昔、というほどの昔じゃないが、ある妖怪に逢ったことがある。

 大学生だった僕は、その時煙草を買いに出ていた。僕の住んでいたマンションの1階はコンビニになっていたけれど、JPSなんてマイナーな煙草はさすがに置いてなかった。それで散歩がてらちょっと遠くの煙草屋まで歩いていた。夏の終りも近い日で、まあ夕焼けなぞ眺めながらブラブラするのもよいなと思ったわけだ。
 いつものように少し買いだめして帰ろうと思っていた。自販機のボタンを4回ほど押して、煙草とお釣りを取る。振り返ったら、そこに、その子がいた。

『おにいちゃん、それなに?』
 手に持った、煙草のボックスのかたまりを見つめて、そう尋ねてきた。
 可愛い、女の子だった。いや、男の子かもしれないなと思うような、明るい、ボーイッシュな子だった。
 12才ぐらいだろうか。猫を思わせる黒目がちな瞳の上の太い眉毛が、余計に元気な男の子っぽく見える。全体的にすらっとした感じの元気そうな子だ。明るく健全で犯罪行為なんかこれっぽちも犯す気のないロリコンだった僕は(いや今でもそうなのだが)こういった女の子に弱かったのだ(今でも弱い)。だから僕はにっこりと笑っていった。
『これ? 煙草だよ、煙草』
『ふーん、それ欲しいなあ。ねえ、ちょうだい♥』
『煙草を? いいけど、でも小学生の吸うもんじゃあないよ。こっちのお釣りでジュースってのじゃ、だめかな?』
『やだよぅ、それがいいの。ちょうだい♥』
 こう、くっと首をかしげるようにして微笑まれると、まあだいたい断れないもんである。それに、こんな感じで話かけてくる女の子ってのは、すぐお友だちになってくれる。いや、ホントにお友だちなだけなんだけれどね。そういった『お友だち』ってのも実際何人かいたし。
 いやともかく、この、なんというか、その明るさに負けてしまった。
『わかったよ。はい、じゃあひとつどうぞ』
『わぁ、ありがとう!』
 大体、こういった『大人の持つもの』に興味を示す子供ってのはよくいるし、夕方といっても結構遅い時間だっので、もしかしたら一人っ子で家に誰もいなくてさみしいのかなとか、そういったことも考えてしまったわけだ。だから、煙草屋の前のベンチに座って、パッケージを眺めたりひっくり返したりしてもてあそんでるこの子を、とても可愛く思えてきた。
 いや、それだけではないぞ、半袖のTシャツにデニムの半ずぼん、ちょっとボーイッシュなショートカットにクラクラ来たんだ、などともちょっとだけ思った。もうちょっとお話なんかしてお友だちになって、そんで今度写真撮らせてもらおうかななんてなことも思った。
 だから、自販機でジュースを2本買ってきて隣に座って、その子の手の中の煙草のパッケージを一緒に眺めてた。
『これ、おもしろい?』
『うん、とっても! でも、もういいや。それにボク煙草なんか吸わないもんね。返す。ありがとう!』
『そう、じゃあおかえしにジュースをどうぞ』
 手に持ったジュースをひとつわたして、自分もプルトップを開ける。
 最初はきょとんとしていたけど、ぱあっと明るく笑ってその子もジュースを飲み出した。
『おにいちゃん、優しいね。こんな人、本当に久しぶり』
『そう? ありがとう』
『でも、下心、あるんじゃないの?』
 その子はいたずらっぽくいった。ジュースを吹き出してむせかえる。だいたい、女の子ってのは、そういった心を読む力があるものだ。ばれてるかな、とは思っていたけれど、しかしこうストレートにいわれるとは、予想外だった。
『おにいちゃん、アレでしょ。ろりこんっての。幼女にしかせーてきにコーフンしないってヤツ』
 さらに予想外だった。しかもこんなに明るく、キャラキャラといわれたら、怒るとか慌てるとかそういったことも出来やしない。しかしそこはそれ、今までの経験からいってもこういう時には素直に白状するのが一番である(いや本当に)。
『まあ、そうかもね。でも可愛い子が好きなのは変なことじゃあないと思うなあ。それに子供が好きってのが変態だったら、幼稚園の先生はみんな変態だよ?』
