懸案事項
携帯にかけてしばらく待ったあと、ようやく繋がった電話に、俺は気の進まない用件を告げる。
「アリスか。悪い、急用が入った」
『ええーっ、なんで? 俺もうこっち来てんねんで。何でもっと早う言わんのやー』
電話の向こうでアリスの悲痛な声がする。
しかし言わせてもらえば、まだ約束の3時間も前だ。俺だってそういう事態になったらかわいそうだろうと、この時間にかけたのだ。マンションにかけたら留守電だったので、まさかとは思ったのだが……
『待っとっても終わらんのか? 今からすぐ行ってもダメ? ちょこっと顔見るだけでもアカンの?』
「スマン、今日は無理だ」
『じゃあ……明日ならええ?』
「…………」
約束した時のアリスの嬉しそうな様子を思い出す。特別なことはなにもない、ただ一緒に夕飯を食べて酒でも呑んで、下宿に泊まりこむといういつものパターンなのだが、アリスはいつも楽しみにしてくれている。
―――俺だって同じことだが。畜生。
『…………電源、切っといたらよかった………』
連絡が取れないからって俺の用事がなくなる訳じゃねえだろが、というツッコミは置いておいて。
アリスの悲しそうな声に、思わずぐらつきそうになる。どこでこの電話を受けているのか知らないが、道の真ん中で泣いてるんじゃねえだろうな。
「悪かったな、アリス。すまない……」
『……しゃあ、ないよな。解った。火村のじゃま、なったら、悪いもんな。今日は、あきらめる……』
「片付いたら電話するよ。今度はこっちから行くから……」
『ホンマに? じゃあ、電源は切らんどく。待っとるから』
……畜生め。これもみんな、あの妙な男のせいだ。
この研究室の窓から見えていることを解っているのかいないのか、校舎にもたれて時折こちらを見上げるサングラスの男に向かって、悪態をつく。
今のところ害はないと思っていたが、これで充分な害になったってわけだ。
昨日から妙な男がまわりをうろついている。
「先生、お見合いの話でもあるんですか!?」
昨日の昼過ぎ、ゼミの学生がいきなり言い出した。
「なんだ?」
「だって私、さっき変なおじさんに先生のこと訊かれましたよ。『火村先生ってどんな人ですか』って。ちゃーんと『すっごくいい先生です』って答えておいたから、安心してくださいね」
「なんで俺が安心するんだよ」
「だーって、あれ、お見合いの相手の素行調査なんじゃないんですか?」
ありがたいことに、そういった話は現在来ていない。
「どんなヤツだ?」
「えー、ふつーのおじさんってカンジ…… でも探偵さんって目立っちゃアカンのでしょう?」
興信所の人間……?
「あ、火村センセ。今日研究室の方に男の人が訪ねて行きませんでした?」
夕方、資料を返しに図書館へ行くと、カウンターから司書に呼び止められた。
「いえ、誰も。何か?」
「午前中にね、火村先生の論文が見たいって男の人が来はったんよ。取りあえず学会誌の置いてあるコーナーを教えてあげたんやけど、ものの10分もしないうちに戻って来はって。もうよろしいんですか、って声掛けたら、焦った顔して『ずいぶん、難しいんですねぇ』なんて…… 初めはどっか他の大学の人に見えたんやけど、違たみたいやねぇ……」
何者だ、そいつ。
「これから先生に会いに行くって言うから、お部屋の場所教えてしもたんやけど……」
「そうですか」
「変な人やったらどうしょう。かんにんな」
おろおろする司書に気にしないよう言い、俺は図書館を出た。
研究室に戻ると電話が鳴っていた。柳井警部からだ。
「ご無沙汰してます、警部。何か事件ですか」
『いえ。たまたま先ほど先生の下宿の前を通りかかったんですがね、サングラスの男が立ち止まって先生のお宅の方を伺っているようでしたので。念の為お知らせしておこうと思いまして』
サングラス? おいおい、探偵は目立っちゃいけないんじゃなかったのか?
