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          祈り……


 コーヒーを丁寧に淹れる。 
 フィールドワーク後の火村に必要なものは、まずタバコとコーヒーだろうから……
 リビングのソファに沈む火村は、ぐったりと眠ったように目を閉じている。
 少し甘めに作ったコーヒーを火村の前に置き、私はマグカップを手にしたまま、ソファではなく彼の足元の床に座り込んだ。
 何と声を掛けたらいいのか解らない。
 慰めてやりたいのに。私が落ち込んでいる時は、いつも慰めてもらっているのに。



 コトンとテーブルにカップを置く微かな音。見なくてもわかる。些細な音さえ立てまいとするほど、アリスが俺を気遣っていることは。
 フィールドワークが片付いても、めでたいと感じるわけではない。そんなものは警察に任せておく。俺にとっては分類し考察するケースが一件増え、下宿にしまってあるアルバムに写真が追加されるだけだ。
 俺は何をやっているのだろう、と思うことがある。
 事件を解決しても過去の記憶が薄れるわけでもないし、事が殺人なのだから後味がよかったためしもない。むしろどうにも遣り切れない気分を抱え込んだまま、ここに転がり込むことの方が多い気がする。
 ここ、夕陽丘のマンション702号室に。
 俺に触れないよう、しかし手を伸ばせばすぐに届くギリギリの距離。
 俺に掛ける言葉を持たないとき、アリスはよくこの距離を取る。声を掛けたいのに何と言っていいのか解らないと、自分の力不足を嘆き、もどかしさを全身で訴えてくる。きっと今も、悲しそうな縋り付くような目をしているのだろう。



 つまらない軽口ならいくらでも口をついて出るというのに。
 こんな時、私は滑稽なくらい臆病になる。崖っぷちにいる友人の背を、不用意な一言で押してしまったらどうしようと、いつもいつもビクビクしている。
 それでも作家か!と自分を怒鳴りつけてやりたいくらい、何ひとつ気の利いた言葉が思い浮かばなくて、火村が自力で自分の心と折り合いをつけるのを息を潜めて待っている。『こちら側に引き止めたい』などと生意気なことを願っているくせに、私はそのための方策を何も持っていないのだ。
 例えば。
 火村が凶器を振りかざし誰かに向かって行ったとしたら、その前に立ちはだかって止めることができるだろう。しがみついてでも、殴り倒してでも止めてみせる。
 でも、こんな時は?
 いったい何処に向かって手を広げればいいのだろう。
 ゆっくりと、何かが少しずつ壊れていきそうな、とても静かな夜の場合は。

 

 アリスの前で、いつも格好つけて頼れる男でありたいという気持ちはなくもない。落ち込んでいれば慰めてやりたいし、傷つけるものからは守ってやりたい。いつも笑っていて欲しい。
 しかしアリスを悲しませ、傷つけているものの筆頭は申し訳ないが俺なのだった。
 それはよく解っている。
 アリスは決して弱い男ではないが、俺の前では涙をよく見せる。俺のせいで泣かせたり、俺のために泣いてくれたり。
 アリスが恐れているものも解っているつもりだ。
 『俺が向こう側へ行ってしまうこと』
 そして俺は情けないことに、何処にも行かないとコイツに約束してやることができないのだ。
 ああ、自分の未熟さは重々承知している。

 

 手の中のコーヒーが少し冷めた頃、髪をくしゃっとされて顔を上げた。上体を反らせるようにして後ろを振り仰ぐと、火村は背凭れに寄りかかったまま、眠りから半分覚めたような目で私を見ていた。目が合うと、ほんの少し視線が優しくなったような気がした。
 笑った……?
 たったそれだけのことで、少し呼吸が楽にできるようになる。自分がガチガチに緊張していたんだと、今更のように思い知った。
 ほら、また今も。私が何もできずにおろおろしているうちに、火村は一人で立ち直る。
「飲み頃やで、先生」
「ああ」
 ポケットから出しかけたタバコを戻し、火村はカップに手を伸ばす。
 自分のコーヒーがぬるくなっていくのを感じながら、私は火村から目を離すことができなかった。