『あはっ、ごまかしてるぅ♥』
『ごまかしてないさ。それにキミを襲おうなんて気はないよ。清く正しいロリコンなんだ、おにいさんは』
『なにそれ、へんなの』
 あんまり警戒してるようでもなく、屈託なく笑っているのを見ると、逆に襲っちゃいけないもののように見えてくる。もちろん、本当に襲う気なんかなかったけど。
『名前は、なんていうの。僕は、大輔』
『ん? ボクの名前? かおる』
『このあたりの子なのかな。送っていくけど?』
『そーやって、住んでるトコをつきとめるのね?』
 いや、こうストレートにいわれるとどうしようもないのである。
『そうだよ。お友だちになりたいしね』
『ふーん、でもお家、ないの、ボク』
『そんなこといって。お父さんとお母さん心配するよ?』
『お父さんもお母さんもいない』
 ヤベッ! 触れてはいけないことだったかもしれない、と思っていたら、またもや予想外のセリフがでてきた。
『おにいちゃん優しいから、本当のこと教えたげるね。ボク、本当はよーかいなんだ』
『よ?』
『うん、妖怪。だから、じゅうしょふてーむしょく、なんだよ。びっくりした?』
『うん、びっくりした』
 いろんな意味で。その時には、だからちょっと淋しそうな雰囲気だったのかな、とか、じゃあおじいさんとおばあさんとで暮らしてるのかな、とか、そんなことしか考えてなかったけど。
『あーっ、信じてないね、ボクのこと』
『いや、信じているよ。じゃあ、今日泊まる所はあるのかな?』
『ううん、ない。だから、おにいちゃんのとこにとめてもらおうかな』
 びっくりした。ジュースの缶を落してしまった。
『いいでしょ、いいよね、だめっていったら大騒ぎしてやるんだから、へんしつしゃがでましたーって』
『あ、ああ、いいとも。君みたいに可愛い子なら、大歓迎さ』
 きっと、とてつもなく棒読み口調だったと思う。
『あはっ、ありがとう! でも、そりゃそうよねぇ。ろりこんのおにいちゃんにとっては、願ってもないちゃんすだもんねぇ♥』
 そうやって、妙なしなをつくって抱きつかれてしまって僕は、どこまで本気かはわからないけどもしかして本当にチャンスかも知れない、と少しだけ思った。が、世の中そんなに甘くないということも学習してきている(ホントに学習した)ので、とりあえず一緒にゲームでもして、その後ででも送っていくことにしよう、という考えが大半を占めていた。きゅっと僕の右腕に抱きついてぶら下がるようにして歩いているこの子の肌の感触に耐えるために一生懸命煙草をふかしていたのも事実だったが。
『どう? うれしい?』
 そんな風に挑発されるととってもいけない気分になるそうぐりぐりと腕を胸に押し当てるんじゃないああ確かにけっこうそうとう嬉しいかなぁなんだか川本耕次とか斉田石也なんかの小説みたいになってきたなあ。
 だいぶん混乱していたし、Tシャツごしに伝わってくる柔らかいぷにぷにした感触や汗の匂いが頭をクラクラさせた。ふと、どっきりカメラかなんかじゃないだろうか、という考えが頭をよぎった。それとも、この後怖いお兄さんが出て来るとか。ま、そん時ぁそん時だと開き直って、今の状態を楽しむことに決めた。
『こうやってると、コイビト同士に見えるかなあ?』
『そりゃどうかな。兄妹とか、従妹とか。でなかったら犯罪者に見えると思うな』
『あはっ、あたってるじゃない♥』
『あ、ひどいなあ。まだなんにもしてないぞ』
『でも、これからしようかなぁなんて考えてるでしょ』
 確かに考えていた。こういう時は、否定しないのが一番だ。だいたい、大人に憧れているような子はこんな風にして挑発して来るものだ。
『うん。可愛い女の子を見るとね、そういうことを考えるものなんだよ、普通』
『そうやって喜ばせておいて、うまくあやつろうとするのね。よくある手口よねぇ』
 まずい、きっちりバレている。
『かおるクンは、どこでそんなこと覚えて来るんだ?』
『ん? ヒミツ』
『最近の子供はコワいねぇ』

