戻る
日記へ戻る






「アリス、お前……」
 俺は呆然と、消えゆく夕暮れの光の中で眠っているアリスを凝視した。

 こんな寝かたをするヤツだったろうか……? 
 アリスは横向きに小さくうずくまるような格好で、身体を丸めて眠っていた。
 こいつの寝顔なんて、もう何度も見ている。寝ていてもどこか平和そうな顔をして、手足をのびのびと伸ばして眠っていたような気がする。それなのに。
 やつれたように眉間にシワを寄せた顔。少し痩せたか? もしかしたら泣いたのかも知れない。
「アリス…… アリス!」
 気がついた時には既に、俺はアリスを揺り起こそうと手を掛けていた。
 これは本当か、アリス。
 本当にお前は、こんな想いを抱えたまま俺にずっと接していたというのか?
 新品には見えないこのノートの様子からいって、おそらく何度も開いているのだろう。新たに書き加えることはなくとも、書いた時のままの気持ちで、ずっと1人で苦しんでいたというのだろうか。

 ―――俺と同じに?



「んー、ひむら……?」
 寝惚けた声を出して、アリスが目を覚ました。
「あれ、君、なんでおるん……?」
 びっくりしたのを隠さずに、でも嬉しそうに笑って起き上がったアリスを見て、俺は瞬間うろたえた。
 俺は何を言うつもりなんだ? どういう態度を取るべきなのだろう。
「どしたん…?」
 反応の鈍い俺に、アリスがいぶかしそうに声を掛けてくる。なおも言葉を返せないでいるうちに、アリスは俺が手にしているものに気づいた。

「ぁ……」
 アリスは一瞬のうちに蒼白になって、喘ぐような息を漏らした。
かえして………
「これ、本当かアリス」
……っ
「この日付…… 1年も前じゃねえか」
「イヤ! 見んといて………!」
 必死の形相で手を伸ばし、アリスは俺の手からノートをひったくった。ぎゅっと胸に抱き込んで、くるりと俺に背を向けて逃げる。消えてしまいたい、とばかりに、狭いベッドの壁際に小さくうずくまり、アリスは背を震わせて悲痛な呻き声を漏らした。
「わ、忘れて… お願いや。見んかったことにして……!」
 俺はベッド脇にある灰皿に、1本分のタバコの吸殻があるのに気づいた。吸うでもなく、ただ置かれて燃えるに任せていたように、きれいに形のまま灰になっている。きっちり根元まで燃えたところで押し消された、見覚えのあり過ぎるフィルター。
「……捨てるから、謝るから、なかったことにして」
 既に自分に染み付いている匂いだからわからなかった。アリスの部屋に微かに残る、コイツが普段吸わないはずのキャメルの香り。
「頼むから、友達、やめんといて。き、嫌わんとって! お願い……」
 半ば悲鳴のような泣き声で必死に訴えてくるアリスの肩に手を掛ける。イヤイヤと首を振るのを無理に振り向かせると、顔を涙でぐしゃぐしゃにしたアリスがいた。
「あ、アカン…? もうアカンの? そんな気持ち悪い? 許してくれんの? なぁ……」
 俺に向かって狂おしく見開かれていた目が絶望的に閉じられると、溜まっていた涙がどっと零れ落ちた。
 こんなに手放しで、子供のようにしゃくり上げるアリスを初めて見る。パニックを起こしているアリスにどうしてよいか解らず、ただ安心させてやりたくて、そっと胸に抱き寄せた。力なくもがくアリスのこめかみに唇を押し当てる。
「…ごめ、ごめんなさ……」
「悪かった。気づかなくて悪かったよ、アリス……」
「…ふ、ぅ……っ」
「泣くな。嫌ったりしない。そんなことしないから」
 いつもと違うアリスに、精一杯優しく言い聞かせてみる。わかれよ、アリス。頼む、伝わってくれ。俺がお前を嫌うことなんて、あるはずがないって。

 アリスは徐々におとなしくなり、目を閉じて俺に抱き寄せられるままになっている。まだ息は震わせたまま。―――コイツがこんなに頼りなく見えたのは初めてだ。ヤロー相手の言葉ではないが、ほとんど『儚げ』と言ってもいいくらいだった。
 いつも漫才じみた会話を交わしては、のんきに平和そうに笑っていた裏側で、本当はずっとこんな風に泣いていたのだろうか。
 ……馬鹿アリス。でも、気づかなかった俺はもっと大バカだ! 




