パースペクティブno.1「アバターとは?」
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<私たちが自分で変えることのできない現実の中に閉じ込められるということは、ほとんどありません。>
1987年に、ハリーパルマーという教育心理学者は、心の中で行なう興味深い一連の手順を考案した。正しく用いられたところ、これらの手順は人間の意識のより深遠な神秘の多くの謎を解き明かしていった。これらの手順が高度化するにつれて、それらは文字通り、宇宙の秘密へのパスポートとなったのだった。
生物の進化の過程で希にしか起こらない出来事という意味ではちょうど<色を識別できる視覚>の出現のように、パルマーの研究は、意識の全く新しい領域への扉を開くという予期せぬ結果をもたらす<希有な進化の鍵>となった。史上初めて、人間の<気づき>の働きと人類の各種のテクノロジーとの間の明確な相関関係を実証できたのだ。宗教と物理学などといった全く類似性のないように見える分野が、突然、共通の土台を共有していることが明らかになった。全てのものに共有されている心、集合意識、超感覚的<気づき>といった概念は、漠然とした憶測上の事柄にすぎなかったが、それが手に触れられるような経験に変わったのだ。
予測された通り、アバターは全世界の人々の集合意識の中に波紋を拡げていった。1996年5月までには、アバター教材は14ヶ国語に翻訳され、約30,000人のアバター・コース修了者は51ヶ国に広がっている。(訳注:1998年1月現在では、アバター・コース受講者数は58ヶ国に55,000人。)
世界におけるアバターの使命とは何かという問いにパルマーはこう答えている。「この世におけるアバターの使命は、信念体系を統合するための触媒として作用することである。私たちの間の唯一の相違は私たちの信念体系であって、信念は簡単に創造または消滅できることを知覚するとき、正と邪のゲームは終わりを告げ、共に創造するゲームが始まり、世界の平和が訪れるであろう。」
1996年現在、約2,000のアバター・センターが、米国フロリダ州アルタモンテ・スプリングス市のアバター国際本部によって認可を受けている。
アバターって何ですか?
パースペクティブ編集部はこの問の答えの源へ直行し、アバター教材の著者ハリー・パルマーにインタビューしてみました。
パースペクティブ:おそらく最もよく聞かれる質問は「アバターって何ですか?」という質問だと思います。そこでお訊ねします。アバターとは何なのですか?
ハリー:アバターとは、存在する現実、存在したことのある現実、これから存在するであろう現実の全てに関わるものです。こんな言い方ではいい説明になっていないのはわかっていますが、これが私が答えられる最も現実的な回答です。アバターは創造を取り扱います。創造とは「空間や時間や<気づき>の中において、限定や制限を持ったものすべて」と私は定義しています。それは、宇宙とその中にあるすべてのものを含みます。たいていの人々はそのように全てを包含するようなレベルでアバターに関わる用意がないので、私は普通、信念について語るのです。人々は、自分の信じていることが自分の人生に何らかの結果をもたらしているということについては本能的に納得しています。存在の主要なジレンマとは、何を信じるかということなのです。それは誰もが直面する哲学的な<底知れぬ深淵>です。それは「私は知らない」という<深淵>です。知らないということは危険だと思われています。この<深淵>の端には、信念を売りつける店の数々が並んでいます。いくつかの店は豪華で、歴史の重みとともに崇められています。カルトの教祖によって運転されているフォルクスワーゲン製バスのような店もあります。みんなが、何らかのプログラムと、<深淵>の向こう側の真理の浄土への片道切符を売りつけようとしています。何千もの数の<深淵>の向こう側へ渡る橋がありますが、それぞれが微妙に違った現実へと人々を導いて行きます。アバターがそれと違っている点は、アバターのプログラムは空白で、その切符は往復切符であるという点なのです!
パースペクティブ:なんだか、車を買うときのように信念を試運転してみるというような感じに聞こえますね。
ハリー:それはいい喩えですね。そして試運転した信念は、車の場合のようにお店に返す必要もありません。人々はほとんどの場合、自分が信じていることを経験します。もっとも、自分でそう信じているとは信じないでそれを経験するという場合もよくありますが。ある人々にとっては、自分の信じていることと信じているつもりになっていることを区別するということは難しいことなのです。この2つは必ずしもいつも同じではありません。
パースペクティブ:ということは、私たちは自分で信じていることを常に知っているわけではなく、私たちが信じていると言っていることを常に経験するというわけではない、ということですか?
