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        未確認




「なぁ、久しぶりにこっち来れないか? 泊まってけよ」
 週末に身体が空いていれば、どちらかの家を訪ねて上司や教授のグチをこぼしつつ、飲み明かすのが習慣になっている。予定が合わなければ1ヶ月くらい会わないこともあるが、特に忙しい時期でなければ月に2、3回といったところだろうか。
 どちらかというと火村の方からアリスのアパートにやって来るパターンが多かったが、今回は火村から誘いの電話があった。
「定時に上がれそうか?」
「ん、たぶん大丈夫やと思う」
「婆ちゃん、出掛けるって言ってるんだ。俺の方が遅いと思うんで、部屋に上がって待っててくれ」
 火村からの誘いは、いつだって嬉しい。けど受話器越しに聞こえてくる火村の声に、アリスはいつもと違う響きを感じ取った。
「ええけど…… なぁ、君、なんかいいことあった?」
「あ? なんでだ」
「せやかて、なんや声が嬉しそうやん。……彼女でもできたんか?」
 それはアリスにとっては、訊くのが辛い質問だったけれど。悪友同士の日常会話としては、しなければならないお約束というもので。
「別に彼女じゃねえけどな。かわいいのがいるぜ」
「ふ、ふーん……」
「明日教えてやるよ。じゃあな」
「う、うん、またな。おやすみ……」
 気になるやないか〜! アリスは心の中で絶叫した。学生の中に可愛い子がいるという意味だろうか? それとも近所に? あるいはバイト先に? ずっと女嫌いで通してきた火村なのに。
 明日会ったら問い質してやらなくては! と、アリスは握りこぶしで決意する。
 が、問い質して、その先は……? どうしよう。聞きたくないことを言われてしまったら…… せっかく決意した先から、すぐにへこんでしまう。こと火村に関しては、感情の起伏がどうにもコントロールできなくて。
 心なしか浮かれているような火村の声を思い返して、胸の中がざわざわ騒ぎ出す。それを無理矢理に押さえ付けて、アリスは眠れぬ夜を過ごした。 





 日が沈む前に、早くもアリスは北白川へ辿り付いていた。
 サラリーマン御用達のあの薄いカバンではないが、学生の頃には見向きもしなかっただろう実用本位の、A4の書類が楽々入る黒い大きめのショルダーバックを肩に、手にはスーツ姿に似合わぬコンビニの袋をぶら下げて。ちょうどこっち方面に届けものがあって、そのまま直帰していいとの許可をもらったのだ。
「ちょうどラッキーやったな。やっぱり日頃の行いやな〜」
 電話で言っていたとおり篠宮さんちはお留守のようだったが、鍵の隠し場所は教えてもらってある。いつでも来ていいですよ、との大家さんのお墨付き。
 たった1人残った店子のたった1人の親友として、本人と同じように家族扱いしてもらっている。火村の他には誰もいなくなってしまった店子の代わりに。
「おじゃましまーす」
 留守とわかっていても、アリスは習慣で律儀に声をかけて上がり込んだ。

 1階はどこもしっかりと戸締りがしてあったが、2階に上がってみると、風を通すためか、どの部屋の入り口も襖も窓も全開にしてあった。珍しい光景に、アリスはついつい他の部屋を覗いて歩く。今までは他にも住人がいたし、空き部屋は閉まっていたしで、覗いてみる機会などなかったから。
 日が長くなってきて、まだ明かりを点けなくても行動できる。窓から見える空は、水色と朱と紫の柔らかな饗宴。夜の始まりの蒼も生まれようとしている。
 薄暗い部屋の中には、日中の温い空気が置き土産として取り残されていた。でもいい加減に、窓は閉めた方がいい時間だろう。
「あいつ、このために俺を呼んだんちゃうやろな……」
 ぶつぶつ言いながら窓とついでに障子戸も閉める。
 がらーんと殺風景な部屋。
 去年空いた部屋は、下から運んできた婆ちゃんの使わない荷物の物置になっている。
 この3月に空いたばかりの部屋には、午前中に干したと思しき、古くても暖かそうな布団が何枚か畳まれていて、部屋の隅には使うつもりで組み立てたようなダンボール箱が3つ、そのまま置き去りにされていた。
『有栖川さんなら、いつでも引っ越してきてもろうてええんよ』
 冗談混じりに、何度かばあちゃんに言われたセリフ。それができたらどんなにかいいだろう。優しいばあちゃんと、火村と、毎日一緒に暮らせたら。実際、大学を卒業したら家を出ろと母親に言われたときには、ここをアテにして京都の会社を探せばよかったと後悔した。でも今となっては……
「……できるわけないやん」
 会社から遠いということばかりではなくて、毎日火村と顔を合わせていたらきっと気付かれてしまう。
 たまに週末に会うだけでもキツイのに。でも疎遠になるのはもっと辛くて、こうして会いに来てしまう。
 大きくなりすぎた、火村への想いを抱えて―――


