謎解き
「おーい、有栖川〜?」
聞き慣れた名前に、声の方を振り向いた。
大勢で一緒にいるのに、1人だけ焦点の合わない視線をあさっての方向に飛ばしているアリスに、同じクラスのヤツが、顔の前でひらひらと手を振っている。
放っておいてやれ。―――暫くすれば戻って来るから。
もう目新しいものはないと思われるキャンパスの中ですら、アリスは時々こうしてトリップする。今日はいったい、何に気を取られたものやら。
どんなに美しい景色に感動しても、どんなに珍しいところに行っても (いや、珍しければ珍しいほど) その景色の片隅に、こっそりと死体を転がせないものかと、考えてみないではいられないヤツだ。事件の舞台だけでない。数字や記号を見ればその意味をあれこれ空想し、聞き違いや見間違いなど錯覚させられる言葉はないかと、くるくると周囲に視線を走らせている。
新しい話を書き始めたと言っては嬉しそうに進み具合を報告し、俺に読ませて批評を求め、締め切りだあとは神頼みだ玉砕だと言っては、そのつど大騒ぎする。
ミステリの話をしているときのアリスは、とても生き生きと楽しそうで、むしろ好ましいと思っていたのだが。
「火村。あの、……ゴメンな」
だから、下宿に訪ねて来たアリスが突然謝ってきたときには驚いた。しゅんと萎れた、泣きそうな顔をして。正直なところ、何に対して謝られたのかさっぱり解らなかった。
「俺、いっつものーてんきに殺人事件の話ばっかりして、浮かれてそんな話してるの聞いとるんは、しんどかったやろ? ゴメンな。もうせえへんから、堪忍して……」
―――まさか、そう来るとは。
『人を殺したいと思ったことがある』
初めてそう告げたとき、あいつがどんな顔をしていたか、よく覚えていない。
ビックリしたように目を見開いて、何と言ったらいいのか分からないと困った顔をしていたようにも思う。いや、顔を伏せたんだったろうか? それとも…… 俺の方が視線を逸らしたのか?
いずれにせよ、冗談として聞き流すことができなかった人間は、どこかアブナイ奴として俺を認識し、少しずつ(あるいはあからさまに)俺から距離を取る。コイツも同じだろうと思っていた。
アリスと離れたくて言った訳ではなかった。
ただ、俺はこういう人間だし、犯罪社会学を選ぶ理由として、訊かれれば隠しちゃいなかったし、いつかは知られることになったはずだ。
そういえば、最近ミステリの話を聞かなくなっていた。いつも目を輝かせて、自分が読んだり書いたりしている小説のことを話して聞かせてくれたものだが。
単にあんな話を聞いた後で、俺と話し辛くなっただけかと思っていた。まさか自粛してくれていたとは。
こいつなりに何日か考え、達した結論が、謝ってしまうのがいいということだったのだろう。
これからも付き合っていくために、気まずいままでいるよりは、と。謝って、以後その話をしなければ、今までどおり付き合えると。
これは一方的に俺の方の事情で、アリスが悪いわけじゃないのに。
いいのか? 俺みたいなのと友人のままで。知らないふりで距離を取ることもできたのに。
―――なんてバカなヤツなんだろうな、コイツは………
「バーカ。なに気にしてんだ。別に構わねえよ」
「せやかて……」
「お前から小説を取ったら、何が残るんだ? そんな何もないヤツと付き合うのはゴメンだね」
何もないなんて思っちゃいない。アリスの存在は、そんな薄っぺらなものじゃない。そうしようと意識しなくても人を和ませ、癒す力のあるヤツだ。
「むーー。失敬な。雑学データベースと呼ばれる有栖川くんを捕まえて」
「昔の王様の好物を知ってたり、寿限無の名前が言えたり、か? たまには役に立つ情報も仕入れたまえよ、有栖川くん」
なんにでも真っ直ぐに考え、感じるその精神が、暗い部分を知らない人間特有のものに思えて、腹立たしく思うこともあるけれど。でも。
アリスはいいヤツだ―――この俺が、一緒にいて心地よいと思うくらいに。
「俺、小説を書くことを逃げ場所にしてたことがある。現実のイヤなことを忘れるために、書くことで救われてたときがあった。けど反対に俺が話すことで、忘れたかったことに君を引きずり戻してたんと違う?」
「違うね。変な遠慮するアリスなんか、つまんねえよ」
俺に遠慮するアリスなんか、見たくなかった。人を気遣うアリスを見るのは好きだが、自分が気を遣われるのは、なぜだか悔しい気がする。
「けど火村は、それでいいん? 俺が人殺しの話ばっかり考えとるのは、今は自分の楽しみのためやのに。知らんと火村の傷を抉るようなことしてたんかと思たら、俺……」
「特に気になったりはしないな。お前が楽しそうにしてる分にはいいんじゃねえの? 特に押し付けがましくされた覚えもないしな」
「ホンマか……?」
「ああ。少なくとも、アリスの話を聞いてそれを思い出したことはない」
頷いてやると、アリスはほうっと神妙に息を吐き、それから心底安心したようにニカッと笑った。
「あ、これ宿代な」
