捨てねこ
ぜいぜいと息を切らして立ち止まる。
火村の下宿を飛び出しめちゃくちゃに走ってきたつもりだったけど、何のことはない、昼間散歩の途中に寄った公園だった。10代20代の頃ならともかく、おっさんの体力では息が苦しくなるまで走っても、そう遠くまで行けるはずもなかった。
「さくら……」
さっきはあんなに惹きつけられたのに、優美な枝垂桜はこんなときには哀しすぎて。もこもこと優しく重たけな八重桜の方へ、私はふらふらと引き寄せられていった。
とうに桜の時期は過ぎたと思っていたのに、ここにはなんという種類かは判らないが八重桜と枝垂桜が、まだまだ元気に咲き誇っていた。
『うわぁ。ここの桜、まだ満開やん。きれ〜〜』
『ああ、葉っぱと一緒でも結構きれいなもんだな』
『桜餅そっくりやなぁ。うまそー』
『お前なぁ… いい年して口開けてんじゃねぇよ。毛虫が落ちてきても知らねえぞ』
ここを火村と歩いたのは、ほんの数時間前のことなのに。
一緒に笑いながら散歩して、楽しくて、あれは夢やったんか……?
火村がまた、アホなこと言うから。俺のため、とか勝手に思って、離れようとなんてするから。
頭にカッと血が昇って、「絶対に離れてなんかやらん!」 って怒鳴ってやるつもりだったのに。
口に出そうと息を吸った瞬間に、『もしも本当に、嫌がられてたら……』なんて思い付いてしまって。
―――スッと頭が冷えた。
頭だけじゃない。背中から指の先まで、熱が抜け落ちて行く感覚を味わった。
何も言えなくなった。言えなくて、逃げ出してしまった。情けない。
こういうのも、『捨てられた』って言うん、かな………
雨が降り出していた。
以前に聞いた話を思い出した。小次郎も桃も、雨の日にこの辺りで火村に拾われたのだ。
膝を抱えて座り込む。
小次郎がいたというすぐ側の茂みの中に潜り込むには私の体は大きすぎて、隠してくれるものもないから、せめて見た目だけでもふかふかと暖かそうな八重桜の、大きな木の根元へ。
いつも目にしている光景が浮かぶ。
めったに見せないような優しい目を惜しげもなく愛猫に与えている火村と、その飼い猫たち。
無邪気にごろごろと火村に懐いているコオ。火村の腕の中から、私に勝ち誇ったような視線を向けてくるモモ。普段は一人前の顔をしてるくせに、火村が構ってやる時には蕩けそうな顔になるウリ。
あの子らもばあちゃんや火村に拾われる前は、辛かったろうな。特にこんな雨の夜は。
ひもじくて、こわくて、くらくて、つめたくて………
それに比べたら、私なんか断然恵まれている。だって私は、1人でも生きていける。ちゃんと夜露を凌ぐ家だってあるし、食うに困らないだけの収入もある。ただ生きていくだけなら。
生きていける。今だって1人の時間の方が、火村といる時間より断然多いんだから。毎日1人で起きて、仕事をして、本を読んで、ご飯を食べて、眠って、独りで―――
…………嫌だ。
じわりと、本音が顔を覗かせた。
ずっと火村の側にいようと思ってた。誰が何と言おうとアイツの隣に。危ういものを抱えた火村をずっと傍で見守っていようなんて思ってたのに、そんなのは建前でしかないことに気付く。
雨が体温を奪うと同時に建前を洗い流して行く。火村のためだなんて大嘘。なんて見栄っ張りなんだろう。
ブルっと震えたのは寒いからじゃない。火村が欲しいと泣き喚く、自分の我侭な心が哀しかったから。
一緒にいたい。私が、火村を好きだから。抑え切れない。好きだからそばにいたい。ただそれだけ。
猫になれるものなら。
火村に拾ってもらえるんだったら、猫になったっていい。猫になりたい。
猫になってウリとコオとモモと、ばあちゃんと、火村と―――
「アリス!」
ピクリと、身体が顫えた。走ってきて私の前でピタリと止まった足音と、弾んだ呼吸を静めようとする間の、沈黙。
「……なにやってるんだ?」
「ニャ〜」
小さく、鳴いてみる。顔は上げられない。
「何してるって訊いてるんだが」
再び問う声。火村の手が腕に掛かる。
「ここにおったら、火村が拾ってくれるかな、って……」
「バカ、何言って……」
「……拾うてくれるん……?」
バカなことを言ってるって解ってる。けど。
「風邪ひくぞ! 早く来い!」
「一生面倒見る気がないんやったら、拾ったらアカンのやで? 1度拾っといてまた捨てるなんて、そんな残酷なこと、せんとってや……」