ハリー:その通りです。そして、それがポジティブ・シンキング(肯定的思考)の弱点なのです。家のすべての鏡に「私は私であることが幸せだ」という文を貼り付けて、食事の前に毎回30分ずつそれを念仏のように唱えたとしても、依然としてそれを経験しないということもあり得ます。それが<深淵>を越えて人を経験へと導いて行くことにならない理由は、その人が既に<深淵>を越えていて別の経験をしているからなのです。たぶんその人は「私を本当に幸せにできるものは何もない」という切符で来た人であるかもしれません。それが、裏に隠れている本当の信念であって、その信念がすべての肯定的宣言文を唱える動機となっているのです。
パースペクティブ:では私が本当に信じていることは何かをどうやって見つけ出せばいいのですか?<深淵の端の信念市場>で私はどんな切符を買ったのでしょうか?
ハリー:最も簡単な方法は、あなたが経験していることから逆に辿っていくことです。もしもあなたが不幸せな気持ちを経験しているなら、<深淵>を飛び越えるときに信じていたことは、「自分は不幸せになる」という信念だったはずです。本当の信念を見つけ出したなら、アバターのテクニックを使ってそれを変えることができます。信念を変えると、あなたが経験することも変わります。本当の信念を見つけ出すまでは、あなたは「信念の上に重ねて別なことを信じている」ということになるわけで、あなたが経験することは表面的にしか影響されません。
パースペクティブ:なるほど、よいご指摘ですね。多くの人々がワークショップやセミナーに参加して自分たちの人生に信念の新しい層を加えるのを、私も見たことがあります。新しい信念を付け加えても、彼らの行動に長期的にはあまり影響を与えていないのです。この点は別の質問に関連してきます。つまり、信念と真実との違いは何なのかということです。
ハリー:時には、信念と真実との境界線は多少ぼやけていることもあります。特に、純枠に物質的ではない資質について話している場合はそうです。
経験的な出来事に関しては、通常、何らかの合意があります。例えば、木が倒れたとします。誰も疑いを持ちません。少し前までは木は立っていたのに、今は倒れているのですから。私たちは、それがどこに倒れたか、木の幹はどのくらい頑丈だったのか、木は何年くらい立っていたのかなどを測定することができます。それについては、誰も、見ないで信じる必要はありません。そばに行って木を蹴っとばしたっていいのです。それは真実です。木は倒れたのです。けれども、今度は「なぜ木は倒れたのか?」と聞いてみてごらんなさい。そうすると今度は、私たちは何を信じるべきかということに直面することになります。
木は古くなっていて腐っていた。鼠が木を吹き倒したのだ、神の御わざだ。前兆だ。あの種類の木はいつでも倒れるのだ。悪霊のしわざだ。大気汚染のせいだ。オゾン眉が希薄になっているからだ。地球の振動のせいだ。・・・これらはみんな信念です。もちろん、このうちの一つを信じるなら、あなたはその証拠を見つけ出すことになります。風が時速365マイルの風速で吹いていて、木の耐久度を越える負荷が生じていた...という具合に。
あなたは反論します。「ああ、それなら、なぜ全ての木が倒れなかったんだ?なぜ木が倒れる寸前に風速が時速36.5マイルに達したんだ?」と。
太陽熱が、海と陸地との間に大気的不均衡をもたらしていたからだ。
あなたはまた反論します。「そうだったとしても、それはなぜ起こったんだ?」と。
こんな反論ばかりするのは少しひねくれているとあなたが感じても気にせずに、もっと根本的な「なぜ?」という質問を追求していきましょう。そうすると、そのうちに例の<深淵>に行き着くのです。その<深淵>は「私は知らない」と呼んでもいいものです。
この「私は知らない」から、「なぜ木が倒れたか」についての信念の数々の連鎖が始まるのです。この連鎖を充分に長くしておいて、誰も<深淵>の中に落っこちてしまわないようにしておける限り、私たちは「なぜ木が倒れたか」を説明できる「科学的な」テクノロジーを持っているということになるわけです。
パースペクティブ:それで結局、木が倒れたのはなぜなのですか?
