音楽哲学「音楽の芸術性と商業性」

みなさん貴重な書き込みありがとうございました。
「音楽哲学」は97年頃に当サイトにて掲示板形式で行っていました。
「考えるより行動」という考えに転向したため、現在はお休みです。
何か意見を投稿したいと言う方がいらっしゃいましたらメールでお願いします。


音楽哲学 第二テーマ

YU-Ki
http://www.sol.dti.ne.jp/y-hara/aw.html
98/01/09 15:19:23
こんにちは。
YU-Kiです。
前回はこのページにみなさんからの沢山の書き込みがあり嬉しく思っています。
たいへんありがとうございました。

さて今回のテーマは「音楽の芸術性と商業性」です。
みなさんは音楽を聞く時どこに芸術性または商業性を感じられるでしょうか?
また、実際に制作に携わっていらっしゃる方々はそれらをどのように消化し制作していらっしゃるのでしょうか?
あまり難しく考えず気軽に書き込んでいってください。

では。


どんな音楽も商業性からは逃れられない!

高清水
98/01/10 12:48:38
資本主義社会である限り、音楽は金儲けの道具です。
かつて、マルクスは、共産主義社会においては芸術家は
存在しなくなると言っています。すなわち、すべての人が芸術家となるから、と言っています。
しかし、人間である限り、音楽は必要です。
ただ、この前提だけは忘れずに音楽を見つめないと、気づいたときには、商品としての音楽の奴隷になってしまうと思います。
例えば、小室哲哉の音楽にこの傾向がある。意味不明の英語の歌詞、派手な転調、不快感以外のなにものでもない歌手の声質等等。
例えば、日本の民謡に人間性の復権を見ることができる。自然との一体感、合いの手の芸術性、生活することの讃歌等等。
例えば、いままで解らなかった、モーツアルトが、人生のある逆境を契機に必要欠くべかざるものとなった。
かつて、ベートーベンはナポレオンを意識し、ショパンはポーランド革命を意識し、モーツアルトは貴族社会を意識し、作曲した。
しかし、現代の音楽家にはこの社会性と政治性がない。普遍性のない音楽は泡のように消えていく。
結論、自然と生活に密着し、社会性と政治性にあふれる音楽のみが真に芸術と呼ぶにふさわしいのではないか!
以上。

ただただ「芸術性」を優先。

岡村英之
http://www.pa.airnet.ne.jp/xokamura/
98/01/31 01:39:13
YUKIさんは実際に音楽関係の仕事をしているので、とても趣味で作曲などをしている私は一人前のことは言えないのですが、一つだけ言えるとしたら、音楽の分野で「商業」的に成功している人はごく「まれ」であるということです。
反対に、「芸術性」に関していえば、どのような音楽家の人も、「芸術性」を追求する「可能性」を持っています。
ですから、音楽に携わる人は「芸術性」をまず求めるべきだと思います。その結果として、「商業性」も高くなってきたら、これは自分の力と過信するのではなく、ただただ「音楽」そのものの「力」と解釈するのが良いと思っています。

商業性は二の次

豊武 寿理
98/04/21 22:12:44
音楽は、人の心の中や日常生活の中からわいて出るものだと思っています。音楽の中に自分の思いを込めるのもよし、誰かへのメッセージを託すのもよし。どんな形でも、そうして生まれた音楽は皆芸術性を持っていると思います。しかし、商業性を1番に考えている音楽は、そうでないものよりも人の心に伝わらないと思います。心に残る音楽と、耳に残る音楽は違うのです。だから私は、心に残る音楽が商業的に成功することはあっても、その反対は難しいと思います。商業性を考えた音楽は、その場では目的を達成するかもしれないけれど、いわゆる「時代を超えた」音楽にはならないのです。

自己と他己?