 なぜ応えてやれないのだろう。こんなにも大切に想っているのに。
 ……悪いな。
 でも今日のところは大丈夫だ。
 大丈夫。まだ、大丈夫。
 コイツがいてくれるから……
 アリスの視線を痛いほど感じながら、俺は飲み頃というには少し冷め過ぎたコーヒーを飲み干した。



 飲み終わったカップをテーブルに戻す火村の手を、私はそっと掴まえた。飲んでもいない自分のカップを置き、両手で抱え込むようにする。
「アリス?」
 前かがみになった火村が不審そうに声を掛けてくるが、構わずにぎゅっと力を込めた。
 こんな風に簡単だったらいいのに。心の中までこの手に掴んで、私に縛り付けておけたらいいのに!
 ともすれば泣いて縋ってしまいそうだった。いや、それで引き止められるというなら、いくらでもそうするけれど      
 火村を引き止める力なんてない。私にできるのは、みっともなくだだっこのようにしがみついて『行かないでくれ』と願うことだけ。どこかにいるかもしれない神様に『行かせないでくれ』と祈ることだけ。
 情けない。そんなんただのワガママやん……


 アリスが全身で語り掛けてくるのがわかる。
 行くなと、自分がいるのにと、切ないくらいに訴えてくる。
 アリス……
 お前の存在にどれほど救われていることだろう。これからの約束はできないが、今現在俺を引き止めてくれているのは間違いなくアリスだった。
 必要だと言ってくれる、どんなに辛く当たっても手を離さずにいてくれる。人を大切に想うということを教えてくれたアリス。出会ってからずっと、俺に人間らしい感情を思い出させてくれている。
 この手に縋っていれば、きっと俺はこのままでいられるのだろう。
 でも、ダメだ。自分の拠り所は自分の力で探さなければ。
 自分の力で立っていられなければ、そのうちに俺の抱えているものでアリスまで押し潰してしまう。それだけはダメだ。
 今だってこんなに不安にさせてしまっているのに。


「……そんな顔するな」
 掴んでいるのと反対側の手で、頭をぐしゃぐしゃと掻き回される。
 見えるんかい、と言い返したかった。私は火村の腕を抱え込んでそこに顔を埋めているのだから、見えるはずがないのだ。しかし声を出したら尚更、どんな顔をしているのかバレてしまいそうで、返事ができなかった。
「……アリス」
 不意にソファの上に引き上げられた。見られるのが嫌で、私は咄嗟に火村の胸に顔を押し付けた。
「アリス、アリス……」
 抱きしめてくれる腕が嬉しくて、名前を呼ばれるたびに心が温かくなる気がして、それなのになぜか涙がこぼれた。


 震える背に腕を廻して、何度もアリスの名を繰り返す。
 この不思議な名前を呼ぶたびに心が癒されるような気がする。抱きしめていると、自分が強くなれるような気がする。
 胸元で聞こえる押し殺したすすり泣きも、しっかりとシャツを握り締めて放さない腕もたまらなく愛しい。
 こいつの不安をなくしてやるためにも、俺は早く自分に決着をつけなければならない。




 強くなりたい。火村を支えられるくらいに。火村の何もかもを受け止めても、決してよろけたりせず、2人で真っ直ぐ歩いていけるくらいに。


 強くなりたい。しっかりと自分の足で立っていられるように。アリスに依存するのではなく、2人で対等に歩いていけるように。


H11.6.6


よもやこんなこっ恥ずかしいシロモノになろうとは……
なんか、自己満足みたいでいやだなぁ。
女々しいアリスはよく見るけど、火村まで女々しくなっちまったよ。
ただ火村を慰めたいアリスが書きたかっただけなのに……