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        ニンジン




 長編がなかなか上がらなくて、珍しく東京のホテルに缶詰めになった。この小さな (私が泊まるにしては充分贅沢な) 部屋に閉じこもっているのも、もう3日目だ。
「疲れたーーーー」
 ホテルに備え付けの机に突っ伏して呟いた。どうせ聞く者は誰もいない。ちょっとくらい弱音を吐いたっていいだろう?
 担当者殿は夜までは帰ってこないはず。話に聞く大御所先輩方の武勇伝のように、脱走してしまったらどうだろうと夢想してみたりする。
 まぁ、私みたいな駈け出しがそんなことをしたら、どうなるかは目に見えているが。それに、私を信じて目を離してくれている担当さんを裏切るわけにはいかない。逃げ出しはしないにしても、ここまでしてもらっても出来上がらなかったなんてことになったら……
 ミステリ作家有栖川有栖のクビが繋がるかどうかの瀬戸際だった。

 シーンはちょうどクライマックスに掛かっている。さっきまで集中して一気に山を駆け上ったのだが、頂上をやっと越えて、終わりが見えてきたかとホッとしたのがまずかった。
 そう思った途端に気力が尽きた。朝方から昼まで眠ってその後食事を摂ったので、体力はまだ残っているはずなのに。椅子に座った姿勢を保つ筋肉って、気力がカバーする範疇やったっけ?
 たった今まで私の中で生き生きとしゃべっていた登場人物たちも、油が切れたように動きがぎこちない。すぐ隣で呼吸しているかのように感じていたのに、薄いフィルターがかかったように遮られてしまっている。
 でもでも、まだ最悪ってわけじゃない。うん、文章は頭の中で並んで出番を待っている。これで文章まで詰まってしまったら…… なんて想像するのも恐ろしい。スランプでないだけ上等というものだ。
 だいじょぶだいじょぶ、もうすこしだ。がんばれ、まだじかんはある。
 つまらないパニックに陥らないように、一生懸命自己暗示を掛ける。ここで徒に焦っても何の役にも立たない。
 栄養補給にルームサービスでも取るか? ……いや、ここで満腹になったら、眠ってしまいそうな気がする。ただでさえ、ベッドに手招きされているような気がしているのだ。ここで油断したら、朝までに完成できないのは明白だった。
 気分転換に散歩にでも行こうか? あーもう、満腹にならなくて栄養だけあるもん、どっかに売ってないかなぁ〜
 気力体力が充填されるものなら、病院の点滴でも歓迎したい気分だった。



「イタイ……」
 半分ほど残してすっかり忘れていた紅茶を飲み干そうとすると、ガサガサになって切れた唇に沁みる。全く東京ってところは、なんでこんなに乾燥してるんや!
 自分の不摂生を棚に上げてやつ当たりする。
 あああそれにしても、明日の朝までだぞ? ただでさえギリギリの時間なのになんだか話が進まなくて、予定のページ数では納まらない気もする。どうしよう、20ページの見込みが30ページとかになったら……
 さっきまでは焦っているといっても頭の中だけだったものが、だんだんとそれが溶け出して、徐々に身体の中を巡り始めたような気がした。胸がドキドキして、嫌な汗が滲んでくる。
 まずい…… さっき掛けた暗示はどこへ行った?
 担当氏の残した煙草の残り香がなんだか鼻についてしまって、灰皿に残っていた吸殻を処分した。吸ってもいいと言ったのは私だが、普段はちっとも気にならない匂いが、切羽詰った私の神経に障る。
 私を安心させてくれるのはこの匂いじゃない。もっと別の……