 ガランとした部屋に立ち尽くしていたことに気付いて、アリスは1人で赤面した。わたわたと、今度は火村の部屋だと移動する。
「?」
 いつもはうず高く積んである本の山が、低くなっていた。
 優に1メートル以上の高さに積み上がっていた本の山が、せいぜい30センチくらいになっている。いや、本の量は変わらないのだが、低い山が部屋一面を占拠する形になっていて。座る場所、寝る場所、通り道、それ以外は文字通り足の踏み場もない。
 通路、という感じに空いた本の山の間を通り抜け、部屋がまだ暖かかったので、窓を取りあえず半分だけ閉めた。勝手にハンガーを拝借してパジャマ兼用のTシャツに着替える。
「大掃除でもしたんか?」
 前よりも部屋が狭くなる掃除などあまり聞かないが、これなら部屋に彼女を呼んでいるという心配はあるまいと安堵する。が、その直後、アリスは自嘲に顔を歪めた。火村に繋がる思考の全てがそっちの方に行ってしまっている気がして。
「末期症状やな……」
 ため息を吐いて火村の部屋を出る。
 ふらふらと先ほどの空き部屋に戻り、畳んである布団に寄りかかるように座り込んだ。なんとか思考を火村から引き離そうと、温めている次の小説のプロットに思いを巡らして。
(トリックはできてるんや。そしたらアイツらをどーやって巻き込むかなんやけど……)
 登場人物が大学生のため、頭に浮かぶのは当然のことながら自分が通ったキャンパスで、そこにはいつも火村の姿があって……
「あかーん」
 うまく行かない切り替えに、泣きたいような気分になってアリスは布団に顔を埋めた。





 いつの間に眠ってしまったのだろう。
 気がつくと辺りは真っ暗で、いったい何時なのかさっぱり分からない。火村はまだ帰らないのだろうか? 暫しぽーっとしていたアリスは、ふと聞こえて来た物音に、自分が何故目を覚ましたのかを思い出した。
 さっきから、奇妙な音が聞こえていたからだ。
 がさがさ、ごそごそという紙をこすり合わせるような音に混じる、ぴちゃぴちゃと舐めるような音。
 火村しかいないはずだと声を掛けようとして、寸前で声を飲み込む。あまりに不自然な音に、今度こそはっきりと目が覚め、背筋がゾッと粟立った。
(火村のわけないやん〜〜)
 火村が帰っているなら、こんなに真っ暗なはずがない。
(ど、どろぼーか?)
 そう言えば、火村が帰って来るからと玄関の鍵は掛けなかった。でもまだ明るかったから、電気は点けなかった。自分が寝こけている間に、留守宅と間違えられて泥棒が入ったのだとしたらどうしよう……!
(ちがう〜 泥棒はこんなところで呑気におやつ食ったりせぇへん)
 部屋の温度はすっかり下がっているのに、アリスはこめかみに汗が伝うのを感じた。
 さっきから聞こえている変な音の説明がつかない。
 布団に押し付けた耳に自分の鼓動がうるさくて定かではないのだが、ゴソゴソぴちゃぴちゃいう音の間に、小さな息遣いが混ざっているようなのは気のせいだろうか? その不気味な音の発生源が、こともあろうに同じ部屋の中に放置されている――ここからは死角になっている――ダンボールのような気がするのも、気のせいだったらありがたいのだが……
 ミステリだけでなく、ホラーもSFもそれなりに読んでいるアリスである。ホラー映画は大好きだ。過去に読んだり見たりしたシーンのいくつかが、望んでもいないのに勝手に頭の中で鮮やかに再生される。
(いやいやいや、やっぱしマヌケな泥棒かもしれへんし。うん)
 ホラーは好きだが、自分で体験したいとは思わない。アリスは思考を軌道修正した。現実逃避とも言う。
 こっそりと、本当にこっそりと、布団の陰から向こうを覗いてみる。暗闇に慣れた目でそっと伺ってみたが、ダンボールのあたりに人の影は、ない、ようだ。
 これはホッとする事態なのか、更なる恐怖が待っているのか……
(何かおったとしても、見えん方がええんや、きっと。……うー、アチラさんに気付かれたらどないなんねやろ……)
 なおも目を凝らしていると、箱の陰で、ぼんやりとした緑の光がすうっと動いたような気がした。
「――っ!」
 アリスは両手で口を塞いで、声に出さない悲鳴を上げた。
 そのとき。


