悟りを開く道は?

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1996年1月22日、ウィザード・コースで、ハリー・パルマーは「アバターの道の構造」という題で講義をしました。この議事録を配布してほしいという多くの方々からのご要望にお応えして、パースペクティブに掲載するために編集されたのがこの文章です。お楽しみください。

 

ゴータマ・ブッダは森の中に住んで、その後しばらく都会に住みました。そして山に移住して、山の上でしばらく暮らしました。その後川のほとりに移って、しばらくの間、川のそばに住みました。その後、バニヤンの木の下で悟りを開きました。

 

ですから道はかなり簡単なものであるように私には思えます。まず森の中に住み、次に都会に移り住み、その後、山の上でしばらく生活し、それからしばらくの間、川のほとりに住んで、その後、バニヤンの木を探せばいいわけです。

 

そうではないですか?だとすれば、ブッダが悟りを開いたのはブッダの住んでいた場所のせいではなくて、彼の人生の中で起こった何らかの状況に因るものだったと考えなければなりません。

 

アバター教材についても同じことが言えます。アバター・コースの各セクションは、人々の人生で起こる意識の成長や理解の特定の段階に相当するようにデザインされています。第1部、第2部、第3部はアバター・コースと呼ばれています。第4部Aはマスター・コース。第4部Bはプロフェッショナル・コース。第5部Aはウィザード・コース、第5部Bはスターズ・エッジ・トレーナー養成コースです。

 

第1部以前の状態というのは、この世の中の現状そのままです。人類は、今の発達段階では、教え込まれたことだけを盲信するという<深い眠り>にも似た状態の中から反応するだけです。あなたが「目覚めなさい」と言ってみたところで、ほとんど何も起こりません。過去に下した結論と昔からの恐れが決定を行っています。ほとんどすべての人々が、誰か別の人が出した答えに基づいて行動しています。人々は、物事がかつてそうであった状態の中に生きています。人々はすでに自分で出した結論を喚起するためだけに知覚します。

 

世界の現在の発達段階においては、人間関係というものは意識的にせよ無意識的にせよ状況を操る関係です。それは賞賛と侮辱によって支配されています。人々がお互いに向かって語る言葉は反応を引き起こします。その反応が快いものなら、「ああ私は恋をしている」となり、その反応が苦痛をもたらすものなら、「あなたなんて大嫌い」ということになります。相手を操ろうという意図は透明で目にみえません。それは、昔の結論や信念の数々から自然に起こるのです。現段階では、人間の意識はすでに撮影済みの一巻のフィルムのようなもので、もはや、一瞬一瞬世界の映像を撮影することはせずに、世界がかつてそうであった姿の映像を持ち歩いているのと同じことです。

人々は自分たちの祖父の持っていた恐れや魔物と格闘を続けているのです。彼ら自身だけにしか見えない魔物たちと。これが、私たちがアバターを紹介しようとしている対象である世界の全般的な状態と言えます。

 

アバター・コースの各セクションは、人が<教え込まれたことだけを盲信している眠り>から目覚めるにつれて通過する成長や理解の特定の段階に相当します。時には、人は自分が自然に成長できるよりも速くアバターの全セクションを通過してしまうこともあります。時々、第3部を受講している誰かが第1部の理解に目覚めているのを見つけるということもあります。それでも全くかまわないのです。成長の過程が始まったことは事実で、それこそが重要なのです。時には他のスピリチュアルな分野の経験者がアバターを受講しにくることがあるので、そういう人々は普通はウィザード・コースまで行かないと得られないような理解に「リサーフェシング」の途中で目覚めてしまったりすることもあります。これも全くかまわないのです。その人に起こっていることこそが重要なのであって、その人がその時受講しているセクション名や番号などは重要ではありません。

 

では各セクションを一つ一つ取り上げて、各セクションに相当する成長の過程について説明していくことにします。

 

恐らく皆さんはこの点を面白いと感じられるのではないかと思いますが、理解に目覚めたり変容を遂げたりすることは、求道の到達点である<悟り>へ向かって一直線に伸びていたり一続きの段階を成していたりするわけではないのです。そうではなくて、<悟りを開く>という経験に到達するためには、物質界の中の存在である<エゴ>としての自己の中へ深くのめり込んで行ってから、またそこから出てくるという経験が必要であり、理解や変容というものは、その必要な経験の<道>が辿るとおりの曲がりくねった輪郭を形作っています。進歩とは、必ずしもあなたが一層スピリチュアルになるような方向に動いていることを意味するわけではありません。それは、必ずしもいつも<道>が向いている方向ではないのです。時には、以前よりもスピリチュアルでない存在になることが、進歩する方向である場合もあります。