 ふいに浮かんだ面影が、苦しいくらいリアルに襲い掛かってきた。
 ……もうずっと会ってないのだ。私はこれを抱えていたし、火村は学会発表の準備があると言っていたから。
 匂いも、声も、腕も、調子良く進んでいる時は勝手なことに忘れているのだが、気が弱ったりすると途端に欲しくてたまらなくなる。例え憎まれ口でもいいから、声が聴きたかった。
「電話…… してもええかな?」
 まだ研究室にいるだろうか。こちらから掛けるのはなんだか負けのような気がして、つまらない見栄を張って向こうから掛かってくるのを待っていた。ホテル名は一応教えておいたのだが、しかし1度も連絡はない。
「あのアホ……」
 1度くらい、電話してくれたっていいのに。
 もしも筆が乗っている時に掛かってきたらウルサイと思うかもしれないくせに、勝手なことを思う。私だって、火村の仕事中は極力遠慮するもんな……
 壁に掛けておいた上着のポケットから携帯を取り出し、液晶を睨み付ける。うんともすんとも言わない。
 子供の頃、信号に向かって『青にー、なれー!』と魔法を掛けたように、何度も唱えるうちに本当にそうなるんだったらいいのに。
「おーい、かかってこーい」 
 
 いきなり手の中で鳴り出した着信音に、私はビックリして携帯を取り落としてしまうところだった。慌てて確認もせずに通話ボタンを押す。
『よう、生きてるか?』
「…!」
 火村だった。
『……死んでたか?』
「アホぉ、絶好調や!」 
 魔法が使えるくらいに。
『それはなによりだ。今、電話してもよかったか?』
「うん」
『なぁ』
「…ん?」
『ちょっと話すくらいの時間あるか?』
「……うん」
 時間はないけど、火村の声は補給しておく必要がある。反対側の耳に栓をして、こぼれ落ちないようにしたいくらいだ。
『だったら降りて来いよ。下で待ってるから』
「なんやて !? えぇ、なんで?」
 した、って、下? 下にいるのか? 火村が、ここに?
『今日までこっちで学会だったんだよ』
「今日までて…… 学会って東京やったん? そんなん、言うてくれへんかったやんか!」
『こっちに寄る時間が取れるかどうか、分からなかったんだよ。ま、話は後だ。……ティールームがあるな。そこにいるから』

 切れた電話を握り締めて暫し呆けたあと、慌てて立ち上がった。と、とにかく行かなくては。
 ……と。Uターンして机に戻って文書を保存する。危ない危ない。ちゃんと保存できているか確認して、電源を切って。
 今度こそ部屋を飛び出そうとしたところで、鏡に映った自分と目が合った。髪はボサボサで酷い顔をしているが、目だけが嬉しそうに輝いていて、なんだか笑えた。
 構うもんか。どうせ相手は火村だ。修羅場中の私の顔なんて、見慣れたもんだろう。
 女でなくてよかった…… 女性だったら、身支度の分だけ会う時間が少なくなってしまうだろうから。





 軽く手を上げて合図してくれるまでもなく、火村の姿は私の目に飛び込んでいた。
 いつものだらしなくネクタイを締めた姿が、堪らなく懐かしかった。自分も学会で疲れているだろうに、会いに来てくれて、差し入れも、気遣いも、何もかもが嬉しい。この先カステラを見るたびに、今日のことを思い出すに違いない。
「きつそうだな。邪魔したか?」
 きつかった。確かに。でも火村を心配させてしまって、私は身なりに構わず飛び出してきたことを、ちょっとだけ反省した。ごめんな。
「邪魔ってことはない。それどころか気分転換になってよかったわ」
 声が聴きたくて死にそうになっていたなんて、どうかバレませんように。
 部屋で独りで飲むティーパックとは大違いで、紅茶もクッキーもなんて美味しいんだろう。一昨日ここで息抜きしたときより格段に美味しい気がするのは、きっと火村と一緒だから。
 思考パターンがさっきとは全然違う。さっきまでの私は、やっぱりどこかが一部欠けてしまっていたらしい。火村がここにいるだけで生き返ったような気になる私は、なんて単純なんだろう。
 火村の声が補充できるのなら、話題は何でもいい。例えそれが犯罪捜査の話だったとしても。
 私が立ち会えなかった事件の話をしてくれるのは、とても嬉しい。その事件が火村をそれほど傷つけることはなかったという証拠だから。
 私の大好きな声で、火村は私の欠乏症と好奇心を、同時に満足させてくれた―――


