がんぱれ社会人 その2
「絶っ対デートやで。あれ」
「喧嘩でもしとったんかなー、またえらい勢いで」
「コラ明日、白状させなアカンな」
なんとなく冴えない顔でため息をかみ殺していたアリスが、退社時刻間際にかかってきた電話のあと急にソワソワしだし、時間になるとすっ飛んで帰っていったというので、事務所では様々な憶測が飛び交った。
有栖川有栖27歳。
そろそろ「嫁さんの1人も世話してやらんと……」などと周囲で噂されている、大阪の印刷会社の中堅営業マンである。
当のアリスの頭からは、周りの目も付き合いも見事に抜け落ちていた。信号を待つ間も足踏み状態で、指定された場所に急ぐ。
「火村!」
「よぉ、久しぶりだな」
「ひ、久しぶり……」
今月はお互いに忙しくて、どちらの誕生日にも会うことができなかった。久しぶりに見た火村は、ネクタイこそ思いっきり緩めていたものの見慣れぬスーツ姿で、アリスは少しばかりドギマギした。しかも悔しいことに、毎日スーツを着用している自分よりも様になっているような気がする。
「走ってきたのか?」
まだ4月だというのに額に汗を浮かべて息を弾ませているアリスに、火村は呆れたように声を掛ける。
「せやかて……」
アリスはむうっと膨れた。仕方がないではないか、会うのは本当に久しぶりだったし、会社を飛び出した勢いのまま足が勝手に進んだのだから。膨れてそっぽを向いていたので、アリスは火村が一瞬浮かべた優しい笑みを見ることができなかった。
「行くぞ」
「行くって、どこへ?」
携帯灰皿をポケットにしまい、すたすたと歩き出す火村の後を慌てて追いながらアリスは訊ねる。
「居酒屋にラーメンなら奢ってやる。すし屋にバーならワリカンだ」
「……たまには居酒屋・ラーメンコース行こか」
「いつもそのコースじゃねえか」
「肉じゃがとー、焼きナスやろ、それから大根サラダにアスパラの……」
ほくほくと遠慮もなしに注文したあと、火村に向き直る。
「で?」
「何が」
取り敢えず、のビールで乾杯し、上機嫌で早速お通しのわらびのお浸しに箸をつける。
「今日はどないしたんや、ネクタイなんぞ締めて。学会か?」
「ああ、駅前のホテルでな。教授が急に行けなくなったとかで、代わりに行ってこいとさ。ったく、昨日になって急にだぜ」
「ふ〜ん。そら大変やったな」
「ま、今回は発表はナシで聴くだけだったから、どうってことねえけどな」
運ばれてきた何の変哲もない居酒屋メニューに目を輝かせ、いただきま〜すと言ってハフハフ言いながら唐揚げを一口頬張る。そんな嬉しそうなアリスの様子を、火村はじっと眺めていた。
「……なんや?」
「いや、うまそうに食うなと思って」
「気の毒やなー、熱いうちに食うとうまいで〜。それに、めったにない君の奢りかと思うと、なんや有難くてうまさも倍増する気ィするわ。……で?」
「何が」
「なんで今日に限って奢ってくれる気になったん? いっつもワリカンやのに」
「ああ、給料貰ったから……」
は?
思わず箸が止まり、アリスは目の前の火村の顔をまじまじと見てしまった。
「ああ、そっかー。助手いうたら、もう職員やもんなー」
それで記念に奢ってくれるってか。なかなかカワイイことを言うではないか。アリスは思わず笑ってしまった。火村も人並みに給料日は嬉しいと見える。
「そっかそっか、火村もようやく社会人かー。初月給なんやから、東京のご両親になんか買うてあげなアカンよ。もう贈ったんか?」
「うるせえよ」
急にニヤニヤと先輩面するアリスを、火村は面白くなさそうに睨んでビールをあおる。
「んじゃこの次は俺が就職祝いしたるわ。スマンな、大学残るって聞いとったのにうっかりして……」
「まぁ、就職したっていってもあんま変わんねえけどな」
「変わらんことあるかい。よしゃ、今日は愚痴でも何でも聞いてあげましょう。お兄さんに話してみなさーい」
「誰がお兄さんだ。俺より誕生日遅いくせしやがって」
火村は顔をしかめた。そんな火村を、アリスは嬉しそうに覗きこんだ。
「ま、愚痴っていえばあれだな。前より忙しくなった」
「あったりまえや。金もろてるんやから」
「アリスに会えなくなる」
偉そうなアリスの態度にムッとして、火村はぼそりと呟いてみる。効果覿面、アリスは一瞬で頬を紅潮させ、火村は溜飲を下げた。
「講師がいねえからな。雑用が全部俺んとこに回ってきやがる」