緊張が解け、気が緩んだのだろう。アリスはコンビニの袋からガサガサと缶ビールを数本取り出した。初めから、さっさと許されて、そのまま泊まっていくつもりだったらしい。
なんとも…… アリスらしいよな。
「俺、なんで人殺しの話ばっかり、こないに好きなんかなぁ……? 小説は、それだけやないのに」
普段どおり足を崩して後ろに手をついた格好で、アリスがぼやくように言う。
「俺にまで『人殺しの話』だなんて、卑下した言い方をすることはない。そう呼ばれるのはウンザリだって、前に言ってたじゃねえか」
「うん、『ミステリ』。……けど、どうしたって殺人の話やから、読まん人には眉を顰められる。そればっかり好きで読むんは、やっぱりどっかおかしいんかな?」
「別に、いいんじゃねえの? 誰だって、自分の関心のあることには一生懸命になるもんさ。……俺の最大の関心もそこにある」
―――しかも、現実の。
「ただ…… 現実の場合は、謎は謎のまま残ることが多い。解決しても、関係者の心がすっきり晴れるなんてことはないんだ。だから……」
「火村?」
だからアリスはフィクションの世界で、きれいにパズルを解いてくれ。美しく解かれることを目的に、計算され組み立てられたパズル。どんなに悲惨な現実があっても、それに影響されることはない。
「だから?」
「……だからせめて小説の中でくらい、ちゃんと解ける謎を出題してくれよ? いつまでも、俺に矛盾を指摘されてるんじゃねえぞ?」
「じゃかしい! 言われんでも次はちゃんと書くわ!」
書き続けろ、アリス。生き生きと好きな小説を書いて、お前の世界を創れ。
「俺、ミステリ読んだり書いたりすんの、楽しい。せやから俺も、人が読んで楽しいのを書きたい。本来ミステリなんてのは、精神が健康なときにしか楽しめんもんやと思うけど、どんなに辛いことがあっても、読めるくらいにまで立ち直った人には、やっぱしおもろいと感じてもらえたらええな。ハッピーエンドっちゅうと語弊があるけど、遺された登場人物も最後には先に進む希望が持てるような……」
きれいに謎が解けた後に、哀しみや怒りだけではない優しい気持ちが残る、現実にはありえないかもしれない世界。
そう。俺はコイツの書くものが好きだ。人物のひとりひとりに、犯人にまで向けられる、優しい視線が。
「……楽しみにしてる」
「おう。任しとき!」
作家になれ、アリス。お前の世界を、他の人にも伝えてやれ。
「俺な、結局、謎解きが好きなんや。パズルでも暗号でも、たとえ解けなくても挑戦するんが楽しい」
「たとえ解けない方が多くても、な?」
「放っとけや。―――君は息抜きの場所をちゃんと持っとるんか?」
持ってるさ、今は。……たぶん。
「あんな、俺を逃げ場所にしてもええよ? これはヤツ当たりやて事前に宣言してくれたら、多少の暴言は大目にみたる」
昔は持っていなかった、近くに、確かに存在する、どこか暖かな存在。
「けど落ち着いたら、ちゃんと言わなアカンで? 通常モードに戻ったら、ばしばし言い返させてもらうからな」
今のままで、アリスは充分に俺を支えてくれている。独りで立っていた頃よりも、側にこいつがいてくれるだけで、楽に先に歩き出せる気がする。アリスが頑張っているから、アリスが俺を見ているから、俺も脇道に逸れるわけにはいかない。
「けどアレやな。謎、好きやけど、いっちゃん謎なのは、君やな」
空き缶が2本並び、いい具合にとろんと回っている声で、アリスが呟く。
「……それは、俺のことが好きと言っているように聞こえるが」
「んー。俺にとっての君はなー、猫にマタタビみたいやねん。最初っから謎すぎて、付き合うと更に謎で、気になって気になってしゃあない。君、おもろ過ぎや。解けるまで、離れられへんかもしれん」
「……一生かかるかもしれないぜ?」
俺は、言わないから。人には――アリスには――言うつもりはない。
「おう、望むところや! 一生楽しませてくれ」
一生付き合える友達。そんなものを、想定したことはなかった。いま付き合いのある人間は、全て現在の状況が変わるまでの間柄だとしか考えていなかった。
アリスとなら、付き合っていけるだろうか? 卒業しても就職しても、ずっといい友達のままで?
―――そうだったらいい、と思った。
そう思えたことが、驚きだった。人並みに、ずっと友人でいて欲しいと思えた自分が。でもそれは、なんだかいいことのような気がして。
俺も酔っているのかもしれないが……いい気分だった。
それでも離れるようなことがあったとしても(と考えてしまうのは、今までの習性で仕方がない)、どこにいてもアリスは頑張っているだろうから。俺も、どこかにいるアリスを失望させるようなことだけは、したくないものだと思う。
そのためなら、真っ直ぐに進んでいけると思う。
いつの日か、自分の中にある謎に、きれいに答えが導き出せるように。
H12.10.15
どきゃーん、玉砕 (バタリ)
たまに真面目なこと言わせようと思ったら、全然進まないでやんの。やはり無謀だったのねー!
くうう〜、会話だけ小説だし (o_ _)o 顔だけマンガみたい〜〜(T_T)