運転中や繁華街ならいざ知らず、住宅地で使うには、怪しんでくださいと言っているようなアイテムだ。
「どんな男です」
『年は50〜60代くらいですか。中肉中背といったところで。私には見覚えがありませんので、ウチで扱った事件の関係者ではないと思うんですが』
ふうむ。
『まぁ、見張ってるというより、ただ見上げてるといった感じで、危険な感じはしませんでしたが。一応見巡りの方にも注意するよう言っときます』
「VIP待遇ですね」
『笑い事じゃありませんよ。万が一ということもありますから、気をつけてください。それでは』
……誰だ。被害者の遺族か、犯人の父親といったところか?
急に婆ちゃんのことが心配になってきた。ここで片付けようと思っていた書類をカバンに詰め込み、俺は研究室を後にした。
「あら火村さん、おかえりやす。お早いですなぁ」
下宿に戻ると、婆ちゃんは猫達と一緒に普段と変わらぬ笑顔で迎えてくれた。
「ただいま。なぁ婆ちゃん、今日サングラスの変な男見なかったか」
「へぇ、サングラス。ええ、ええ見ましたよ。なぁウリちゃん」
婆ちゃんの腕の中から瓜太郎が返事をする。畜生、こいつらがしゃべれたらな。
「前の道路でウリちゃんとコオちゃんが遊んでもろてましたえ。それがなぁ、モモちゃんのことも撫でようとした拍子に、引っかかれましてなぁー」
「そうなのか?」
桃を抱き上げて訊いてみると、彼女は悪びれた様子もなくニャーと鳴いた。お手柄、なのかもしれないが、まだ判らない。
「大丈夫ですか、て声掛けたんですけどな、慌ててどっか行ってしもうて……」
どうもよく判らない。なんなんだ、そいつは。
取りあえず婆ちゃんには、明日はなるべく外出しないようにと言っておいた。
そして今日。
一限から戻った俺は、研究室の前にぼんやり立っているその男を見つけた。
建物の中でもご丁寧にサングラスとは、怪しすぎて笑えた。
「何かご用ですか」
後ろから声を掛けると、跳び上がって「いや……」とかなんとか、もごもご呟きながら去って行ってしまった。
間違いなくこいつだ。だが、どうにも意図がよく解らない。
「ん……?」
そいつが立ち去った後に、紙が一枚落ちている。写真のようだ。
「これは…… 何でこんなものを持っているんだ」
それは学生時代の、コンパの2次会でのスナップ写真だった―――
覚えがある。
確か4年の、卒業間際だった思う。だからカメラなんかを持ってきた人間がいたのだろう。
ゼミの連中ばかりではなく、たまたまその場にいた人間も巻き込んで、けっこう大人数だった。俺は遠慮したかったが、一緒にいたアリスが「俺も行くー!」と言い出したため、断れなくなってしまったのだ。
仏頂面でタバコを咥えている俺の隣で、アリスが食いかけのポッキーを片手に笑っていた。
「……変わんねえな」
同じだけの歳月を過ごしているはずなのに、こいつは……
しかし困ったことになった。今日はアリスが来ることになっているからだ。
あいつはアリスのことを知っているのだろうか?
今のところ害はないようだが、不審なヤツには変わりがない。アリスに近づかせるわけにはいかない。
……という経緯があって、冒頭の会話になるわけだ。
後ろ髪を引かれつつ電話を切ったあと、レポートに目を通しながら男を監視する。むろん、向こうからは見えないはずの位置でだ。
しかし、向こうもこちらを監視しているのだろうが、どういうつもりなのだろう。
身を隠すでもなく、接触もしてこないというのは……
30分もそうしていただろうか。こちらに向かって歩いてくる、見慣れた姿が目に入った。
「来るなって言ったのに(言ってなかったか?)あのバカ!」
アリスはしばらく立ち止まってこちらを見上げていたが、名残惜しそうに振り返りながら歩き出した。ここまで来たついでに、図書館にでも寄るつもりなのだろう。とぼとぼという足音が聞こえるような気がした。
しかし、そちらの方角は…… と、あの男がアリスの姿を認めて、すっと校舎の陰に隠れたのが見えた。
いけない。あいつはアリスのことを知っている!
