、何て言ったらいいのかわからないくらいの想いが、火村に向かって溢れだしていく。大切で、大好きで、愛してる―――
火村を、これ以上悲しませることにならなくてよかった……
私は、ふいに襲ってきた想いに流されそうになりながら、火村の腕に頬をすり寄せた。
全く、心臓に悪い。
下手をしたら命を落としていたかもしれないのだと、コイツは解っているのだろうか。
今回の犯人は冷静に、見られないよう昏倒させるだけに手加減したようだったが、もしも逆上していて(そっちの可能性の方が高いのだ)思いっきり殴っていたとしたら。あるいは、犯人と顔を合わせてしまっていたとしたら。間違いなくその場で、アリスは口を封じられていたことだろう。
冗談じゃない。全く、冗談じゃないぞ。
アリスに起こされた時点では、『下の書斎に変な奴がいる』 としか聞かされていなかった。事情聴取の間の 『透明人間と向かい合って……』 云々のセリフにも、アリスらしい発想に苦笑を誘われたりしていたのだが。
殴られて気を失ったというくだりで、ざっと血の気が引いた。
ちらっとこちらを気にする申し訳なさそうな顔に、思わずこぶしを握り込んだ。なんだって、とその場で問い質すわけにもいかず黙って聞いていたが、アリスのヤツ、そんなこと一言も…… いや、確かにそんなことを話している暇はなかったのだが。
俺が呑気に寝ている間に、こいつがそんな危険な目に遭っていたかと思うとぞっとする。
取りあえずコブになっているだけで、吐き気もなさそうだし一応は大丈夫そうだが、そうと知っていたら、あんなに動き回らせたりしなかったのに。
どうしてもアリスを立ち合わせずにはいられない状況で、それならきちんと見届けさせようと思った。いつも俺が何をやっているのか不安に思っているのを知っていたし、被害者も犯人も身近な人間なら尚更、突然告げられるよりはましなはずだと。
1度そう決めてしまうと、アリスが目をそらそうとするのが許せなくて、「見ろ!」と叱った。俺の見ているもの、感じていること、全てを見届けさせたくて。……そんなもの、俺のエゴでしかないというのに。
フィールドワーク。
期せずして立ち合うこととなった今回の事件は、初めは単なるフィールドワークの1つに過ぎなかった。自分たちが第1発見者だったので、警察に頼み込む手間が省けたな、というだけの。しかしアリスが当事者で、あやうく第3の被害者になりかけたとなると、俺にとっての意味が全然変わってくる。
俺は今回の犯人に対して、冷静に臨むことができるだろうか。
アリスを手に掛けようとした者に対して、俺からアリスを奪っていたかもしれない者に対して、かつて抱いたことのある感情を持たずにいられるだろうか……?
今になって、後悔している。
感じていること全てを見届けさせる? もしも俺が再びあの感情に支配されたとしたら、それをアリスに気付かれたとしたら、この先は一緒にいることなどできないだろうというのに。もう、2度と。
―――大丈夫。アリスはここにいる。ちゃんと生きて、ここにいてくれる。
アリスがいるから、俺はまだ日常に未練がある。いくら抗いがたい魅力に引き寄せられるといっても、アイツらの誘惑に身を委ねることはしない。
自分が『行きたくない』からだと断言できない俺は、まだまだ未熟者だ。なんてこった。きちんと乗り越えたつもりが、こんなにもアリスに依存してやっと立っていたなんて。俺はちっとも自立していない。アリスに甘えて、それにすら気付けないでいた。
犯人は、俺が見付ける。
留まった者の礼儀と、気付かせてくれた礼も兼ねて、犯人は俺が見付けてやる。
こんな私情が入ることが、もう未熟さの現れなのだろう。構うもんか。誰であってもアリスと親しい者なのだろうから、せめてアリスを殴った礼だけはしないように努力はするが。せいぜい飛び立ってしまったことを後悔するといい。
凍ったように固まっていた火村が、微かに身動ぎした。自分のベッドに戻るつもりなのだろう。
「ひむら」
私は離れようとする火村の腕を掴んで、布団を少し持ち上げた。少し目を見開いて、すぐに潜り込んできた火村の、冷え切った身体に腕を回す。さすがにベッドは狭かったが、それがちょっと懐かしくて。なんだか就職した当初のアパート時代を思い出した。
「犯人がアンチミステリのヤツやったら、これで君も巻き添えや。俺の顔知っとっても、君を起こさずには無理やし。どっちが作家か迷うくらいなら2人一緒に殺るやろうしな」
「ああ、それもいいな……」
本当は、火村にはそんな犬死にはしないで、きちんと犯人を捕まえてもらいたい。けど私が逆の立場だったら、後に遺されるのはゴメンだから。
な、火村。俺らどっちかが遺されても、その後も生きていかなアカンのやろな。―――キツイな。
そんなことにならんよう頑張るから。君も、気ぃつけてな……
少なくともその時の私は、もう2度と火村を心配させるようなことはするまいと、固く心に誓っていたのだ。
―――が。
「全く、どれだけ俺の寿命を縮めたら気が済むんだお前は!」
翌日。
今度は自分の不注意で屋根から滑り落ちそうになったおかげで、部屋に戻ってから昨日以上の場面が繰り返されることとなった。怒鳴られて、降るような皮肉を浴びせられて、つぶれそうなほど抱きしめられて。
……仕方がないではないか。わざとやったわけじゃなし。
そう思っても、あんな足手まといぶりを発揮してしまった後では、返す言葉もない。
でも、でもでも、私はいつでもそういう気分を味わっているのだから。火村がフィールドワークに出ている間、ずっと心配でたまらないのだから。たまには火村も心配してくれてもいいと思うのだ。火村の研究方法に口を出すつもりはないが、そうせずにはいられない彼を見送るだけというのは、結構キツイものがあるから。
……なんて思ってしまったことは、火村には絶対に言えないけど。
私は警察官の妻ではない。見送って、無事を祈りながらじっと帰りを待つだけなんてイヤだ。できれば自分の足で追いかけたい。ちゃんと自分の目で確かめたい。
それには、これ以上のドジは踏まないようにしないとな。火村に、2度と現場に連れて行ってもらえなくなってしまう。少しでも助手らしい働きをしてみせてやらないと……
でももう少し。もう少し待った方がいいかな?
屋根の上で石町たちから仕入れた情報を、早くデータとして火村に伝えなければとうずうずしながら、私は火村の腕の中でそっと機会を伺う。
もう少し。
少なくとも、私をきつく抱きしめる腕の震えが治まるまでは、おとなしく待っていようと思いながら……
H12.8.25
なるべく深刻にならないように…… って、わざわざ深読みしといて言うセリフではないですが(笑) |