「アリス……?」
 少し落ち付いたかと、胸に凭れたままのアリスの名を呼んでみる。アリスはおそるおそるといった感じで目を開けたが、しかし俺とは目を合わせられないようだった。
「……、忘れてくれるか? 今までどおりでいてくれるん?」
「バカ、忘れたりできるかよ」
「……っ」
 アリスの顔が再び歪む前に、慌てて付け足す。
「コラ、泣くな。聞けよ。……俺は友達より恋人がいい」
 ピクっと身体を硬くしたアリスの、何か言いたげに震えた唇に吸い寄せられるように口付けた。とっさのことだったが、その初めての柔らかさに、俺は自分がずっとこうしたかったことを改めて思い出した。
「………」
 ただ触れるだけのそれにずっと息を止めていたらしいアリスが、ふっと吐息を漏らした。

 許せよ。俺も自分の気持ちを隠すので精一杯だった。アリスも同じだなんて、気づこうともしなかったんだ。
(……ホンマに? 信じてええの?)
 おどおどと合わせられ、気弱に揺れる視線がそう訊いていた。
「同じだよ。アリスが好きだ。―――愛してる」
 そう告げると、透明な涙がびっくりするくらいぽろぽろと頬を伝った。
「ひむら…!」
 アリスは握りしめていたノートを放り出して、俺にしがみ付いてくる。
「泣くなってのに」
「こわかったんや……」
 震える身体を抱きしめてやれることが、こんなにも嬉しいとは思わなかった。
「気づかれたら、もう終わりやと思っとった」
 涙声で訴えながら、力一杯しがみ付いてくる。
「そうだな、俺もだ」
「……よかった。なくさなくて、終わりにならんで、よかった、ぁ…」
「してたまるか。終わりになんか!」
ひむら………
 アリスがこれ以上不安を感じなくて済むように、そして自分が安心できるように、強く強く抱きしめる。
「―― すき………
 小さく呟かれたたった一言が、こんなにも心を直撃することがあるのだということを、俺は初めて知った。





「1年も前から、か……?」
「ん…… 火村は?」
「それより更に1年くらい前、かな」
「ホンマに? ………言うてくれたらよかったのに」
「そうだな。言えればよかったな」
「うん…」
 安物のパイプベッドに並んで腰掛け、もう片時も離したくない気持ちそのままに、しっかりと抱きしめたまま話す。アリスも俺の背に廻した腕を離そうとしない。すっかり暗くなった部屋の中で、しかし明かりを点けるために立ち上がる気にもなれなかった。
 カーテンも閉めていない窓から入ってくる、アパート脇の街灯の光。月明かりほどロマンチックなものじゃないが――そうだったらアリスは喜んだだろうが――俺にはアリスの顔さえ見えれば、それだけで充分だ。

 ふと、俺は床に目を止めると、片手でアリスを抱き寄せたまま、もう片方の手を伸ばしてアリスが放り投げたノートを拾い上げた。
「これ、捨てるんなら俺が貰う」
「アホぉ、返せ。……恥ずかしいやん」
 この短い時間に、格段にかわいくなったように見えるのは気のせいじゃないよな? 甘えた口調も恥らう様子も、以前にはなかった(と思う……)。
 みんな、この日記のおかげ、かな。
「拾ってやったんだから、お礼に少し寄越せ」
「1割? 半分やったっけ?」


「最初の5ページだけでいい」



12.3.4


若気の至り、ってカンジ?
なんだかうちの2人じゃないみたいです……


日記へ戻る