助手のお仕事 注意 ネタバレ!!(屋根裏の散歩者)
火村の唇が、私の首筋を辿る。
思い出すと背筋がぞっとするような、妙に冷たかったあいつの指先の感触を消そうとするかのように、何度も何度も。
見えなくても解る。私から見えてない時にだけ浮かべる罪悪感にかられた表情は、私を切なくさせる。
ほら。私はなんともないから。君が気に病む必要なんてない。
私は、嬉しかったのに―――
私は嬉しかった。
咄嗟のあれが、信頼などというものから出た言葉ではないと、解ってはいるけれど。
逃げろ! とか言う訳にはいかなかったろう? あの場合。
あの体格で素手のヤツ相手に、そんなこと言われたら怒るぞ。当然のセリフだ。
火村が叫んだ言葉は。
「取り押えろ、アリス!」
その声は呆然と突っ立っていた私を正気に返らせた。身構えたところに突撃してきたヤツと揉み合いになる。
火村が惹かれ続ける犯罪者。今回はコイツか―――
火村が犯罪者を憎むのとは別の次元で、私も彼らを恨んでいる。今回も火村の勝ちだ。ザマアミロ!
本性を表わした殺人鬼の両手が目の前に迫ってくる。
殺られてたまるか! 私は、相手の股間を蹴り上げた。
ちゃんと、上手くやれたと思ったのに……
奇妙な声を上げて蹲った犯人を、追い付いた火村と押え付ける。起き上がった警部がまず足を、次いで腕と胴体を一緒にロープで縛り上げる。一息吐いてやれやれと顔を上げたとき―――火村の目は、もう後悔に彩られていた。
どうせ私を危険に晒したとか、見当違いに自分を責めているんだろう? そんなふうに思って欲しくなんかないのに。
首に手を掛けられるようなヘマしてゴメンな? もっと危なげなく、あっさり捕まえられたらよかったけど、文系人間にはこれが精一杯やったんや。スマン。
なぁ、火村。今日は楽しかったな?
君はずっと捜査のことを考えていたかも知れないけど、私にとっては、現場を離れてからはデートに他ならなかった。
髪を切りに行くと言った割には何件もの店を覗き込んでは素通りする火村に、何が気に入らないのかと首を傾げた。ようやく入った美容院で、きれいな長髪を今まさにばっさりとショートにしている女性の脇を、捜査用の手袋を嵌めた火村がすっと屈み込み、手袋を裏返すように素早く外して丸めたときに謎が解けたが、解けたら解けたで、更に大きな謎に頭を悩ますこととなった。同時に、あまりにも堂々としている火村の代わりに、私の方が人の目を気にして冷や汗をかいた。
火村と並んで座らされた椅子の上で、いつもの床屋の親父さんではない、明らかに年下の女の子に担当されて緊張したり、火村についたのがツンツン頭の兄ちゃんでホッとしたりした。
お互いにさっぱりした頭で向かい合うのはなんだか妙に照れくさく、夕飯はラーメン屋のカウンターに並んで済ませた。昼がスパゲッティだったので火村はチャーハンなんぞを頼んでいたが、締切り前は昼も夜もカップ麺などというのも珍しくない私は平気でチャーシュー麺を食べた。旨かった。
それでも時間が余ったので2、3買い物をして、本屋をハシゴして。飲みに行くわけにはいかなかったのでコーヒーで休憩して……
火村を独占できた、すごく贅沢な午後。
現場に戻ってからの息詰まるような暗闇の中、私はひたすら火村の気配を追っていた。
キシリとも言わない天井に耳を澄まし、暗い穴でしかない押入れの奥に目を凝らした、長い長い時間。
入った押入れから、またひっそりと戻ってくるとばかり思って待ってたのに、あれは反則だろう? 心臓が縮み上がったかと思ったぞ。警部もさぞかし肝を冷やしたことだろう。
なぁ?
今日は1日、とても楽しかった。
1日の仕上げに凶悪犯を捕まえることができて、社会にも貢献できた。
なにより1日中火村と一緒にいられて、私はとても幸せだった。
でも、君はそうじゃなかった?
今回のフィールドワークは1日で片付いたし、酷い言葉を投げ付けられることもなかった。火村にかかれば楽勝の、私が心配する必要などこれっぽっちもない事件だったのだが、君にとっては違ってた?
なぁ、頼むから―――
自分を責めるような、そんな目をするな。
私はこのとおりピンピンしてるし、首を締められたわけでもない。何のダメージも受けてないんやで?
『暇か?』の一言でフラフラと誘い出された呑気者の民間人が怪我をしたとあっては、船曳警部に申し訳が立たないし、今まで築いてきた火村の信頼が損なわれてしまう。
なにより。フィールドワーク中に私になにかあったりしたら、君へのダメージが1番大きいもんな?
