がんばれ社会人 その1
……向いてない。
アリスは暗ーくため息をついた。
自分は全く向いていないと思う。なにかというと、会社のつきあいである。
アリスが大阪の印刷会社で営業についてから1年が過ぎた。
初めは、自分に営業なんて務まるのだろうかと思った。先輩の後を付いて回って、訳も解らず得意先にペコペコ頭を下げて。なんで相手はこんなに理不尽なのだろうと腹を立てたり、慣れない接待というものに神経をすり減らしたりと、毎日が胃の痛くなるような日々の連続だった。
それでもやってみればなんとかなるもので、最近は1人で仕事を任されるようにもなってきた。後輩もでき、仕事の面白さというものも、なんとなく分かってきたような気がしないでもない。
実際、アリスの営業成績はそう悪くもなかった。
頭を下げることが苦にならない性格と人のよさそうなにこにこ笑顔。それに一生懸命さが加われば、そう無口なたちではないアリスのこと、相手に好印象を与えて契約にまで漕ぎつける営業という仕事は、そう向いていないわけでもないらしかった。
しかし、である。
「おい有栖川、行こか」
「……はい」
これにはアリスは全く閉口していた。なんでこう毎日毎日飲み歩かなければならないのだろう。残業のほうがまだマシだ、真面目に働いているのだから、仕事の後くらいは解放して欲しい。
身体は疲れる一方だし、貯金なんて夢のまた夢。毎度ご馳走してもらう訳にもいかず、出世払いを条件に飲み代を親から借金したほどだ。
こんなに無理して付き合っているのに、たまに断っただけで「付き合いが悪い」と言われてしまう。
学生時代の飲み会はあんなに楽しかったのに…… このままでは酒が嫌いになりそうだった。
いっそのこと、何を言われてもいいから今後一切付き合わんことにしたろか、とまで考えるアリスだった。
時間が足りない。
仕事中の自分より、家で小説を書く自分の方が本当だから……
新人賞の締め切り前などは親の病気や、いもしない恋人のワガママなどという口実をでっち上げたりして、有給休暇や定時退社をもぎ取ったが、そう何日も続けられるものではない。
疲れきったアルコール漬けの頭ではトリックやプロットを考えられるはずもなく、たまに筆が乗った時は寝不足という副作用が付いて回る。
本当ではない自分を再優先させなければならないジレンマに、アリスは押しつぶされそうになっていた。
それに……
「……元気にしとるかなぁ」
アリスは京都に住む大学院生の顔を思い浮かべた。
週末は時間が許せば、お互いの家を訪問し合って朝までうだうだと飲みつづける、というパターンが多かったが、最近は忙しくてそれもままならなかった。自分の方の事情が主なだけに、尚更ダメージが大きい。向こうの事情ならば、これも相手のためだ、と思うことで諦めもつくのだが。
重い身体と心を引きずってアパートの部屋に辿り着くと、狙ったようなタイミングで電話が鳴った。
「……火村か?」
こちらから連絡しなければ、とは思っていた。週末のキャンセルを告げるために。
でも、声を聞いたら断れなくなりそうで、ダイヤルすることができなかった。
「スマン。今度のホームズ賞狙とるんやけど、割とてこずっててな。ちょっとでも進めとかんと、間に合わんかも知れんのや。かんにんな……」
声が暗くならないよう、せいぜい軽く話す。
「ん? おお、傑作やで。今度こそ、入賞間違いなしや!」
火村から顔が見えないのがありがたかった。
「うん……、うん……。ありがと、君もな。……あ、火村! いや。……おやすみ」
通話が切れた後も耳の奥に火村の「おやすみ」が残ってる気がして、アリスはそれを閉じ込めるように受話器を耳に押し付け、しゃがみこんだ。
――――足りない。これだけじゃ、足りない。
もっと声が聴きたい、ちゃんと会って話したい。もっと、もっと……!
たまらなくなって、アリスはもう掛け慣れてしまった番号をダイヤルした。何時でも、どんな話でも、なんの遠慮もなく話ができる、ありがたい番号………
「あんな、さっきはあんなこと言うたけどな…… 本当は自信なんかない。またどうせアカンのやろな」
先程とは打って変わって、正直な声を出す。今は取り繕ったりしたくない。
「毎日毎日オッサン達と飲み歩いて、もうボロボロや。これでまともなモン書けたら奇蹟やな。ははっ……」
弱音がこぼれる。たまには愚痴りたい時もある。情けないが、言わせて欲しい。
「でもな、書かなあかんやろ。ダメや思て書かんかったら、一生このままや。君に会うて、泣き言聞いてもろて慰められるばっかりじゃ、格好悪うて合わす顔がないもんな」
一方的に話す。なんだか止まらなかった。
「けど、君に会えへんのはキツイ。本音言うたらいつでも会いたいんや。ただでさえ、めったに会えへんのに…… なんや、情けないなぁ。俺…俺な、ホンマは君がおらんとアカンのや。俺だけか? 君はそんなことないんかな……?」
声が掠れる。こんなみっともない声、他には絶対に聞かせられない。
「……なぁ、火村、言うてもええ?」
誰もいない部屋で、アリスは声を潜めた。
「―――君が好きや……………」
言葉と一緒に、閉じ込めているものがつうっと一筋あふれ落ちた。
『お客様のお掛けになった電話番号は現在使われておりません―――――』
受話器の向こうの相手は無表情に繰り返す。
アリスの精一杯の気持ちは、電話線を伝わることなく、空気に溶けて消えた。
「……いかんな。しっかりせえ有栖川有栖。早う風呂入って、今日こそは洗濯せな……」
キョロキョロと辺りを見回し、乱暴に顔を拭って照れ笑いを一つ。こんなことをしている場合ではない。貴重な夜は短いのだ。
「俺は精力的に営業と執筆活動を続けてることになってんのや。バラさんでな」
共犯者の笑みを電話機に投げかけ、アリスは勢いをつけて立ち上がった。
「ああー、イカン。ズボンがしわになってまう」
とにかく今は充電期間。
少なくても学生デビューした作家よりは、サラリーマンの生態は詳しく書けると思う。
いろんな会社のオフィス内の様子や、昼間の街中の効率的な移動方法。様々な人間がいるし、関係も複雑だ。炎天下のネクタイの不快さも、出向いた相手先で出された麦茶のおいしさも学生には解るまい。社会派ミステリを書くつもりはないが、登場人物にサラリーマンの1人くらい、そのうち必要になるだろう。
いつか小説に反映させてやると思えば、理不尽な注文にもクレームにも耐えられる。
何事も経験や!
火村――――
いつか、この痛みも小説の足しになればいい。
無駄なことなんて何もない。まさか伝えるわけにはいかないけれど、親友に恋してしまったなんてのは、そんじょそこらの人にはできない、得難い経験というべきだろう。
耐えられる。失うことに比べたら、封じ込めておくくらい何でもない。
「これも人生経験っちゅうこっちゃ。なぁ、火村……」
窓から遠く京都に続く空を見上げて、アリスは幽かに微笑んだ。
H11.7.25
アリス冬の時代。
イタイ話になってしまった。ごめんね、アリス。
ま、まぁ、過去の話だからさ……