ハリー:正直な答えでいいですか?私は知りません。でも知らないということは危険なことなのです。恐れが生じます。恐れが説明を促します。ですから、ある要点を主張するために私が木を押し倒したのだ、とでも言っておきましょう。私が意図的にやったのです。
パースペクティブ:その要点とは?
ハリー:要点は、この「木が倒れた」という一つの出来事のまわりには、信念によって生じた現実というものが展開されていくという点です。風と負荷と太陽熱など全部を含む一つの現実です。この現実の中で経験している人は誰でも、その現実の根底に同じ信念の数々を見出すのです。
もちろん同様にあり得そうな別な現実というものもいくつもあります。例えば、「土壌の湿度と根の腐敗」説などです。
おもしろいことに、「土壌の湿度/根の腐敗」という現実を経験している人々は、「風力/負荷」説を主張している人々の現実が一つの信念体系であるといろことを容易に理解できるのです。彼ら自身が経験している現実については、彼らは常にそれほどの眼識を持っているわけではありません。私たちの心の奥底にはしょんぼりとした小さな存在がいて、その存在は、他の人々の現実はみな信念に基づいているのだということをはっきりと判っているのです。その存在は自分自身の真理の中に閉じ込められています。その存在は<深淵>から遠ざかり、できる限りの速さで説明を続けています。自分自身の現実も他の人々の現実と同じように信念に基づいているのだという現実を見ることを自分に許すとき、その存在は精神の光明を見出すでしょう。
パースペクティブ:それは洞察に満ちた比喩ですね。さて次の質問ですが、あなたは現実を消滅させるということをおっしゃいますが、なぜ私は私の現実を消滅させる必要があるのですか?
ハリー:消滅させる必要はないのです。あなたの現実やあなたの信じていることを破壊することがアバターの行なおうとしていることではないのです。アバターは、人々がかつては自分自身が自分の現実を創り出した源であったことがあり、再びそうなることができる、ということを人々に思い出させるものであり、そして、もし望めば(これがキーワードですが)、一つの現実の中に存在することをやめて別の現実に移動するということもできる、ということなのです。私たちが自分で変えることのできない現実の中に閉じ込められるということは、ほとんどあり得ません。
パースペクティブ:つまりアバターでは、変えるか変えないかは各人が自分で決めるのだということですか?
ハリー:まったくその通りです。私たちが変わることを選択するとしたらその唯一の理由は、私たちが経験を積んでいくにつれて、私たちの現実を、私たちが新しく獲得した叡知をよりよく反映するような現実にしたいという願望が生まれるからです。
算数の教科書の中にあるすべての問題を解かなければ数学に進めないというわけではありません。ある時点で算数がわかる時がきます。数字と式からは答えがでるのだとわかります!わかったら、次に進むだけです。
何ですって?あと16週間も算数の問題を解き続けなけれぱならないって?冗談じゃない!私はアバターを知っているのだから、もう算数はこれでやめます!...というわけです。
パースペクティブ:算数は信念体系である、ということですか?
ハリー:そうです。数学も同じです。その他すべての現実も、外から見たときには同じことが言えます。けれども、だからと言って、一つの現実の中に浸って、その現実の土台を成している信念の数々を学び、心行くまでその現実で遊んでみてはいけないという意味ではありません。
ただ、一生そこから出られなくなって算数の問題ばかり解き続けているということにはならないようにしなさい、というだけのことです。
パースペクティブ:「馬鹿の一つ覚え」という表現を思い出してしまいますが。
ハリー:その通りです!アバターのテクニックを使う目的というのは、あなたの人生が「馬鹿の一つ覚え」の人生となってしまわないためなのです。
パースペクティブ:人生の中で、「ある問題や出来事から学ぶべきことは学んでしまったから、次に進むべき時が来た」ということは、私たちの誰もが容易に理解できる概念だと思いますが、なぜアバターが必要なのですか?