飯ヶ谷守康
http://www.asahi-net.or.jp/?ub4m-iigy/
98/04/22 00:18:03
音楽も自己だけを表現したもの、いや表現されたものと、自己を通して他己の領域まで表現されたものがありますよね。それも表現者が意識してのものと無意識のものと。
いわゆる商業音楽というのは、はじめから他己の領域を表現のテーマとして成り立っていると思います。ある程度の自己を犠牲にしてまで。つまりウケねらい。慣れると比較的簡単にできるとのことですが。
実は私はフラメンコギターという、どーでもEmなジャンルでなんとか食べているものなのですが、はじめから商業性など捨てています。ただ、時々偶然にも他己の領域にまで入ってしまったりしているらしく、ま、おかげでなんとか食い繋げている次第です。
どうかよろしくお願いします。
場違いな発言だったら、どうぞ無視してください。
シカトされるのは慣れていますので。
失礼します。

商業性もまたありかな

吉川たかし
http://village.infoweb.ne.jp/?fwhv1365/index.htm
98/04/22 03:58:19
私は作曲家を目指している者ですが、この芸術性と商業性はよく考えていることなのですが、簡単に言えば、趣味で音楽をやっているには芸術性を求めなければならないと思います。でもその音楽で飯を食ってくためにはやはり、金になるものが必要となって来ると思います。それが芸術性を含んでいるものならば一番良いのですが、現在の世の中そうとも言えない状況だと思います。でも生きていくためにはお金が必要です、つまり私は思う商業性は単なる音を表現する手段の一つで、ある程度のお金があるならば自分のやりたい音楽に向かって進むべきだと思います。ですから今の小室はもう一生働かなくてもいい財産があるのだから本当に自分の好きな音楽をやればいいと思う。まあ今のが一番やりたいことならばそれでもいいのだが。とりあえず思ったまま書いたのでいまいち伝わりきれなかったかも知れません。とりあえず商業性もまたありかなと思います
私は音楽で飯を食いたいので、金が稼げるまではいろいろ我慢して行きたいと思います

需要と供給の狭間−オケマンとして

Geiger
98/04/22 09:31:36
立場上ハンドル名で失礼致します。
岡村さん、豊武さんの御意見が本来の姿だと思います。
何よりも「芸術たらんと欲する」事は即ち自らの生き方を常に問われる事であるとおもっています。
私のようなオーケストラの一員としても活動する人間にも、今の社会システムに生きる限り「生活」の問題は常に付きまとっていますが、それらにもしも「演奏で媚びる」ことで対処するとすれば、それは即ち自らを否定する事につながります。
所謂「オーケストラ運動」と言うのも、演奏以外の力で演奏供給の場を増やそうという試みであると理解していますし、それは可能であるとも信じています。需要は依然絶望的に少ないままですが。どだい音楽が生産性に欠けるというのはまぎれもない真実でもありますが。。
王侯貴族の庇護の下にあったかの大作曲家達でさえも、決して自分を失わなかったではありませんか。
「商業性」と言うのは、言わば「量」が最重要の課題です。しかし、音楽が本来的に持つ「品質」と言う一面においてのみ音楽が資本主義の一角に食い込む余地が残され、そしてそれに飲み込まれずに耐えるよすががあるとも思うのです。
取り急ぎ感想まで。

ポップミュージックが原点

kats
http://plaza29.mbn.or.jp/?upl/
98/04/24 03:47:16  
ポップミュージックは万人にとって「癒し」の文化的行為として気軽に楽しめ、商業的にも価値のがあるものでなければならない。そしてそのためにはポップミュージックが常に、大勢多数の人間にとってその音が表現するモノを実感、共有できるような、「時代」に即した感性を内在させておかなければならないのであり、こうした時代の潮流を読みとる作業はポップミュージックが持つ前衛的な「芸術」的側面から見ても、大衆のアイドルとしての「芸能」的側面から見ても必要不可欠なことであるのだ。
 しかしポップミュージックからこうした商業主義的側面を排除しようという動きもある。多くはアーティスト側から主張されるもので、自らの創作に対してある種のマイノリティを加えることにより、他との差別化をはかろうという意図は賛成できるものの、あまりにマイノリティを追求しすぎて自己満足に陥ってしまう可能性は否定できない。そしてそれは一定の世界観においての優良な「芸術」にすぎず、大勢多数の人間にとって無縁の保守的な産物と化してしまう。そこには新しい世界観を切り開く真の「芸術」として不可欠な能力はない。
 重要なのはレコードが「売れた」ということよりも、その音楽の背景にある何かを読みとること。そこには必ずそれだけ多くの人間に共感しうるだけの「時代性」が潜んでいるはずで、それが「芸術」か否かはその時代性がどれだけ後世の人間にとっても同様に価値があるか、その時点において初めて判断されるべきものなのだ。