「アリス!!」
窓から怒鳴ったが聞こえないらしい。俺は部屋を飛び出した。
「アリス!」
すんでの所で、俺はアリスを捕まえた。
「え、ひ、火村っ!?」
後ろから腕を掴み、そのまま退がらせる。
「ここにいろ。動くなよ」
「ええっ」
アリスを校舎の壁に押し付け、その男の前に出る。もう悠長に様子など見てられるか。
「俺に、何の用だ!」
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場所を研究室に移して。
ソファに隣り合って座って、2人は横目でお互いをちらちらと気にしている。
「いったい何やってたんや、あんな所で。それに何やねん、さっきのサングラスは」
「かっこえかったやろ? でもこれやとあんまし見えへんのや……」
そう言って掛けなおしたメガネには度が入っている。サングラスには入っていないのだろうか……??
「仕事は?」
「昨日から休みや」
「……リストラされても知らんで」
やっぱり……、ちょっと変わってるか?
俺は取りあえずコーヒーを淹れる。あいにくとここにはインスタントしかないが、ないものはしょうがない。
……どうにも調子が狂う。
教授がどんなに偉い客を連れてこようと、コーヒーがインスタントだからと言って気後れを感じたことなど、1度もなかったのに。
どうやら俺としたことが、人並みに緊張しているらしい……
「いや、ホラ…… お母さんがあんまり『火村君、火村君』て言うもんやからな…… どんな子ォかお父さんかて気になるやないか」
―――昨日の彼女のカンは大当たりだったというわけだ。探偵でなく本人が来たというだけで。
「……聞いたん?」
「うん、まあなぁ……」
「……………」
アリスは首筋まで真っ赤になって俯いてしまった。そろそろ限界か……
「……それで、私の素行調査の採点はいかがだったでしょうか?」
「そこ…っ。オヤジ、いったい」
「はは…… 昔、探偵になりたかった頃もあったんや。ちょっとワクワクしたな」
「―――っ」
口をぱくぱくさせているアリスを目で制し、俺はアリスの父親――今更初対面の挨拶というのも変だしな――に向き合った。いくら緊張+脱力していようと逃げるわけには行かない。おとなしく判決を待つしかないのだ。
「そうだねえ……」
と、ゆっくり漏れた言葉にかぶるようにして……
「ああーっ!」
アリスの大声が響きわたった。
「もしかして、今日の急用って……」
立ち上がってしまったアリスの顔を見上げる。あーあ、ばれちまったか。
「……まあな」
「やっぱり…… もー、おとんのせいで、今日火村に会えんくなってまうとこやったやないかー!」
「座れ、アリス」
「ん…… まったく君は…… 急用やなんて嘘つきおってからに……」
あ、てめェ。判決が下る前に人を嘘吐きよばわりしやがったな。評価が下がったらどうしてくれる。
「嘘……?」
メガネの奥の目がこっちを見る。思わず背筋が伸びた。
「失礼ですが…… あなたが何者か判らなかったものですから」
「僕?」
「ええ。犯罪者と接している仕事柄、恨みを買う場合もないとはいえませんので。素性の判らない人間が周りをうろついているところに、アリスを近づけるわけにはいきませんから」
「ほう。それは有栖が危険に晒される可能性もあるということやね」
「……はい」
アリスはおろおろと、俺と父親を見比べている。まずい展開になったと思っているんだろう。俺もいきなりこんな話になるとは思っていなかったが、確かに話しておかなければならないことだった。
「私に恨みを持つ者が私にダメージを与えようと思ったら、狙うべきは私ではなくアリスです。それを悟られたらおしまいだ。最も……」
タバコが欲しい――― 切実にそう思った。