ハリー:私に一つの信念体系を創って説明してほしいということですか?いいですよ。それなら、「現実を創造することと経験することというのは、人生が持つ数多くの可能性のうちのただ一つのことに過ぎない」と信じてみることにしましょう。そして、「創造したり経験したりした現実の探検を終えたなら、私たちは新しい可能性の数々に目覚める」と信じてみましょう。
パースペクティブ:それは私には真理のように聞こえますが。
ハリー:そうですか。それならば、私たちはそれを真理とさせておくことができます。ただし、それは「私たちが学ぶべきことを学んで次に進む用意ができた」という現実を満足が行くまで経験しきるまでは、ということです。その時点に到達したとき、アバターが再び現れるのです。
パースペクティブ:面白いですね。つまり、アバターが今の時点で現れてきたのは、私たちの多くが次に進む用意ができているからだと示唆しておられるのでしょうか?
ハリー:そうです。多くの人々が自分自身および文明全体の意図的な進化というものに責任を持つ用意ができていると思います。生が進化するにつれて、それは一層統合されたものとなり、限定が少なくなります。その逆の方向、すなわち生がどんどん分割され、固体性と限定の度合いが強くなる方向に進むことは衰退です。進化と衰退とは混同されることがあり得ます。
パースペクティブ:私たちが話している最中に別のことを思い付きました。たぶんそれはただの信念だと思いますが。いえ、もちろん信念なのですよね。私たちはこうして話し続けているけれど。すべては信念なのでしょう?そのことが今わかりました!
ハリー:かまいませんよ。じゃあ戯れに、私たちが真理を発見しつつあると信じてみることにしましよう。
パースペクティブ:いいですよ、そう信じてみることにします。意図的に信じてみます!ああ、今、あなたの本の題名の意味がわかりました!ええと、何を話していたのでしたっけ?ああそうそう、私が思い付いたことというのは、身体の感覚によって支持されている信念は実体があって現実味をおびていますが、私たちを包み込んでいる感覚の袋の端に向かって行くと、その確かさが減っていくように思えます。これは正しいでしょうか?私たちは私たち自身の現実の袋の端を押し拡げつつあるのですか?
ハリー:それは現実の見方としてなかなかいい見方です。
昔話に、実を付け始めたばかりのかぼちゃに水差しをかぶせた農民の話があります。かぼちゃが成長し始めると、水差しの中の空洞を埋めて、それ以上大きくなることができません。水差しは、私たちが経験できることの限界の喩えです。水差しが壊れたとき、私たちの現実は拡がります。
パースペクティブ:あなたがアバター・ジャーナル誌で書いておられた「無限定の自己」というエッセイでそのことを読んだように覚えています。
ハリー:その通りです。
パースペクティブ:それでは、別の質問があります。私たちの現実が拡大し続けるというのなら、新しい現実を創り出すためには今の現実からどうやって抜け出すのですか?例の<深淵>を越えて戻って来るにはどうすればいいのですか?水差しを壊すたびに行なっていることというのは、もともとの現実に何かを加えたり、それを変えたりしているというだけなのではないのですか?
ハリー:確かにその通りです。一つの現実というシャボン玉の中では、はるか彼方の<現実の限界>にその現実の外側に出る出口があるというわけではないのです。内側からはすべての現実が無限に見えます。
この無限の現実の中での<帰りの切符>は、今あなたがいるまさにその場所にあります。そしてその<切符>は、その現実という創造を創り出した源としてのあなたを完全に経験することによって有効になるのです。私が「考えることによって」とか「信じることによって」などと言わなかったことに注意してください。「完全に経験することによって」と言ったのです。ここで私は責任の追及について語っているのではありません。力と能力について語っているのです。現実を創り出した源であるあなたは、その創造のスイッチをオンにしたりオフにしたりできるのです。オンのときはその現実は無限です。オフのときはあなたは故郷に戻っているのです。
考えること、解明しようとすること、信じることなどは、一つの現実を探究するための道具です。それは、現実のスイッチをオフにすることはできません。現実を経験することのみが、それを完全にオフにすることができます。
パースペクティブ:それは可能なことですか?ある現実を完全に経験するということは。
ハリー:可能ですが、それは理解され開発されなければならない能力です。多くの人々が、経験することを、記録することや価値判断をくだすことや喜怒哀楽の感情と混同しています。記録することも価値判断をくだすことも喜怒哀楽の感情もすべて、実は今あることを経験しないようにするための努力なのです。
経験することを、考えることや思い出すことと取り違えている人々もいます。そういう人々にとっては全てのことが分類されています。経験することを、信じることや想像することと混同したり、苦しむことと混同したりしている人々もいます。経験することというのは、実に誤解されている概念なのです。
パースペクティブ:あなたは、経験するということをどのように説明なさいますか?