 そして、タイムリミット。
 私が玄関まで火村を送るか、部屋まで火村が送ってくれるかで、ちょっとだけ揉めた。
 でも結局、私が送ってもらうこととなった。ほんの何分かでも早く仕事に戻らなくてはならなかったし、それに……
 ロビーではできない、激励のキスが欲しかったから。
 キスだけで済むのか? と邪推される向きもおありだろうが(誰に言ってるんだ)、火村は私の仕事を邪魔することだけはしない。
「明日の夜には帰れるんだろ?」
「絶対帰る! 朝までに絶対終わらせて、一眠りしたら、すぐ……」
「途中下車しろよ」
「うん……」
 カサカサにひび割れた唇を潤してもらって、キャメルの味を思い出して。決して煽ったりせず、存在と想いを互いに刻み付けるための、キス。
 私の方が離れがたくなってしまったが、そんなことを言っている場合ではない。
「なぁ、タバコ、1本くれへん?」
 これは、保険。火村はちょっと訝しげな顔をしたが、何も言わずに1本取り出してくれた。
「担当さん、泣かすなよ」
「うん、ありがとな。頑張るわ」
 笑って見せると、火村は私の髪をくしゃっと掻き混ぜてドアの外に消えた。
 消えない暖かさを、私の中に残して。





「よっしゃ、やるかぁ!」
 明日は絶対に火村のところに帰るんだ。
 なんだか鼻先にニンジンをぶら下げられた馬になってしまったような気もするが、それでこの山を乗り切れるなら万々歳だ。
 まだ、頑張れる。無理矢理な自己暗示ではなく、自然に書きたい気持ちが湧き上がってくる。解決編はまだ少し残っているけれども、その後に続くエピローグは、優しい気持ちで書けそうだった。

 ワープロを立ち上げ、書きかけの文書を呼び出す。画面を見つめて深呼吸して、私は自分の創った世界へ深く入り込んで行く。
 ただいま、私の子供達。
 こんなところで放り出してゴメンな。もうすぐ悲しい場面は終わりにするから。俺な、今めっちゃいい気分やねん。この気持ち、君らにも分けてあげられたらいいのにな。
 私の書くものが一部の人から、『殺人事件のくせに優しい』と評されていることを知っている。必ずしも褒め言葉で言っているとは限らないのだが、もしもそう感じてもらえているなら、私は嬉しい。自分で殺伐とした殺人事件を書いておきながらこんなことを言うのは何だが、哀しい事件の終わりに、少しでも救いがあると感じてもらえれば。
 私の書くものが火村に影響を受けているとは思わない(だってコイツと出会う前から、私はミステリを書いていたのだし)。でもイライラしながら書いたものよりは、穏やかな気分で書いたものの方がいいに決まっている。自分を追い詰めなければいいものは書けないという人もいるが、私はそういうタイプではない。
 そして私を満たしてくれるものの筆頭は、何と言っても火村に間違いなかった。
 

 手の中のタバコに視線を落とす。
 ニンジンをもう1本。この小説が書き上がったら、まずこれで一服しよう。それまではカステラと一緒に机に置いて、応援してもらうんだ。
 1人でも頑張れる。それはもちろん、意地にかけてもそうなのだけれど、でも……
 補助アイテムがあるのなら縋りたいと思ってしまう自分を、弱いとは思わない。無理をするより、楽に書けるのならその方がいい。
 少しでもいいコンディションで書ければ、その方がいいものができる。私はそう信じているから。



H12.6.25


火村の影響は、やっぱり受けていると私は思いますけどね。
犯人といっても、ただ単純に悪いヤツには書けないとかね。
原作の、『少しばかり生き返ったようだ』という正直者アリスがツボで、つい……(>_<)o"