「本当に私を恨んでいる人間であれば、私に気づかれないよう密かに調べ上げるでしょうから、すぐに悟られてしまうことと思います。……私の側にアリスは置いておけないとお思いですか」
「それは…なんや物騒な話やねぇ…… でも僕より有栖が何か言いたいことがありそうやね」
「……君な、なに勝手なこと言うてんねん」
アリスが上目遣いでこちらを睨みつけているのは、気が付いていた。何に怒っているのかも解っているつもりだ。でもな、言わなきゃならなかったんだよ。
「そんな気ィ遣われたって…… ありがたいけど、ちっとも嬉しないわ。俺は……」
俯いてひざの上に置いた手が、ぎゅっと握り込まれた。
「……そういう時こそ、教えて欲しい。危ないことから離されてとって、もしその間に君に何かあったらどうしてくれるん? そんなん許さへん」
「アリス……」
「俺っ、頼りないかもしれんけどな、守られっぱなしになるなんてゴメンや。君が俺を守りたいのは勝手やけど、俺かて勝手にさせてもらう。チクショ…っ…… ぶん殴ってやりたいわ……」
目の前で、うなだれた声と背中が震えていた。
「すみません。……また泣かせてしまいました」
「――っ、 な、んで君が謝んねん!」
そりゃそうだ。しかし、俺のせいなんだろう?
「この先も泣かせずに済ませる自信はありません。ですが……」
アリス。……できれば聞かないでいてくれるとありがたい。
「ですが私は――――――」
泣くのも忘れて呆然と顔を上げたアリスと目が合った。かろうじてニヤリとすることができたが、それは半分、照れ笑いになっていたかも知れない……
「……ったく、ったく、勝手なこと言うて。けどな、俺かて、火村の言うこと丸ごと聞く気ないねん。今日かて何かあったんかと思て、ここまで来てしもたしな。火村はいっつもこうやから、俺が自分で捕まえに行かなアカンと思ってる」
「せやな。有栖のやりたいようにしたらええ。男が自分の好きな相手捕まえよう思たら、それくらいせななぁ」
―――許されたと、思ってもいいのだろうか……?
「親父も、そうやったん?」
「いや、それは…… まあ、捕まえたっちゅうか、捕まったっちゅうか。なぁ……」
「やっぱしな……」
……いまひとつ実感がないのだが。
「火村君」
おっと、きたか。俄に背筋が伸びる。
「はい」
「頼みがあるんやけどな」
「……何でしょう」
「タバコ、1本もらえるかな」
は?
「……どうぞ」
俺はポケットから半分ほどはいった箱を出してテーブルに置いた。
「やぁ、キャメルか。なつかしいねぇ……」
「あれ? 親父、タバコ吸うたっけ?」
「止めさせられたんや、結婚する時に。今でもたまにこっそり吸うてるけどな、……なんでか、必ずバレてまうんや。不思議やな」
「ふーん……」
アリスがニヤニヤと笑ってこちらを向いた。
「俺も止めてもらおーかな」
「バカ言え。冗談じゃねえ」
「そうそう、初めが肝心やで火村君。僕もなぁ、なんやあれ以来、頭がよう上がらん気がするんや」
「あーっ、オヤジ、どっちの味方やねん!」
3人揃って煙草に火を点け、大きく吐き出す。深く吸い込んだ煙が、少々こわばった身体の隅々にまで行き渡るのが、実感できるような気がした。
ふと、目を見交わし、みな同じ気分なのに気づいて苦笑する。
「お母ちゃんには、ないしょな」
「了解しました」
「……バラしてやるぅ」
ふくれっつらのアリスをなだめつつ、俺達は顔を見合わせて苦笑した。
共犯者の笑みだった。
H11.8.21
あうー、書いても書いても終わらない気がした……(T_T)
アリス父…… 想像(創造?)するのが難しかったので、職場で最も人当たりが良くて優しい
Eさんを念頭に置いてみました。どぉ?
出入り自由な図書館…… 見逃してください(爆)