 

宗教は、この<道>における霊性の高い地点の周りに築かれる傾向にあります。そこでは人が罪を犯して破門されるまで、それ以上の進歩はありません。聖人になる前の最後のステップは、とても許されないような罪を犯すことです。それが隣人たちの犯した罪への慈愛と共感を生み出します。いつも善行ばかりしている人は、善行を行なうことに失敗した誰かのことをどうやって理解できるでしょうか?善行を行なわないということは、いつも善行ばかり行なってきた人にとっては奇異なことに見えるだけです。

 

言葉による学びにおいては、<悟り>へ至る道を一直線として提示することはできますが、生きた学びにおいてはそうはいきません、生は脇道にそれるものなのです。立ち止まって探求もします。転んでは起き上がり、体から埃を払い落とします。アバターがこのことを理解しているという点が、アバターの強みの一つです。

 

アバター・コースの第1部は、「リサーフェシング」と呼ばれています。リサーフェシングとは、これまで創り出してきた創造から自分を解き放ち、<気づき>のレベルまで再び浮かび上がることを意味しています。このセクションは、<自己発見コース>と名付けることができます。人生という映画の中に自分を見失ってしまった人は、自分が映画館にいるのだということを忘れてしまったのです。人は夢を見るうちに、自分が眠っているのだということを忘れてしまうのです。「リサーフェシング」は、<自己>と<自己が経験していること>との間にある相違について気づかせてくれるものです。

 

<道>のもう少し後の方では、<経験とひとつになる>ということを練習することになるでしょう。けれども、目覚めのこの段階では、<知覚している者>と<知覚>との間には相違があるということに気がつくという方向に進みます。<あなた>と<あなたの尊敬する人>との間には違いがあります。<行動>と<反応>との間には違いがあります。<違い>というものがあるのです。

 

「リサーフェシング」で起こる根本的な成長、「リサーフェシング」が数々の練習で繰り返し強調して受講生にもたらそうとしている目覚めは、「私がいる」ということに気がつくことです。これは、「もちろん、私はいるに決まってるじゃないか」という「私がいる」ではありません。これは、「ああ、そうなんだ、私というものがいる。本当に私がいるんだ」という「私がいる」です。

それは、責任というものを発見しつつある「私がいる」ということです。これは実に強力な理解に目覚めることであり、人をこの経験に導くことができただけでも(つまり、ただその人の唱える念仏にもう一つの念仏を加えるというレベルではなく、その人に実際に「私がいる」という経験を経験させるということですが)、<教え込まれたことを盲信するだけの眠り>という拘束を解き放ったことになるのです。権威者の命令通りにロボットのように反応することの代わりに、自分に責任をとる態度を目覚めさせたのです。その人は、今、観察してから行動するということができるようになったのです。誰かがアバターを「自己発見のコースです」と説明している場合は、この段階の成長過程のことを言っているのです。

 

アバター第2部は、<自己を力づけるコース>です。第2部のための唯一の受講資格は、力づけることのできる自己を見つけてあるということだけです。すべての苦しみは心の中の作用、特に信念と価値判断から生じます。いくつかの哲学や宗教が生きることは苦しむことであると見なしてきたことは驚くに当たらないのです。それらの哲学や宗教は、心の中の作用を処理することのできるテクニックを持っていなかったのですから。彼らができる最良のことは心を静めること、即ち、瞑想することでした。心が静まったとき苦しみは消え去るわけですが、20世紀の人の心を静めることの難しさを昔の宗教や哲学は考慮してはいませんでした。20世紀の人間の心は、少なくとも10年間の学校教育で「心配する方法」を充分に習ってきています。現代人は75,000回のコマーシャルを見てきました。25,000時間分のドラマを見ました。その中の最良のものでさえ、私たちに感情的傷を残しています。(例えば、バンビのお母さんは帰って来なかったのです。)もしもブッダが20世紀の人間の心を持っていたなら、「生きることとは真に激しい苦しみである」と言ったかもしれないと私は思います、

 

第2部は、心を制御する力を回復するための現代的アプローチです。これは全く普通とは違った能力が達成されるので、多くの人々はそんなことが可能だとは信じないくらいなのです。でもそれは可能で、アバター第2部で起こる成長過程の一部なのです。

 

<現在の私たち>という存在について私たちが把握した後は、次に取り組むのは「私は何を創り出すことができるのか?」という課題です。<創造練習>の秘密の一つは、それが心を静めるということです。あなたが疑いを探している間、あなたはあなたの注意を一つの創造を取り囲む静寂の上に注ぐことを学んでいるのです。あなたが注意を注ぐ対象は何でも増加します。あなたの注意を静寂の上に注いでごらんなさい、そうすれば静寂が増加します。<創造練習>を正しく行なうとき、あなたは静寂を経験します。その静寂は一時的なものであることでしょう。なぜなら、<道>のこの段階ではあなたはまだ、静寂そのものになりきる用意ができてはいないからです。あなたはこの段階では、何かを得ること、または、何かを手放すことの方に関心があります。

