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          告 発



 はっと目が覚めると、まだ辺りは真っ暗だった。
 隣で眠る男の寝息を伺い、自分が間違っても悲鳴など上げていないことを確認する。
 夢を見た。
 ドキドキと心臓が音を立てている。
 人を殺すという火村の悪夢ほどではないものの、私にとってはかなり堪えた。楽しい夢は覚えていたくても目覚めると逃げて行ってしまい悔しい思いをするのに、こんな時ばかりはっきりと再現できるなんて皮肉なものだ。



 学校が火事になった。
 小中高とかつて私が通った校舎を混ぜ合わせたような、いかにも夢らしい、いい加減な建物。
 非常ベルが鳴っているのに誰も逃げようとしない。避難訓練よりも呑気な様子でトロトロと歩いている。確かにまだ火も煙も全然見えないし、私自身、緊張感のカケラもなかった。私は小説を書きかけたノートを片手に(このあたりが夢ながら笑える。仮に中学生の頃だとしたら、まだ小説など書いたりしてはいなかったのに)人より早く非常口から外に出た。早く校庭にでも落ち着いて、続きを書きたかったのだ。

 一歩外に出て振り返ると、校舎全体が炎に包まれていた。
 目覚めてから考えれば、馬鹿な展開だと笑えもするのだが……

 信じられなかった。
 そんなことあるか!
 逃げ遅れた生徒たちが窓から助けを求めている。結果的に自分一人だけが逃げてしまったのだ。



 目が覚めて、私は恐ろしさに震えた。
 友達だって大勢いた。なぜ彼らの手を取って一緒に走らなかったのだろう。早く逃げようと一声掛けなかったのだろう。
 自分の本質がこんなにも自己中心的なものだったのかと思い知らされた気がした。
 いや、私は別に、人を押し退けて逃げたわけじゃない。あんなにあっという間に火が回るなんて、誰にも分からなかった……などと心の中で言い訳をして、そんな自分がますます嫌になる。
 私という人間はこんなにも自分勝手な人間だったのか!



「アリス……?」
 降ってきた掠れ声にビクッと反応してしまう。
「どうかしたか?」
 悪夢は人に話してしまったほうがいいと言うが、火村相手に夢の話など思いもよらない。
「いや……別に」
 それに、自分の醜い部分を晒してしまうような気がして、火村には知られたくないと思った。

 ……火村も? 夢にうなされる火村も、もしかしてそう思ってる? 
 ふとそう感じて思わず顔を覗き込んでしまったが、暗くて表情は判らなかった。
 黙ったままの私をどう思ったのか、火村は私の頭を抱え込んだ。その腕があまりに温かくて、涙が出そうになった。
『俺もきみにこうしてやればよかったんかな……』
 いつも聞こえないふりをしていた。学生時代からずっと。
 こんなに近くで眠るようになってからは気づかないのも変かと思い、ただ目が覚めただけを装って声を掛けていたが、何もなかったかのように再び横になる背中に、何もしてあげることができなかった。
 踏み込んでもいいものか解らなくて。一歩踏み出す勇気がなくて。

 私の一番の悪夢といえば、火村がいなくなってしまうことだ。
 死別だったり、女性問題だったり。
                     ……むこう側へ行ってしまったり……

 そんな夢に比べたら、どんなことでも平気だと思っていた。
 でも。
 自分の傲慢さは解っているつもりだった。自分の弱さも汚さも棚に上げて、きみを救いたいなんて思っていること。
 それは火村も気づいているはずだけれど、いつまでそれを私に許してくれるだろう?
 その資格がお前にあるのか、そんな立派な人間じゃないだろうと、夢は私に私の「本当」を突きつける。
 
『一緒にいたい』
 これは私のワガママだ。解ってるけど、火村とずーっと一緒に生きたい。
『きみを救いたい』 
 この大義名分がなくなったら、この先、私はどうやって彼の隣にいたらいいのだろう!



 ……校舎が大学ではないらしかったのだけが唯一の救いだ。
 赤い煉瓦作りのあの懐かしい建物だったとしたら、そこにいるはずの火村のことも考えずに一人で逃げたのだとしたら、私は自分を許せないだろう。
 火村のことだけは、捜したと思いたい。
 捜して、見つけて、一緒に逃げたはずだ。
 例え逃げられなくても、一緒に、一緒に……

 変やな。
 こんな気弱になっているのは全部夢のせいや。朝になれば普段の私に戻る。
 いくら自分が力不足であろうと、私から離れるつもりは毛頭ないのだから。
 だから、今だけ……




 火村の腕の力が、ほんの少し増したような気がした。私の息が湿っているのに気づいたのだろう。
 もう隠そうとするのはあきらめた。今だけ、今だけは甘えさせてもらおう。
 腕を伸ばしてしがみついた。
『ごめん、ありがとな、火村。今度は俺もこうしたるわ』
 火村の胸に顔を埋めて目を閉じる。今夜はこのまま眠ってしまいたい。
 黙ったまま、これ以上ないくらいに優しくいつまでも髪を梳いていてくれる指に、限りなく慰められながら。

H11.5.6


鬱アリス。
こんなつもりじゃなかったのに……(泣)