ポップスも音楽

泉雄介
http://www.geocities.com/Vienna/Strasse/7372
98/04/26 05:08:16
「芸術音楽とポップス」を考えるときに、我々はあるクラシフィケーションを課せられる。現代作曲を考えてみればわかるように、芸術音楽に乗っ取って作曲される曲も全てが全て世代を超えて残るわけではない。これはポップスでも同じである。よいポップスはかなり長い時間、歌い続けられる。日本ではサザンオールスターズ、荒井由実、井上陽水などはポップスのパラダイムと言っても過言ではないだろう。そしてそれらを「芸術」と考えても、それなりの素質は十分ある。ここにある「弱肉強食」の法則が成り立っているような気がする。現代音楽でも際どいものは多い。そしてそれらは、時の洗礼に打ち勝つ素質はない。ポップスもよければ芸術である。現代音楽も悪ければ芸術ではない。本来の芸術とは必然的に、後世代に向けて生き延びるだけの力があるのだ。

音楽のベクトル

Tady
98/04/28 22:45:18
音楽の芸術性っていうのは、音楽的に良い悪いとは基本的に別次元じゃないかと思うんです。
そもそも芸術性が高い=良い音楽って定義になる?心を感動させる音楽=芸術性が高いになるかというと
もちろん、近いところはあるかもしれないけど、必ずそうだっていえない気がするんでね。奇麗な音楽=芸術性が高い
というわけでもないでしょうし。でも、そういうのって主観的な要素がかなり影響しますよね。
たからといって主観を離れた部分で学術的(理論的)に優れた音楽を芸術にするというのは、
芸術=(完全一致)=感性ではないという意味を暗示的に表現してしまうし。
音楽=芸術=良い音楽=感性=客観(一般性)!僕の中ではこの公式は崩れています。
そういう意味で、音楽=芸術に属するものではなくて、個人のもの。そしてその一般性の
高いものが(個人性=普遍性とか全体意志)、優れている。とも考えられますよね。
そういう意味で限定では優れている音楽=一般性=商業性に一致してきます。
それに、そもそも音楽=芸術なんて、決まっていることなのかって思いが強いっ。
音楽に、クオリティではなく、芸術性という違うベクトル求めることが不思議です。

商業音楽のごく一面

YU-Ki
http://www.sol.dti.ne.jp/y-hara/aw.html
98/05/13 03:42:02
自分でこんなテーマを出しておきながら自分自信で商業性と芸術性について悩んでいるのですが、商業音楽のなかでのごく一部のことなのですが紹介しておきます。
日本のレコード会社というのは大概大手の電気製品会社が作っています。
したがって音楽を作るときの莫大なお金は電気製品会社の重役達のハンコというものが必要になってきます。
つまり音楽を世に発表するには電気製品会社の重役達にまず気に入って貰える音楽を作ることが重要となってくるのであります。
自由だ何だとかいいながら結局、封建社会的なところを持っているのが日本ぽいですね。
このような現実が私に商業性と芸術性を考えさせるきっかけとなりました。
みなさんはどう思われるでしょうか?
これは一部でのことで全体のことではないのであしからず。

iyo

Dalian mitsuwa
00/07/30 19:34:06
以前松本伊代が言っていましたが
”音楽はそれを振り返って聴いたときに何かを思い出せればそれでいい”
と言っていました。
確かにそう思うので歌謡曲などを
否定する気はないのですが
以前僕の知り合いが作曲の仕事をしていて
売れる音楽をつくるんだ
音楽なんて好きじゃない
と言っていました。
別にいいのですが
せめて作っている人は
自分の音楽を素晴らしいと思わなければ
お小遣いを出して買っている子供達が
あまりにも可哀想に思います。
以上

芸術性と商業性について

上芝 英司
01/09/12 03:22:01
僕はアーティスト・ドラマーとして、芸術性を追求したいです。自己表現や、個性の追求、表現というモノを。でも、バンドマンとしては、商業性も視野に入れています。それは、自己満足では終わらせたくないという気持ちがあるからです。ある程度の評価があるのなら、ある程度の売り上げがあるのなら、伝わったのかな?と思えます。バンドをやっていても、ラジオ局に売り込みに行ったりします。有名になりたいわけでも、お金が欲しいわけでもなくて、多くの人に聴いてもらいたい!と思います。それには、メディアは必要不可欠です。でも、自分はアーティストだ!と思う人は、音楽だけをやればいいと思います。商業は、レコード会社がやります。適材適所です。ただ僕は、マネージメントにも興味があるのでやるだけです。作る側の意識で、どうにでもなるんじゃないでしょうか。

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