 

ですから第2部では、<道>はうねり始めます。物質界へと迂回して行くのです。<エゴ>の発達は、<創造練習>の最後の部分に内蔵されていて、生の次の成長の段階へとあなたが進む準備をします。「私がいる」と気づいた後、<道>の上で次に気がつくことは、「僕ってものすごく素晴らしいなあ」ということです。第2部は制限の数々を取り除き、あなた自身が好む現実を意識的に創り出す方法をあなたに紹介します。これが<エゴ>の究極的な快楽です。自分が望んでいるまさにその通りのことを創造するということが。

 

それではなぜ私たちは<エゴ>の発達を奨励するのでしょうか、<エゴ>こそがこの世での実に多くの困難の根源であると私たちはわかっているというのに?それは、成長している存在が経験することが必要な<生きた学び>の次の段階であるからです。<エゴ>とは、探究されることが必要な領域なのです。時には、私たちの文化的大傑作や科学技術における大発明を生み出すのは、自己顕示欲に満ちた自己中心的な努力であることがあるのです。<エゴ>は、<魂の青年期の通過儀礼>であると言えます。

 

<エゴ>が開花することに失敗するなら、それ以上の魂の成長はありません。目覚めの過程を続けるには、バランスに到達することが必要です。不幸を経験したなら、幸せを創り出さなければなりません。失敗を経験したなら、成功を経験しなければなりません。従順な気持ちを経験したなら、支配者の気持ちを経験してバランスをとらなければなりません。過去に依存して生きてきたなら、将来の目標を立てることでバランスを達成しなければなりません。第2部の<ソース(源)リスト>と<現実創造リスト>は、このバランスを達成するための、倫理的にも健全な一つの方法を提示するものです。多くの人々は、第2部の教材を終了した時点では、まだ自分たちの人生でこのバランスを達成していません。このバランスに達する前にウィザード・コースを受講してしまう人々さえいます。けれども重要なことは、第2部を終えた後は、彼らは常にバランスに向かって成長し続けているという点です。それに向かって成長しているのは、彼らが<意図的に生きる>ということを理解しているからです。<自己を力づけること>は、あなたの人生にバランスを回復することを可能にします。<悟り − 至高の境地>は、そのバランスが達成されたとき自然に起こります。お望みなら第2部を、宇宙との間でカルマを清算してバランス達成することを可能にする技術であると考えることもできます。

 

第3部は、<至高の境地>のコースです。それは、<自己>というものを限定することを行なう空間へとあなたを連れて行きます。過去から生じている信念の触手を消滅させることによって、あなたは今という瞬間に戻ります。信念と現実は、今、新たに形作ることができるのです。行動する者は意図的に行動するようになります。第3部では、意識的な自己を越えたところにある<気づき>が目覚めます。

 

第4部はマスター・コースです。これはあなたの個人としての自己よりも広い視点から世界を眺めるコースです。あなた個人の利益を計算する自己が、今や文明全体の利益を計算に入れるスピリチュアルな自己によって補強されます。

 

他者に対する慈愛と敬意が目覚めます。<全世界の人々が新たな高い境地に達している文明>へ向かって進化している地球的規模のネットワークにつながる機会があります。信頼と献身が目覚め、それが、目的と冒険で味付けされた人生へと人々を導いて行きます。

 

意識的な生き方と、自分にぴったりの生計の道の追求が生まれます。第4部で気がつくことの一つは、人生とは一時的なもので、その本来の目的は学びのための冒険なのだということを思い出させてくれるということです。このレベルで成長しているマスターは、世界をよりよいものとしようという自分自身の努力も含めて、<全ては大丈夫>と感じています。それは、超然として<気づいている>自己で、この世に対して反応せず、その代わり、この世の中で創造を行なうことを選びます。仏教用語を使うなら、これは菩薩です。生の進化を助ける存在です。

 

第4部にはもう一つのコースがあり、プロフェッショナル・コースと呼ばれています。それは<人前での自分の存在のし方>と<アイデンティティーを意図的に再創造すること>を教えます。それは、人が世の中のさまざまな摩擦に耐えられるようにし、対人的対処技能を向上させます。プロフェッショナル・コースをリーダーシップ・コースと呼ぶこともできます。

 

 そしてその次はウィザード・コースです...
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