Into the Light
<アバターマスター/歯科医師・児玉浩>
この「Into the Light」は、(株)Voiceのメールマガジン「φ〔fai〕ファイ」に連載したものです。
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です!古来より瞑想とは霊性を高める手段として、伝家の宝刀のように考えられてきました。僕自身は、何年にも渡って瞑想してきたにもかかわらず、「瞑想をしても一体何になるんだろう?」という疑問は常にありました。気持ちはいいんですけどね。瞑想は思考を滅却することにより無我の境地を達成します、って言葉で説明すると、分かるような分からないような? そんな僕が、瞑想の真髄を垣間見たのは、瞑想とは全く関係のないことをしていて、いきなり「深い瞑想状態」になってしまった時でした。
何もない・・空間も・・物質も・・思考もない・・いや、「私」というものすらない・・という思考が働いた瞬間に帰ってきちゃいました。「なななんだ? 何だ一体今のは?」
それが「無我」という状態だったことに気付いたのは後々になってからでした。そして気付いたのは「無我の境地になるため」に瞑想をしても、決してそれは得られないということでした。
キリストは「求めよされば与えられん」と言ったそうですが、「求める」というのは「欲求」するのとは違うのですね。「欲求」というのは、結果だけを追い求めているのですね。つまり、結果に執着している、するといつまで経っても「そこ」には着かないのですね。ですから「方向を決めて進む」ことだけをするのが「求める」という感じ、とでも言ったらいいのでしょうか。
今の世の中は、結果だけがすべてという感じが強いですから、余計そうなりやすいのかもしれませんが、結果だけを追い求めるというのではなく、進んでいく道すがらの、その過程の方をこそ楽しんでみるというのはいかがでしょう。
そうすると面白いことがわかります。「道すがらを楽しんでいる」のが、「ワクワク」の基本なのだということが。ワクワクしているから、やること成すことすべてが楽しい。そういう時は、「あれもやらなきゃ、これもやらなきゃ、ああ大変だ」という感じにはならないのです。言い換えれば、ワクワクを感じない時は義務感で行動しているのかも。秘訣は「ワクワクしなきゃ!」と考えるのではなく、今ここでワクワクを感じているかどうか、だったのです。
本当にやりたいことをしている時というのは、自然にワクワクしてきますよね。そういう時には、「やらねばならないこと」という無粋なものはなく、いつものルーティンワークですら何故だか楽しい。何かアクシデントがあっても、それすらも楽しい。そういうワクワクな経験をしたことってありませんか?
ちょっと思い出してみてください。その時の感じを。
その時あなたは世界をどういうふうに感じられますか?
その時あなた自身はどういうふうな感じがしますか?
ワクワクしている時、「あ〜、生きてるんだなあ!」という感じがしますよね。生きている充実感があり、とってもパワフルな感じがすると思います。
反対に、本当はやりたいことではないのだけれど、やらなければならない、やらないと人からどう見られるかわからない、やらないと怒られるからとりあえずやっているような時は、どうですか? 「生きている!」というよりは、「とりあえず生活している」ような感じですよね。特に楽しいこともなく、暗いニュースを目にしては、「一体世界はどうなっちゃってるんだ?」と未来を憂い、「何か面白いことない?」と聞く元気もとうの昔に消え失せ、ただ無為に過ぎていくだけの毎日。「私は何のために生まれてきたのだろう? 生きる目的ってなんだろう?」なんて哲学チックなことをたまに考えてみたり・・。いや失礼。前はこういうの好きでやってたんですねえ、今から思えば。今でも時々やりたくなりますけど。まあ、それはさておいて・・。
本当にやりたいことをしている時と、そうでない時の違いって、ずいぶんありそうですね。「本当にやりたいこと」ではないことをしている時って、なんだかとってもストレスが溜まっちゃいそうです。
え? 自分が何をやりたいのかわからないですって? ワクワクすることがない? 心配ないです。僕もそうでしたから。
では、どうすれば「自分が本当にやりたいこと=ワクワクすること」がわかるようになるのでしょう?
