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         安 心




 年代物の愛車の1日の仕事納めとして、火村は夕陽丘へと続く道を走らせていた。
 持ち主の心を反映してか、この道を辿るときは、他へ向かうより2割増し快調に走るような気がする。案外、持ち主よりも正直なのかもしれない。
(どーせ俺は正直とは言い難いしな)
 大切なことをはぐらかし続けている自覚がある火村は、最近のアリスの様子を思い出して顔をしかめた。
『気ィつけてな……』
 フィールドワークに出かける前に聴いたアリスの声が耳に残る。
 必要以上に、心配が滲み出ているような声。

 久しぶりにフィールドワークのお声が掛かった火村は、一応アリスに連絡を入れてみた。
「暇か?」
 むうっとふくれるのが楽しくて、わざとそんな言い方をする。向こうも心得たもので、いつもは律儀にぎゃあぎゃあと賑やかな返事を返してくれる。これも1つのコミュニケーション。
 が、今日の返事は。
『……暇やない………』
 心底残念そうな声。間に合わない!という切羽詰った様子ではないが、今日はどうしてもやらないと、といったところか。
「どうした。最近締め切りなんてあったっけ?」
『ちょっとした手直し。明日のお昼までに送らなアカンねん。せやから今日はちょっと…… なんやフィールドワークか?』
「ああ。じゃあしょうがねえな。また今度な」
『うん…… なぁ、俺に声掛けるってことは、今日は船曳さんとこ?』
 沈んでいた声を、無理に浮上させてアリスが訊いてくる。
「いや、兵庫県警だ」
『はっはー、また野上さんと会うんか。負けるんやないでー』
 精一杯明るく返すアリスのきっと無理に浮かべているだろう笑顔を、決して無駄にしちゃいけない、と火村は思う。
 フィールドワークに出掛けることを告げるたびに、アリスが必ず口にする「気ィ付けてな」は、決して単なる「行ってらっしゃい」のついでの決まり文句ではない。言い聞かせるためだけでなく何かに祈るような口調は、電話越しに聞くだけでも――面と向かってなら尚更――本当に案じてくれているのだと判る。
『なぁ…』
「ん?」
『終わったら来えへん? どうせ帰り道やろ』
「ああ…… けど、何時になるかわかんねえぞ」
『どーせ起きてるし。あんま早いと、俺の方が終わっとらんかもしれんけど』
「ああわかった。台所に入らなくてもいいって条件付きなら」
『ちぇ。そんなん思ってへんのに…… ほな、待ってるから。気ィつけてな』

 これと言って不自然な会話はなかった。ただ…… 何だろう、なにか引っ掛かるものがあった。いつもより浮き沈みの激しかったような声とか、どこか上滑りするような口調とか。なんと言うか、心が別のところにあるような感じで、軽口にも乗ってこない。最後の『気ィつけてな』だけが、哀しいまでの切実さで耳に残った。

 ここ最近のアリスの様子に、気付かない火村ではない。ビクビクとどこか思い詰めたような、縋るような必死さで自分を見つめてくる。
 心当たりがないわけじゃない。アリスの不安も怯えも、自分が齎しているものだと判っているから。
(このままでは……)
 このままでは、なんだというのだろう。
 自分の思考ながら、火村はその続きを辿るのを恐れた。結論は決まっているような気もするし、それに自分は耐えられないことも知っていたから。