 たわいもないことを話しながらマンションまで一緒に歩いてきた。
 お菓子でも買っていこうかなと思って、マンションの1階にあるコンビニに入ることにした。いつも利用しているから店長とも顔なじみだった。だから小さな女の子を連れている僕を見て、ちょっとだけ不思議そうな顔をした。
『おっ、少年! めずらしいな、恋人連れか!』
『そうだよ。ボクおにいちゃんのコイビトなんだ♥』
 店長としてはきっと冗談のつもりだったのだろう。だから、この子がそういったのを聞いても冗談だと思ってあまり気にとめなかったようだし、いつもどおりにお釣りをわたしてくれた。店内にいる客の何人かはアブないものを見るような目つきで僕たちを(主に僕を)見ていたけど。

 で、けっこう大きなコンビニの袋をもって、マンションの僕の部屋に一緒に入った。それほどきれいにはしてなかったけど、まあ、女の子を連れ込むのが許される程度にはかたづいていた。
『はい、ようこそ。ちょっと散らかっているけどね』
『へえ、まあまあかな。でももっと散らかっててもよかったのに』
『どうして?』
『えっちな本とか、ティッシュがいっぱい散らばってるとか、そんなんだったら面白かったのになーって』
 いたずらっぽく笑いながらそういった。ああ、かたづけておいて本当によかった。
『じゃあ、証拠を見せてあげるね』
『え?』
『ボクが妖怪だってコト』
 びっくりしている僕の前で、いきなり服を脱ぎ出した!
 本当に斉田石也の小説のような展開になったなあ、などと思っている僕の前で、あっという間に全部脱ぎ捨ててしまった。Tシャツに半ずぼんにパンツだけだから、本当にあっという間だった。
『ほらぁ、ちゃんと見ないと、わからないぞ』
 すっぱだかのまま腰に手を当て、ちょっと足をひらいて立っている。どう反応していいかわからず座り込んだ僕の顔をのぞき込むようにして、その子はそういった。そういえば、何となく違和感があった。なんというかこの、あるべきところにあるべきものがないというような……。そうか。
『ないね』
『そう。なぁんにもないんだよ。残念だったね、イケないことはできないよ♥』
 最初に逢ったときの、あの人なつっこい笑みを浮かべて、その子はいった。具体的には説明するまい。なるほど、これはあまり普通の人間にはない体だろうな、とか、食べたものはどうなるんだろう、とか、色々考えていた。

 その後、その子のいろんなことを聞いた。裸のままでは、いくら妖怪とはいえムラムラしてくるから服を着てくれといったら、一緒にハダカんボになっちゃおうよといわれた。なんとか頼み込んで服を着てもらった。
 どうやら、ものすごく昔からいる妖怪なんだそうだ。
『ホントだよ。柳なんとかっていう人の本にも出てるんだから』
 柳田国男も2冊程しか読んでないから本当かどうかはわからないが、座敷童とか、そういった類の子なんだろうなと思った。いたずら好きの妖怪、というやつだ。日本中にいっぱい仲間がいるといっていた。
 最初に逢ったときのように、他人が手に持ったものを欲しがる。で、その人が渡さなかったら、その持ってるものを手の平から離れなくする、のだそうだ。試しにちょっとやってもらったらべったりと張り付いて、はがそうと思ったら手の皮がはがれそうなほど痛かった。なるほど、この子は確かに妖怪なんだと、確信した。無理矢理はがそうとして痛がる僕を見て、楽しそうに笑っていた。
『でもね、最近つまんないんだ。みーんなボクのこと無視するんだよ。それにくっつけちゃっても、カタパルトとかなんとかっていってただの病気みたいにしか見てくれないの。おもしろくない』
 ぷん、とむくれたその様子がとても可愛かったので思わず笑ってしまったら、飛びかかられてなぐられてしまった。まあじゃれあってるみたいなものだったけれど。