実は、簡単なことなのです。「感じて」みれば良いだけなのです。「あるがままに感じる」だけで良いのです。子供のように素直な「感じる心」を取り戻せば、自然に「ワクワク」は戻ってきます。そして、思考の堂々巡りも自然となくなっていきます。
今、時代のキーワードは「感じる心を取り戻す」です。子供の頃、誰でも持っていた「感じる心」。何の価値判断もなく自由にピュアに、あなたがあるがままに「感じる心」。誰かから教わった感じ方ではなく(憶えているでしょう? こういう風に感じるべきだ、と教えられたことを)、あなたにしかできない、誰にも真似できないあなただけの感じ方。
それはとってもエゴイスティックなことだ、という人もいるかもしれません。皆が自分の感じたいように感じていたら、共感もなくなるし、ばらばらになってしまうと言う人もいるかもしれません。
しかし想い出してみてください。あるがままに感じていた子供の頃のことを。今よりもずっと、共感し合い、繋がり合っていたとは思いませんか? 感じ方を強制してくる「もののわかったオトナたち」とは繋がれなかったけれど、年齢に関係なく自由に感じる者同士は、深いところで繋がり合った感覚がありませんでしたか? そういう仲間たちとはいつまででも一緒にいたいと感じたことを、憶えていますか?
風にそよぐ木々の葉の間からこぼれ落ちる陽光のすがすがしさ、若々しい緑や土の鮮烈な香り、落ち着いた青や緑に輝かんばかりの海の雄大さ、神々しいとさえ言える緑を始めとりどりの色に染まった山々の威容。あなたは今でもそれらを思い出すことができるでしょう。そして、それら自然との一体感をも。
誰かの言う「こう感じるべきだ」という意見を受け入れ、「感じるままに感じる」ことを放棄してしまうようになると、自由さは失われてゆきます。繋がりを断ち切られ、孤独感にさいなまれるようになり、やがてそれすらも感じなくなってゆき、この世でたった一人の特別な存在だった「あなた」は消え失せ、代わりに教え込まれた通りに感じる(思い込む)一定規格品のような「どこかの誰か」が誕生します。
あなたが、自分が誰だかわからなくなり、生きていることににワクワクしなくなり、自分の本当にやりたいことが分からなくなっているのだとしたら、「あなたが感じられるままに感じる」という、あなただけしかできないことを放棄してしまったことこそが、その原因だったのです。思い出しましたか?
「あるがままに感じる」ことを放棄すると、何が起こるのでしょう? 意味付けを始めます。良いとか悪いとか、価値があるとか価値がないとか・・。これらは自分で付けたものもありますが、そのほとんどは他人の意見を取り入れてしまいます。なぜなら、「こう感じるべきだ」というのを一つでも受け入れてしまうと、自分の感じ方に自信がなくなってしまうからです。・・その後はもうお分かりですね?
あるがままに感じたことを否定された時、それはあなた自身が否定されたのと同じことになります。例えば、あなたがやりたいと感じたことを、「それは社会的に価値がない」とか「そんなことやってもお金が儲からない」とか「それで幸せになるとは思えない」等々。なんだかこうなると、自分が幸せなのかどうかも、よくわからなくなってきますね(^^。
直感も初めは「感じ」としてやってきます。あなたの「感じ」たことを大切にしてください。それはあなたにしかできないことです。それだけであなたは他とは違う特別な存在なのです。誰かの価値観と、あなたの素直な「感じ」を引き換えにすると、自信がなくなり、直感も信用できなくなります。特別だったあなたは、不特定多数の、その他大勢の一員になります。あなた独自の輝きを失ってしまうのです。
自分の「感じ」をおざなりにし、人の意見に従っていると、「素直」という評価をいただくことができます。「素直」って、誰に対してでしょう? ひとから「素直」だと評価されても、自分に素直じゃなかったら、苦しいとは思いませんか? 自分に嘘をつく以上に苦しいことって他にありますか?