「う、うちの社会学部、昔から人材不足やもんな。あっという間に出世できるんちゃう?」
「興味ねえよ」
しばらく目の前のメニューの消化に専念する。
アリスはなかなか引かない熱をもてあまして、ジョッキを頬に当てた。火村が何食わぬ顔をしてサラダの山を攻略しているのが悔しい。
でも見ているうちに、なんだかどうでも良くなってきた。せっかく久しぶりに逢えたのに、腹を立てていてはもったいない。
「なぁ、今日は泊まってくんか?」
「いや、明日は朝から京都府警に行くから。K大の教授が知り合いの警部補を紹介してくれたんだ。うちのジジイどもよりよっぽど役に立つな」
「ったく、口悪いなぁ、君」
「うるせえ。あんな分からず屋ども、ジジイでたくさんだ」
「……なんかあったんか?」
不意に緊張して、アリスは訊ねた。これはいわゆる、グチ、というヤツではあるまいか。さっきからかってしまったので、今日は愚痴などこぼしてはくれないと思っていた。よっぽど腹に据えかねていたらしい。
「……俺の研究方法は、外聞が良くないから止めろとさ。前例がない? 大きなお世話だ」
ふてくされてビールを追加注文する火村に、アリスは意識してにっこり笑って見せた。
「君は幸せもんやなぁ。グチに付き合うてくれる優しい恋人がおって」
火村は僅かに目を見開いた。ガヤガヤと騒がしい店内ではあるが、アリスは普段、外でこんなことは言わないのだ。もう酔ったのか?
「……お前のグチにもけっこう付き合ってやったつもりだけどな」
「うん、いっつも慰めてもろた。けどな、俺には大事な親友はおったけど、……恋人はおらんかったよ」
一瞬、キャメルに火を点けようとした手が止まる。火村は中断した作業を続行しながら、アリスのヤケ酒に付き合わされる時の様子を思い浮かべた。
夜通しバカ話をして、ひとしきり得意先や上司のグチをこぼし、選に漏れては「才能ないんや〜」と泣き付いてくる。そのパターンは今でも変わらないのだが、確かに当時、最後にはひどく寂しそうな顔でこちらを見つめていたような気がする。
「そうか。有栖川先生はその他に、親友には言えない恋の悩みを抱えていたというわけだ」
「ま、そういうこっちゃ。君はそれだけでも解決済みでよかったやないか」
「まあな」
火村の答えに、アリスは満足そうに笑う。
「君ならイケルよ。教授の言うこと聞く気、ないんやろ」
「当然だね」
「それでこそ火村や。大丈夫、俺が保証したる」
アリスを慰めるのに、火村は「保証する」などという言葉を使ったことはない。確かなことなど、誰にも判らないから。無責任に軽々しくそんなことを言うべきではないと火村は思っていたし、アリスもそれは承知していた。
でもアリスが今それを言ってしまったのは―――
見えた気がしたのだ。自分の信念に基づいて、着実に研究を重ねてゆく火村の姿が。その隣で彼を見守る、自分の姿も。
「保証する」
火村は笑って、アリスの言葉を受け入れてくれた。
「お前の方はどうなんだ? そっちも忙しいんだろ」
駅への道をゆっくり辿りながら火村が訊く。コートの要らない時期とはいえ、夜の空気は少し肌寒くて、でも急いで歩きたくはなかった。
「うーん、まあな。もうじきゴールドアロー賞の締め切りなんや」
「ふーん。どうなんだ今回は」
「ん? おお、傑作やで。今度こそ入賞間違いなしや!」
アリスは本心からそう言った。火村に逢えて、目にも心にもたっぷりと火村を補給して、今ならどんな傑作も書けそうな気がした。
「そう願いたいな。……今日はよかったのか、こんなことしてて」
「大丈夫や。まだしばらくある。ちょっと詰まってたし。それに……」
会いたかったし。
飲み込んだ言葉を正確に理解すると、火村は急に足元の覚束ないにわか酔っ払いと化して、アリスの肩をぎゅっと抱き寄せた。
「身体壊すなよ」
「ありがとう。君もな」
いつもならば、迷わず次の店に繰り出すような時間。
2人の社会人は駅で別れを告げた。
お互いの明日の仕事に備えるために。
H11.7.25
1と2。もとは1つの話だったなんて、誰が解ってくれるでしょう?
社会人のグチと初月給な火村の話、を書きたいだけだったのに。
まとまりがなくて2つに分けたら、なぜかこんなことに……(ぼーぜん)
2は火村視点でいこうと思ったけど、上手くいかなかったよ。