 その後、1週間ほど僕の部屋に住み着いていた。ゲームをしたり、遊びにいったり、とても楽しかった。

 いくらナニも出来ないとはいえひとつのベッドで寝るのはまずいかな、と思って床の上で毛布にくるまっていたら、いつのまに入り込んだのか、朝になったら同じ毛布の中で抱き締められていてさすがにびっくりした。慌てて飛び起きたら彼女はもうすっかり目が覚めていたようで、飛びかかってくるわ抱きついてくるわ、朝っぱらから元気に遊びはじめた。
 体中をくすぐったりくすぐられたりしてじゃれあって遊んでいるうちに汗だくになってしまったらしく、一緒にシャワーを浴びようといわれた。一部分以外まったく人間の少女と同じ感触の女の子と、ごろごろ抱き合って遊んでいたのだ、僕も一部分が非常に危険な状態だったが、無理矢理ひんむかれて風呂場へたたき込まれてしまった。彼女にとっては、こっちの反応がいちいち楽しくてしかたないようだった。

 着替えやパンツの替えを買いに一緒にデパートにいったら、若いお父さんだねといわれてコイビトだよとでもいったらしい。お金をわたしたときの店員の態度が、微妙によそよそしかった。

 大学までくっついてきて一緒に講義を聞いたりもしたけど、すぐに飽きて構内をうろうろしていた。友人たちには従妹だとだけいっておいたのだが、別に不審にも思われなかったようだ。まあ普段から行動が怪しいといわれていたから、また変なことをしているな程度にしか思われなかっただけかも知れない。
 実験棟の方で大騒ぎがあったのはどうやらこの子のせいのようだった。その後3日間ほど化学課の何人かが手の平に試験管やらフラスコやらをくっつけて歩いているのは、ちょっとした話題になった。

 ゲーム仲間が部屋に遊びにきたときもこの子は、おにいちゃんのコイビトと自己紹介した。僕の性癖を知るヤツらは、とうとうやってしまったかとあきれたようだった。本気で心配してもくれたが、説明するのも面倒だったし秘密にしておくという遊びも面白いといわれていたので、やっぱり従妹ということにしてしまった。ヤツらが信じたかどうかは別だけれど。
 はじめは僕がゲーム仲間と麻雀をしているのを見ていたが、そのうちにボクも麻雀やりたいといい出した。試しにやらせてみたらこれが強いのなんの。はじめは少し負けておいて、悪友共を油断させる。次負けたら脱いであげるなどといってレートをつり上げておいて、一気に叩き潰してしまった。はっきりいってプロの手口だった。
 勝った分で山ほどお菓子とジュースとビールを買ってきた。みんなで飲んで騒いで朝まで遊んだ。
 後で聞いたら、将棋や囲碁で似たようなことをして大人をだまして楽しんだりもしたそうだ。

 ゲーセンの対戦もやった。あちこちのゲーセンの対戦格闘で、めちゃめちゃ強い女の子がいると話題になった。勝ったら大騒ぎで喜ぶし、たまに負けると本気で悔しがった。うるさいとも邪魔だともいわれなかったのは、やっぱりこの子の持っている不思議な魅力のせいだったのだろう。
 彼女が負けた相手に僕が挑んでかたきを討ってあげたら、首に抱きついてきて顔中にキスされた。おかげでアブない噂も広まってしまった。『ロリコン舜帝とその恋人の最強少女』ということらしい。本当に、遊ぶことならなんでも上手だったし、いつでも本気で遊んだ。