 11時半。このくらいの時間ならと、火村はインターホンを鳴らした。ちなみに0時を回るようであれば合鍵を使うのだが。ぱたぱたと走ってくる姿が見えるような気がして、ふと頬を緩める。頭の中で測っていたよりも一瞬早く、ドアが開いた。
「おかえり」
 火村の姿を認め、あからさまにほっとした顔で出迎えたあと、なんだか泣きそうにも見える笑顔でアリスはふわりと抱き付いた。それで冷えたコートに気付いて、慌てて脱がせようとする。
「お疲れさま。……どやった?」
「ああ、今回は楽だったな。1日で終わったし」
 何もなかった『ように見える』のはいつものことだったから、普段の顔の奥に隠しているものはないかと、アリスは探るように見つめてくる。
「本当だって。容疑者は既に絞られてたんだ。俺はただそいつのアリバイの隙を突ついただけで。……助手の力が必要になるようなことは、なにもなかったよ」
 心配を絵に描いたようなアリスに苦笑して、火村は正直に伝える。今日は本当に、アリスの恐れるようなことは、何もなかったのだから。
「そか。……なぁ、ビールと日本酒、どっちがええ? さっきコンビニのおでん買うてきたんやけど」
「いや、今日は酒は止めとく。コーヒーがいいな」
 今日はアリスに言わなければならないことがあるから。
「そっか? でもおでんも食べよな?」
 さっきの戯言を間に受けたのか、火村を指定席のソファに座らせるとアリスは1人でキッチンに向かった。
 聞こえてくるガリガリいう大きな音に、インスタントではなくきちんと豆を挽いているのだと判る。
(おいおい……)
 北白川では深夜に当たる時間だが、この辺ではまだ宵の口なのだろうか。確かに外から見た限りでは、まだ明かりの点いた窓がたくさんあったが。思わず眉を顰めた火村だったが、暫くして漂ってきた芳香に、アリスの優先順位を感じて苦笑した。
 少しでも火村の居心地がいいように。ちょっとくらいのご近所迷惑より、火村の方が大事。
 でもそんな気の遣いかたにも、アリスの偏ったバランスを感じた。





 食べている最中も食後の一服をつけている今も、絶えず注がれる不安そうな視線。
 もうダメだ。これ以上放っておくことはできない。観念して、火村は手を伸ばしてアリスの頭を抱き寄せた。煙草を灰皿で揉み消すと、一旦は抱え込んだ頭を上げさせ顔を覗き込む。アリスは突然の火村の行動にさすがに驚いた顔をしていたが、じわりと瞳を潤ませ、慌てたように顔を伏せた。
「どうした?」
 訊いてもふるふると首を振るだけの答え。
「怖いのか?」
「―――わからん。けど……」
 しがみついてくる手を痛ましく感じながら、火村はアリスの髪をゆっくりと梳いた。
「俺が心配なんだろ? けど、お前の方が壊れそうじゃねぇか。ここんとこ、ずっとだ」
 アリスは自分の期待されている役割を、よく理解している。火村がアリスに求めているもの―――愛情はもとより、癒し、赦し、安らぎ……そういった暖かなもの―――それらを与えることが自分の役割と位置付け、火村がダメージを受けたら、一刻も早く癒さなければとパニックに陥る。火村が受けたダメージ以上に、自分が不安定になるくせに。
「ごめ… 最近、ちょおおかしいねん。け、けど、すぐ治すから……」
「どうやって治す気だ。バカ……」
 火村に触れるだけで、想うだけで訪れる情緒不安定。キャメルの匂いにすら反応してしまう。
 自分が原因だと判りきっているのに、不安を取り除いてやれないもどかしさに歯噛みしながら、火村はアリスを抱く腕に力を込めた。
 なんとかしろ。これ以上壊さないうちに。

「絶対すぐ治すから。俺が弱って、それで火村が心配して来てくれるなんてアカン。フィールドワーク帰りやのに、ここに来たら気が休まるんでなきゃ…… 今日は誘ったらアカンかった。すまん」
「アリス」
「早よ治さんと、火村に、もう来てもらわれへん……」
 顔を埋めたまま嘆くアリスに、火村は内心の焦燥を押し隠して名前を呼ぶ。優しく、安心させるように、何度も何度も。アリスを壊してしまったら、自分を許すことなどできない。
「何が怖い? 俺にどうして欲しい?」
 アリスは黙って首を振る。
「アリス、ほら」
「―――なんで俺にばっかり言わそうとすんの? 自分は何も言わんくせして……」
「俺の弱さはアリスのせいじゃないだろ? けど、アリスが壊れそうなのは俺のせいだ」
 さっきよりも強く首を振って否定するアリスの顔を上げさせ、潤んだままの瞳を覗き込む。
「どうしたらいい?」
 目を逸らしたアリスの唇が微かに動く。もう少し。
「言ってくれ。どうしたら安心できる?」

