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         きたかぜとたいよう




 煙草を止めようと思ったことはない。
 本数を減らそうなどと思ったことも、ない。




 人の吐き出した煙に対する、煙草を吸わない奴の反応はだいたい決まっている。
 遠慮のない相手だと、露骨に嫌な顔をしたり手で払ったり。そこまで親しくない相手ならば、気づかれないよう微かに息を止めたりして自衛する。
 そんな様子には些か悪いと思わないでもないのだが、不特定多数の人間が集まる場所ではこちらが遠慮せざるを得ないのだから、自分のテリトリーの中でくらいは、そこに侵入してくる人間の方が我慢するべきだろうと思っている。子供と老人の前ではなるべく吸わないようにしているが、それ以外の喫煙可能な場所では遠慮するつもりはない。
 研究室では、常に換気扇が喧しい音を立てて回っている。それはエアコンやパソコンなどが稼動する音と同じく、すでに普段は気にならない音の1つだ。しかしそれだけ換気扇がフル稼働していても、一定の時間が過ぎると部屋は白く霞み、学生どころか自分でも辟易することが珍しくない。
 入ってくる学生や職員はみな一様に、入り口で1度覚悟を決めたような顔をしてから突っ込んでくる。
 あまり学生たちに長居されたくない身としては、むしろ好都合。


 しかしここに、1つだけ例外がある。アリスの見せる反応だ。
 人の吐き出した煙なんてものを好きなヤツがいるとも思えないが、アリスはいつも平然と俺の前に座っている。
 ワザと煙を吹きつけるような真似をしたときにはそれなりに抗議してくるが、普段は煙が流れても特に気にならないらしい。それどころか、わざわざ煙の中に顔を突っ込んでいるのではないかと思われることさえある。
 以前から少し気にはなっていながら、貰い煙草の代わりか? などと軽く考えていたのだが―――




「ちわ」
「よ、早かったな」
 約束の時間よりまだ少し早い。
 ノックと同時に聞こえたアリスの声に振り返ってようやく、片付かない仕事に没頭していたせいで、またしても部屋が白く霞んでしまっていることに気づいた。流石にこれではイカンと窓を開ける。吹きこんでくる風はかなり冷たくて、適度に暖まっていた部屋の空気を掻き乱す。
「ええよ、そのままで。寒いやん」
 まただ。また、この反応。
「なんでだ?」
「何が?」
 今日は思わず訊いてしまった。初めきょとんとしていたアリスの顔に、暫くすると理解の笑みが浮かぶ。

 吸いすぎだとアリスに言われたことは数え切れない。
 それに対して俺が言うことを聞いたためしはないし、アリスもそれは承知している。
 しかし心配して言ってくれているのはよく判るので、言われても当然、という気はしている。曲がりなりにも恋人であるからには、有害な煙から少しでも遠ざけようとするのが一般的な反応というものだろう。
 自惚れではなく、アリスは常に俺を気遣ってくれる。自分の貧しい食生活は棚に上げて、口煩いほど。
 にも関わらず、この煙の充満した部屋を 『そのままでいい』 と言うのは。
「ここは君の城や。君が気ィ遣うことない」
 何言ってやがる。気に入らなければこの部屋だろうと下宿だろうと、仕事関係のもの以外は、いつも遠慮もなしにいじり回すくせしやがって。
「俺が煙いと思ったから開けたんだが」
「ふーん。そんならええけど…… 確かに、燻されてるみたいやもんな」
「燻製にでもしてやろうか?」
「止めとけ、ヤニ臭いのが出来上がるだけやん。けど……」
「けど?」
「けど、どんな上等な桜の木で燻されるより、俺はこっちのがええな。君のキャメルの匂いの方が」
 そう言って、充満する煙をものともせずに深呼吸する。
 見ているこっちの方が、そんなに急激に煙を吸って咳き込んだりしないかと慌ててしまうほど。

「……お前は人が吸ったタバコの煙が気にならないのか?」
「アホやなー 俺かて他人の煙は気になる。平気なんは君のんやから」
 決まっとるやろ、と事も無げに言う。
 こちらが言わせようとするときは意地でも言わないくせに、時折こんなふうにサラリと言ってのける。やっぱりアリスには敵わないと思わされる瞬間。
「こんなん君の吐息みたいなもんやし、いちいち気にしてたらやってられへん」
「ほー」
「ホンマやで? 全然平気。……そりゃ、吸う本数減らしてくれたら嬉しいけど、俺の前やからって遠慮されんのはイヤや。ちゃんと普通に吸え」
 偉そうなセリフの割に、妙に寂しそうなのはなんでだ? と思っていると―――



「君が肺ガンになったとき、置いて行かれんの嫌やもん」


「アリス、お前……」 
 バカか。気にしてないどころか、まるきり反対じゃねぇか。
 煙の中に立つのは気にならないからじゃなくて、わざとそれを吸い込む状況に自分を置きたがって?
「副流煙の方がリスクが高いって知ってるか?」
「そんなん常識やん。けど君は俺がおらんとこでもバカスカ吸うてるやないか。その分や」
 咄嗟には言葉が返せなかった。
 ふと落ちた沈黙に何を想像したのか、アリスが小さく身震いする。今にも泣きそうなのを隠そうとしてか、ぎゅっと目を閉じて続けられた言葉は。
「先に逝かないって約束はしたけど、火村だけが連れて行かれるのを黙って許すほど、俺は寛容やないから…… 君が肺ガンに罹るのは勝手やけど、俺がそれを平気で見てると思ったら大間違いやからな!」






 煙草は健康に良くない。
 そんな判りきったことをどれほど人に忠告されようと、止めようなどと思ったことはない。
 毒も税金も承知の上だ。
 が、しかし。

 アリスは止めろとは言わない。その代わり、自分も連れて行けと言う。
 1人で危険なところへ行くなと。フィールドワークに同行したがる理由と、それと根を同じくして。
 なくしたら大変だから。とっても大切だから。素直で素朴、かつ単純な理由。

    小学校のプールやスキー教室。
    2人1組で、バディーを組んで。
    危ないから気をつけて。
    しっかり手をつないでね。
    あいてのおともだちがちゃんといるかどうかたしかめて―――

 アリスをフィールドワークに連れて行くのは、俺の中では自分なりの理由がある。
 例えそれが言い訳にしか過ぎなくても。
 これ以上なく手前勝手な言い草であることはよく承知しているが、例え危険でも、俺がどんな修羅に陥ろうとも、ここまで引きずり込んでしまったコイツには、最後まで一緒に見届けて欲しいと思う。そう自分を納得させているし、アリスもそう望んでいるはずだ。
 だがしかし。
 例えそれなしではいられないとしても、タバコは単なる嗜好品に過ぎない。
 そんなもののためにアリスをここまで追い詰めるのは……






 煙草を止めようと思ったことはない。
 が、しかし―――

 本数減らそうかな…… なんて、初めて思った瞬間だった。





H13.12.11


ウチの火村は 『アリスの考えてることなんて、なんでもお見通し』 が身上なんですが……
話の都合上、鈍感男にしてしまいました。ゴメン。

ところで火村の研究室って、エアコンあるかなぁ…… あるよね?