自分の感じる通りに自分が本当にやりたいことをやっている人には、自信があります。自分に自信があるからこそ、ひとからの評価を必要としません。評価されれば嬉しいですが、評価されなくても好きなことをしているのですから、満ち足りていて幸せです。
あまりにも「感じる」ことから遠ざかっていると、「こうあるべきだ」という思考を「感じていること」と混同してしまいがちになります。その識別は簡単です。「あるがままに感じること」には疑いがないですから、何か疑う気持ちが生じてきたら、それは誰にでもできる「思考」というものです。
長年「やらなければいけないこと」ばかりしていると、自分がどんどん小さくなっていき、窮屈な感じになりませんか? そして、周囲との分離感が強くなっていくような、そんな感じがしませんか? この時、「感じる心」を自分で押さえつけてしまっているのです。自分の本当の気持ちを感じることがないように。
自分の本当の気持ちが分からなくなると、他の人の気持ちも分からなくなってゆきます。そしてますます分離感を強く意識するようになります。「感じる心」を押さえつけること、これが混乱の始まりです。
「感じる心」を取り戻すと、自然と分離感が薄れ、「繋がり」を感知できるようになります。「繋がらねばならない」「愛さねばならない」などと、義務感的に従うというのではなく、自分の中にすでに「繋がり」「慈しみ」「愛」が存在していることが明確に感じ取れます。自分の中にそれらがあることに気づくというのは、素晴らしく気持ちのよい経験です。どこかに埋もれ、忘れ去られていた「一番大切な宝物」を発見した、そんな何物にもかえがたい経験です。
では、「感じる心」を押さえつけている、その道具とは一体何なのでしょう?それが「思考」なのです。
ありのままに感じたことを、「思考」による解釈によって捻じ曲げてしまったり、「そう感じるべきではない」「そう感じてはいけない」と、押さえ込む道具にしてしまったのです。「感じ」を解釈するということ、それは本来の「思考」の使い方ではないですよね。「幸せな感じ」を解釈しても何ら意味はありません。
例えば「怒り」を感じた時に、「思考」は何をしようとしますか? 試してみてください。「思考」がしようとしていることを、第三者の視点から見てみてください。
では何故「思考」は、そういう働きをするようになってしまったのでしょう?「〜は正しい」とか「〜は良くない」という価値判断があるからなのですね。価値判断とは「思考による解釈」です。価値判断は「あるがままに感じる心」からは生じないものです。そして「思考」は「価値判断している事柄」に対する反応としても生じてくるのです。そして人生はこんがらかったものになっていきます。
価値判断とは一体何なのでしょう? 「これは良い」「あれは悪い」とか、その価値判断する基準は一体どこにあるのでしょう? 何か基準がないと価値判断できませんよね。
実は、この基準の大元は「好き嫌い」なのです。万人に通用する絶対的な基準などないのです。そして「好き嫌い」とは、「その時にそう思っていたこと」にすぎません。「好き嫌い」は一定していないですよね?
価値判断が積み重なって価値観に成りますが、元が一定していないものですから、価値観も流動的です。よく「価値観が変わった」といいますが、簡単に言うと「好みが変わった」ということになります。なんだか重みがなくなってしまいますね。
この一定していないものを絶対的な基準にしてしまうと、さらに人生は混乱してしまいます。もうすでに大元が変わっているのに、表面的に変わってないふりをしてしまう、つまり自分に嘘をつくわけですから、なんだかこれはストレスが溜まりそうですね。
ところで、自分に嘘をついて「ワクワク」したことってありますか?
ワクワク=自分が本当にやりたいことをしている=自分に正直でいる。「自分に正直に」というのはそういうことなんですね。「あるがままに感じる心」を取り戻すと、自分に嘘をつきたくなくなります。自分に嘘をつくという行為が、苦しいことだと思い出すからです。まあ、自分に嘘をついても苦しいと気付かないように、あるがままに感じないようにしているのですが、その結果はご存知の通りです。
今「自分探し」ということがよく言われますが、自分を探すということは「今の自分は本当の自分ではない」と心のどこかで思っているということでしょう。本当の自分でなくなる原因は、こんなところにあったのです。「本当の自分はこんなんじゃない、もっと素晴らしい自分がどこかにいるんだ」、今の自分は素晴らしくない、と思うのは「自分に嘘をついている」ということが心のどこかで分かっているからなのです。
「ありのままに感じる心」を取り戻すと、自分がいかにかけがえのない素晴らしい存在であるのかに気付きます。「自分に正直」になると、「ありのままの自分を認める」ことができるようになるのです。
この「Into the Light」は、(株)Voiceのメールマガジン「φ〔fai〕ファイ」に連載したものです。
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