「……めて」
「ん?」
「覚悟、決めて。『いつか手放そう』なんて思うの、止めて。今すぐ!」
 呟くようだったアリスの声がだんだん強くなり、最後は叫ぶように言う。火村の目を睨んで。
「ホンマは、火村の方が俺を必要なはずやねん。せやろ? それやのに……。なんで俺の方が、こんな、今にも捨てられそうな気分にならなアカンの? 必要やったらちゃんと『離さない』って思えや! 『いつか離れよう』なんて、勝手にそんなん思ってるの、卑怯や……」
「…………」
「離れたいなんて思てへんくせに、離れようと思うの、止めて。いつ置いてかれるか怖い。そんなんで安心してられるワケないやろ!? 言いたくないことなんか、言わんでもええから……」
 火村を睨みつけたまま、しかし耐え切れずにアリスは涙を溢れさせた。そう言わせた火村の弱さと、とうとう言ってしまった自分の弱さに、悔しくて顔を歪めながら。

「アリス……」
 言わせてしまった。思わず力の限りに抱き締めたくなる腕を押さえ、火村はアリスと視線を合わせた。
「悪かった。約束する」
 そうだ。もう遅い。今となっては、離れようとしてみたって却ってアリスを苦しめることにしかならない。
「だから1人で泣くな」
 目の届かないところで辛い思いをされるよりは、手を伸ばせる位置で見守りたい。それがアリスがフィールドワークに同行する理由。そしてもちろん、それは火村も一緒だった。
 同じ泣かれるなら、目の前にいてくれた方がずっといい。手を伸ばして、涙を拭ってやれるから。



「ゴメンな? 強くなりたいって、いつも思ってはおるんや。けど、なかなか思うようにならへん……」
「お前は強いよ。この俺を甘えさせるくらいに」
「……ウソやん。君はいっつも、独りでどうにかしてしまいよる。俺はなんとか火村に甘えさせようとして、足掻いてるだけや」
「もっと甘えてもいいのか?」
「俺でできることなら、なんでも」
「じゃあ…… お前が言わせるんだからな。ちゃんと言うこと聞けよ」
「そんなん、言うてくれな、できるかどうかわからんやないか」

「先に逝くな」
 はっと息を飲む音。置いて行かれることを、アリスがなによりも恐れていることを知っているくせに、火村はそれを口に出した。
「……俺が、貧乏クジなん?」
 さすがにアリスの声が顫える。後になど、絶対に遺されたくない。けど、火村がそう望むのなら……
「―――ええよ。俺を遺すことより、君を遺すことの方が、人非人のような気ィするもんな……」
 火村は強いから。きっと無理をするから。
 普段どおりの生き方を続けようとして、そうしたら、無理をした心が壊れてしまうかもしれないから。分厚い壁で鎧ってはいるけれども、内面は柔らかく傷つきやすいことをアリスはよく知っていた。
 だから火村を遺しては逝けない。
「けど、笑って見送れなんて、無理な注文出したらアカンよ?」
「ああ。派手に泣いてくれて構わない」
「その代わり、それ以外では離れることないな? 絶対やな?」
「ああ」
「……せやったら、ええわ」
「ありがとう……」
 これで安心。2人はお互いに安心を手に入れた。
 どんなに頼りない安心だとしても、相手が約束してくれたから。



   なぁ、なんか、片想いやった頃より苦しいような気がすんのは、なんでやろな……
   じゃあ、やめるか?
   イヤや。
   強くなれば、少しはマシなんじゃねえ?
   そっか。なろうな。いつか、強く。絶対……


H12.12.12


アリスを慰めさせるはずだったのに、火村までドツボに落としてどないすんねん、私。
ここまでやれば、アリスもきっと暫くは落ち付いてくれるはず。たぶん……(爆)
あとで手直しするかも(しないかも)