押えたような火村の溜息。呆れてる。
「常識だろ。そんなこと」
「……一生、やで? 絶対離れてやらんからな。ええな!」
「……いいのか」
「…?」
微かに混じった今までと違う口調に、初めて火村の顔を見上げた。
「アリスはそれでいいのか? 一生俺に囚われたままで、本当に……」
呆れて少しイラついた顔をしてるとばかり思ったのに、そこには慈しむような、心なしか恐れているような真剣な顔があった。その表情の中に、私は確かに読み取った。火村はずっと迷い続けているけれども、心の底では私を欲しがってくれているということ。
ああ、自惚れだと笑ってくれてもいい。でも。
「……アホぉ。他のどこに行けって? 1番大事なもんがここにあるって解ってんのに!」
伸ばした手をとってくれた火村の、一瞬泣きそうに歪んだ視線を読み間違えたのだとしたら、永年隣にいた実績が無駄だったことになるから。私にだけ向けられるサイン、これからもしっかり受けとめるから。他の誰にも判らなくても、私が読み解いてみせるから、だから……
とうの昔に固めていたはずの決心を、再び新たにする。
私は火村から離れない。未熟者だから、これからも妬いたり疑ったりぐらつくこともあるだろうけれども、何度でも乗り越えてみせる。私から手を放すことは絶対にしない。
ずっと、ここにいさせて―――
腕を引かれて立ち上がると、隣でクスリと笑う気配がした。
「どしたん?」
「これ以上、婆ちゃんに何て言うかな」
『もう一匹、増えてもいいかな』
火村が私の襟首を摘んでそう言う図が目に浮かんで、私はあやうくふきだすところだった。
「今度の猫は婆ちゃんの手ぇ煩わせる心配ないで? 家付きやし。飼い主を泊めてやる甲斐性もある」
「そうか? いっつも婆ちゃんがお茶に呼んでくれるのを待ち構えてるのは、どこのどいつだ」
「……せやかて、婆ちゃんのお茶、美味いやんか」
「まずは問答無用で風呂に放り込まれるだろうな」
笑いながら、火村が濡れて冷えた私の身体を抱き寄せる。
「アカン、濡れてまう」
「いいから」
一応抗議してみたが、聞き入れてはもらえなかった。私の言葉がうわべだけだったことに、火村は気付いていたに違いない。
傘が1本しかないから。濡れてしまうから。
だからぴったりと寄り添っていても、それはしょうがないだろう?
ある程度屋根の代わりをしてくれていた八重桜の木の下を出る。単純な私の目には、さっきあれほど哀しく見えた枝垂桜も、今は優しく見送ってくれているように見えた。
ウリ達が北白川のあの家を帰る処にしているのは、たまたま拾われたからだけじゃない。名前をつけてもらって、可愛がられて、自分の居場所はここだと決めたからだ。
猫にできることが人間にできないはずはない。
私の居場所はここだ。ずっと前から決めていたことだ。
それこそ瓜太郎がやって来る以前から決めていたことだというのに、いつまで経ってもぐらついている私に、彼らは内心呆れているかも知れない。瓜太郎には私が火村の部屋に1人残された時の話し相手として、それこそ火村に言えないことも聞いてもらっているし、小さかった小次郎も最近はいっぱしの大人の顔で私を見ることがある。1番新入りの桃に至っては、早々に火村の腕の中を自分の居場所と決め込んで、視線で私に挑戦状を叩きつけているではないか。
『受けて立ったる』
遅れ馳せながら闘志を燃やし始めた私を、彼らはどんな顔をして迎えてくれるだろうか。
できれば仲間として迎え入れて欲しい。ライバル争いになっても、負けるつもりはないけれど。
歩いて帰る途中で、雨が止んだ。
濡れないように、という名目がなくなったが離れたくなかった。やたらと挑戦的な気分になっていた私は、雲の切れ間から顔を出した月に見せ付けるように、火村に腕を絡ませた。
驚いたようにこちらを向いた視線には、気付かない振りをして。拾われたばかりの新参者としては、ちょっとずうずうしいかと思ったけど、負けられないという思いを込めて―――
H12.5.14
できれば10年前くらいの話にしたかったけど、猫たち3匹ともいて欲しかったので断念。
本当は火村よりアリスの方が強いと思ってるんだよー、本当だよー。と言って、誰が信じてくれるのだ……(-_-;)
くそー、次回こそ年相応なアリスを!(野望)