だから。私は、フィールドワーク中に怪我したりなんかしない。
もしもそんなことになったら、もう2度と連れて行ってもらえなくなってしまうかもしれないし。その危険性は常に考慮に入れてあるはずだけれども、実際にそれが目の前で起こってしまった時の衝撃は、また別だろうから。
知りたい私と、言わない火村の妥協点。火村が私に許してくれるギリギリの範囲。
その場所をなくすわけにはいかないのだ。
ましてや火村の目の前で殺られたりなんか、絶対しない。
私は火村より先に逝かないと約束しているのだから。
いつか置いていかれるのかと恐くてたまらない私だけれど、そんな状況を君に押し付けてしまうなんて、そんなのダメだから。
もう既に火村が背負っている、重く圧し掛かる何か。
ちょっと横に降ろしたり、私に少し預けてみようかなんて考えは、浮かんだこともないんだろう?
全てを1人で背負い込もうとする火村に、これ以上の枷を負わせるなんてできない。
今回みたいなことは、例外だって判ってる。そうそう犯人逮捕に協力できるほど、私はハードボイルドには向いていない。出来の悪い助手でゴメンな?
私にできるのは、見届けること。現場より関係者より、私の目は火村を追ってしまう。
事件を共有して、火村が何を感じたか知ろうとすること。例え本当に知ることはできないにしても。
ほんと事件の解決には何の役にも立たんな……
でも君が危ないときには、迷わず手を伸ばしたい。
『君を守る』なんてのが理想だけれど、そんなカッコイイことは私にはたぶん出来ない。
君と、一緒に逃げる。
犯人逮捕は警察のお仕事。犯人を見付けるまでが、探偵のお仕事や。
犯罪学者としてのお仕事は、それからでもできるやろう?
私は、危ない時には自分でちゃんと逃げる。
だから君も、俺を庇ったりしたらアカンよ。私がいない時でも、ちゃんと逃げなアカンよ? 絶対やで?
「肩、平気か?」
「ん…?」
「念の為、病院で診てもらった方がいい」
さっき犯人と揉み合った際に、ほんのちょっとだけ痛めた肩。
私がこっそりと回していたのを、火村はちゃんと気づいていたらしい。
全く…… 君には、何にも隠しておけんのやな。
「君がマッサージしてくれたらええやん。君と違うて医療費3割負担やねん。労災もあらへんしな」
これがミステリを書くための取材中の怪我だったら、ミステリ作家に労災は適用されるのだろうか? って、その前にその保険に入ってもいないが。まぁこの場合、当事者がこの犯罪学者だとしても無理だろうけど。ましてや私のは、決して取材ではないのだし。
「念の為だって」
「阿呆。いっつもあれ以上の無茶をさせる輩が、何を仰るやら」
いつも私を酷い筋肉痛に追い込んでくれる張本人のくせに…… 筋違いしないのが不思議、ってなくらいなのだ。
「ほーお。良かったじゃねえか。普段から鍛えといた甲斐があったな、ってことで。―――さて。それじゃあ、今日の分のトレーニング開始といくか?」
「……エロオヤジ」
早く早く、冗談にしてしまおう。火村にこんな目はさせたくない。
「俺、スポーツクラブとか、行こかな?」
「3日坊主が判りきってるのに、わざわざ高い入会金を払うとは太っ腹な」
「むーーーーーー」
「やめとけ。筋肉痛で泣きを見るぞ」
「うーーーん」
「散歩の距離を伸ばす程度で満足しとけ。マッサージさせられんのはゴメンだぜ」
「ケチー」
逃げないから。
君からは絶対に逃げないから。
動じない強さはあいにくないけど、受け止めることはできるから。そのくらいの力はあるから。
受け止めて、ゆっくり解きほぐして、最後にはきっと一緒に笑える。
だから。
強くなりたい。もっともっと強く。火村に心配させる必要がないくらいに。
火村が傷つくことに動揺してしまうのが隠せない私を、反対に気遣わせたりするようなことがないように。
傷ついた自分を、私にそのまま曝け出してもいいかと認めてもらえるくらいに。
だから。
連れて行ってな。また君のフィールドに。
だって私は、君の助手なのだから―――
H13.4.11
実際のところ、火村はどうやってアレを調達したのでしょう?(大笑) お店の人に直談判か?
軽くてほんのり (思いっきり?/笑) ラブラブな屋根裏を、こんなにずっしりさせちゃってゴメンナサイ。
それと、もしかして作家さん独自の労災もどきがあったりするかな。ないよな。きっと。
(追記)社会保険や共済組合員の、医療費本人負担額が一割だった頃に書いた話です。
アリスは国民健康保険だよね。火村は私学共済で合ってる?