「ただいま」
 火村 !!
 玄関の戸が開く音と一緒に、火村の声が聞こえた。
「アリス? 寝てるのか?」
 階段を昇る足音。
(あかん!)
「火村! 来るな!」
 アリスは思わず叫んだ。
「どうした !?」
 けれどそれは逆効果で、火村に変事を伝える結果にしかならなくて……
「火村!」
「うわっ!」
 戸口に立ったシルエットに、アリスは全力で飛びかかった。ふいを突かれた火村を廊下に押し倒し、その上に覆い被さるようにしがみ付く。
(俺らはなんも手出しせぇへんから、頼むから、どうかこのままどっか行ってくれ!)
(泥棒さんやったら早う逃げてくれ。れ、霊の方でしたらたのんますいますぐ成仏してください)
(未確認生物やったら、お、俺らなんか食っても美味くないんやぁ〜〜っ!!)
 2:1なら捕まえられるかも―――なんて考えは、アリスの頭からすっぽりと抜け落ちていた。ただただ、火村に何もないように、追い詰められた何者か(何なんだ〜!)に逆襲されたりしないように……
 それだけを願って、アリスは火村を上からぎゅうぎゅうと押さえ付けていた。


「アリス? おい、一体なんだってんだよ?」
 あまりに驚いたのかそのままの体勢で、暫くの時間が過ぎてからようやく火村が声を発した。
「な、なんかおる……」
「は?」
「このっ、この部屋ん中に、泥棒かゆーれーかバケモンがおる!」
 アリスの願いも空しく逃げて行く足音も、窓の開く音もしなかったのだから、まだ部屋の中にいるに違いない―――ゆ、幽霊さんでなけれぱ。
 あまりに必死なアリスに圧されてか、火村は真剣な様子になってアリスを押し退けた。
「ここにいろ」
「火村、アカンって」
 アリスの静止も聞かずに火村は部屋に入り、即座に電気を点ける。
「っ!」
 暗闇に慣れた瞳に、突然の白い光は眩しすぎて。反射的に閉じてしまった目をこじ開けて、アリスは火村の姿を捜す。翳した手の下から見た部屋の中、火村が1人で、低く唸りつつ立っているのが見えた。
「こいつは…… 確かに泥棒だな」
「えっ?」
 それはアリスの選択肢のうち、1番マシなものではあったけれど。部屋の中を見回しても、火村の他に人の姿は見当たらない。
「こいつだろ?」
 と、火村がダンボール箱に手を突っ込んで、ひょいと摘み上げる。
「オマエなぁ、それどっから持ってきたんだよ……」
 火村に首根っこを押さえられた泥棒は、獲物のちくわをしっかりと両手に持って、自慢げにニャーと鳴いた。