ハリー:それは実は、言語や理解よりもずっと根本的な現象なのです。アバター・マスターがあなたをそれに導いていくことはできますが、マスターがそれについて語れることというのはあまりたくさんありません。少なくともあなたを経験に導くということに関しては、あまり役に立つ言葉を語ることはできません。私が言える最良のことは、おそらく、経験とは現実の裏側の半分であるということだと思います。
パースペクティブ:あなたが人々にあなたを感じてくださいとおっしゃったことがあるのを知っていますが、それはあなたを経験してくださいという意味だったのですか?
ハリー:そうです。
パースペクティブ:私があなたを感じてみると、「べきである」とか「でなければならない」とか、資格や分類といった、私たちの人生を支配しているものの全てを越えた何かを感じます。
ハリー:そうです。
パースペクティブ:実際、あなたはとてもいい感じがします。それはなぜですか?
ハリー:いい感じがするというのが、経験するという行為です。私が誰かに私を感じてくださいと言うとき、一瞬の間、その人は自分についての固定観念や信念を捨て去って、生き生きとしていて独立しているという自分自身の感覚と再びつながるのです。それはいい感じがします。それは一種の不可解な言語下のつながりです。私たちが理解しようとしたり説明しようとしたりすると、そのつながりは崩れてしまいます。私たちが感じるとき、私たちは無限定の実存を分かち合うことになるのです。
パースペクティブ:無限定の実存?
ハリー:<我あり>というものの根源のことです。
パースペクティブ:私はその感じを感じたことがあります。それは実際、聖なる感じや宗教的感じがします。これは神について語っていることになるのでしようか?
ハリー:そうかもしれません。あるいはそれも、ただのもう一つの説明に過ぎないかもしれません。
パースペクティブ:もうひとつ最後の質問があります。それを聞いてしまって片づけておきたい思います。アバターは随分お金を儲けていると思います。1人2,000ドルの受講料で、既に30,000人の人々が受講したわけですから、6千万ドルの儲けということになります。そのお金は何に使っているのですか?誰の懐に入るのですか?
ハリー:それはたくさんのお金であるかもしれませんが、それをアバターを教えている2,000くらいのセンターと、税金を徴収する30ヶ国くらいの国々と、世界的規模のネットワークを運営していく経費との間で分けなければならないことを忘れないでください。そうすれば逆に、こんなに少ないお金でどうやって賄っているのだろうと思えてくることでしょう。
お金と権力とセックスの話題は、私たちの現行の文明においては、一癖ある話題と見なされる傾向にあるようです。その理由は、これらの話題については最も多くの嘘が主張されてきたからだと思います。これらの話題について人が本当に信じていることは何なのかを知るには、少し掘り下げてみることが必要になります。
ところで、私たち(アバター)にとってのお金についての考え方は、お金とは、<全世界の人々が新たな高い境地に達している文明>を楽しみながら速やかに創り出すことを私たちに可能にしてくれるエネルギーであり媒体であるというだけのことです。それ以上は、あまり関心はありません。
パースペクティブ:あなたのお話を聞いて、また他のアバターたちとの話からも、お金というものは目標達成の手段であって、お金そのものが目標なのではないということが明らかになりました。
ハリー:それが私たちの信念です。
パースペクティブ:なぜアバターを世界中の人々と分かち合うことに決めたのですか?
ハリー:それはそういうニーズがあると知覚されたということと関係があると思います。