「だからカワイイのがいるって言っただろ? なー、ウリ」
「ウリ?」
「瓜太郎。この間、婆ちゃんが拾ってきたんだ」
 肩の上の猫を大きな手で撫でながら、火村が言う。
「泥棒か幽霊か化物ねぇ…… 泥棒が家探しするならこんな2階の空き部屋なんかじゃなくて、婆ちゃんの部屋あたりにするんじゃねえのか? 中には間抜けなヤツもいるかもしれないけどよ」
「ううううるさい」
 火村は獲物を没収し、盗みを働いたことをひとしきり叱っていたが、食べ掛けのそれを今更返しに行くこともできず、結局、猫まんまの具として有効利用してしまった。人間たちよりも先に与えられる特別待遇。全て平らげるのを見届けて、今は満足した猫を纏わりつかせている。
「まぁ、遅くなった俺も悪かったんだしな。ハラへってたんだろ。悪かったな」
 火村が猫好きだということをアリスは以前から知っていたが、これほどとは思っていなかった。申し訳なさそうに謝る口調も真剣で、肩からずり落ちないように支える手付きとかもすごく自然に見えて。
(俺には詫びはないんかい)
 と、アリスは面白くなかったりする。こっちは寿命が縮んだっていうのに。
「しっかし、一体どっから取ってきたんやろな」
「明日、裏の家あたりに訊いてみるか。謝らねえとな…… お前も付き合え」
 なんで俺が! アリスは咄嗟に断ろうとした。が、火村のその姿は見ものだと思い返して承知する。もちろん、後でからかう貴重なネタにするのだ。
「しゃーないなー。……全く、とんでもないハンターやな」
「おう、ネズミもスズメも獲ってくるぜ」
「……なんでそこで自慢やねん」
 今のは皮肉以外の何物でもないというのに。
 ――親バカ――この言葉を、アリスはすんでのところで飲みこんだ。
 高い高い状態に持ち上げて話し掛ける楽しそうな口調とか、本の山の間を探険して歩くのを見ている眼差しとかが、すごく優しくて、……なんだか少し、痛い。
「山がなだらかになってるのは、コイツのせいか?」
「ああ。崩れて怪我したらいけないだろ」
 再び擦り寄ってきた瓜太郎の背中を撫でる様子に、アリスは、なんだかもやもやと込み上げてくるものを感じた。
 火村のその視線は、自分だけに優しいと自惚れていたのに。
 火村のその手は、アリスが欲しくてたまらなくて、まだ手に入れていないものなのに。


「気持ちよさそうやなー」
 火村の大きな手に撫でられ、安心しきって目を細めているその姿は、羨むには情けなくて、恨むにはかわいすぎて。
 瓜太郎を見つめたまま思いに沈んでいたアリスは、ふいに頭の上に火村の手を感じてうろたえた。
「な、なに?」
「お前の方が構って欲しそうな顔してたぜ」
「……っ」
 あまりに図星すぎて返す言葉もない。
 火村の長い指が、繰り返しアリスの髪を梳いていく。優しく、何度も。
 軽口の1つでも叩いて払いのけるべき場面だとわかってはいたが、待ち望んでいたものだっただけに、アリスには振り払うことができなかった。せめてうっとりしてしまっているに違いない表情だけでも隠そうと、遅れ馳せながら目を閉じる。
「にゃ〜 俺もここんちの猫になろかなー」
 それでも隠し切れているとは思えなくて、瓜太郎の真似をしてうずくまり、火村の膝に額をすり寄せる。
 悪ノリを装った、泣きたいくらいの本気。
「こら、調子に乗ってんじゃねえよ」
「せやって、そしたら幸せそうなんやもん〜〜」
 捨て身で、ゴロゴロと懐く。
 アリスにしてみれば、半ば自虐的な気分だった。猫に嫉妬なんかしてしまう自分が情けなくて。赤ちゃんにお母さんを独占された、お兄ちゃんになったような気がした。
 その弟が、後に恋人についての愚痴を黙って聞いてくれる1番の相手になるなどとは、まだ夢にも思わずに。



 目を閉じて火村の手を堪能していたから、その表情が、行動が、火村にどんな影響を及ぼしたかアリスは確認できなかった。
 アリスを見つめる火村の目が、一瞬凶暴に光ったことも。
 その後、この上なく優しく、切ない色を宿した瞳に変わっていったことも。
 アリスが髪を撫でられている間、明らかにおざなりになった触り方に、瓜太郎が訝しげに火村を見上げていたことも―――






H12.9.9

モデル・ネタ提供は、衿・淋さんとその猫、沙羅(さら)、水月(みづき)、桃夏(ももか)ちゃんs、でした。
単なるほのぼのコメディのつもりが、なんでしょうこの長さは……(笑)


衿・淋さまにはネコ指導 (^-^;) もしていただきました。ありがとうございました!
瓜がいつ頃篠宮家に来たのか不明ですが、下宿屋を畳んで寂しくなったばかりの頃かなと。
しかしその前に、いつ頃下宿が畳まれたのかが不明……
この話では、火村が院生2年目の春に設定してみました。