 そのときも、僕の部屋で、一緒にPSの対戦ゲームをしていた。
『おにいちゃん、楽しかったけど、そろそろおわかれだね』
 ぽつん、と、そういった。本当に、この子は突然、予想外のことを、いってくる。
『あんまりおんなじ所に長くいたらね、いけないんだ。おにいちゃんにだって迷惑がかかるしね。だから、おわかれ』
『そんな、迷惑なんてこれっぽっちも思ってないよ。僕だってかおるちゃんがいてくれてとても楽しいし、それに』
『ありがとう。でもね、だめなんだ。もうすぐしたら、ちょっと変な子だって気付かれちゃう。妖怪だってばれるかも知れない』
 コントローラーを持ったまま、画面を見つめながら、今の技いいねって口調で、なんでもないことのようにそういった。その時の様子が、声は明るくていつも通りだったけれど何だかとても淋しそうで、ちっちゃな肩がほんとに小さく思えて、思わず抱き締めてしまった。つかまえておかなかったら、今すぐ、煙みたいに消えてしまいそうな気がした。
『そんなこと、僕はもう知ってるよ』
『うん。でも、おにいちゃんは特別。人間とは違うっていうだけで、結構大変な目にもあってきているんだ、ボク。そうなったら、おにいちゃんも困ると思う』
 その時には何もいえなかった。確かに、従妹が何でこんなに長い間いるんだとか色々といわれ出していたから。
『ね、だからさ、もうおわかれなの。ボクも淋しいけどね、でもしょうがないんだ』
 とても大人びた、とても優しいそのいい方に、本当にこの子は僕よりずっと歳上なんだ、とてもたくさんの出会いと、別れを繰り返してきているんだと思い知らされた。自分は抱き締めているのではなく、彼女に抱きついて泣いているのだと気がついた。
『泣かないでよぅ、困ったなあ』
 とてもカッコ悪いなと思ったので、彼女をはなして向かいあって座った。ちょっとだけ、彼女も泣いていたようだった。
『ねえ、なんで、僕には本当のこと、話してくれたの?』
 ずっと考えていたことだった。優しい人なんてのだったらゲーム仲間にも結構いるはずだと思っていたから、その中でもなぜ自分には、と不思議だった。
『うーん、なんてのかなぁ、多分おにいちゃんが、妖怪に近いせいだと思う』
『よ? 近いって、妖怪ろりーた、とか?』
 なんだか湿っぽい雰囲気だったし、なるべく明るく、冗談めかしていった。
『もう、そうじゃなくてぇ、その、妖怪とかそういったのを、特別と考えない、っていうか、自分と違うものだって考えないとか、そういうこと。そういう人はね、わかるんだ。普通の人間とは、ちょっと違うの、感じが』
『そうか、普通じゃないってのはよくいわれてたけどね。昔から』
『ろりこん、とか?』
『それも含めて』
 彼女に近い、といわれてなんとなく気分が明るくなってきた。
『そうか、お別れ、かあ』
『うん、おにいちゃん、ごめんね』
『まあしょうがないさ。でも、これからどうするの?』
『それなんだけど……、おにいちゃん、お願いがね、あるの』
 とってもいいにくそうに、ちょっと上目使いでそういった。
『あのね、お金、貸して欲しいんだ。5千円ぐらいでいいの』
『はい?』
『それでね、電車にのって、どこかへいくの。ここじゃないどこか』
『お金ならいいけど、借りるの?』
『そう、絶対に返しに来るから、ね、お願い♥』
 そういって、最初に逢ったときの、あの笑顔で笑った。一緒にどこかへ行こうとはいえなかった。彼女は僕とは違う世界に生きているんだと思い知らされたからだし、今までの生活を捨てられるほど度胸がなかったからだと思う。
 駅まで送っていこうといったけれど、いらないといわれた。部屋の前で千円札を10枚手渡した。ついでに、ちっちゃなバッグに着替えと、少しだけお菓子を入れて渡した。
『それじゃ、また逢えるかな』
『うん。きっとね』
 そういって彼女は内緒話をするように耳もとに口をよせてきた。ちょっとかがんで聞こうとしたら、いきなりキスされた。唇に、軽く触れるように、チュッと。
『あはっ♥ボクにキスされた人はね、いいことがあるんだよ。じゃあ、またね!』
 そういって、走っていってしまった。初めて逢ったときと同じように、あっというまだった。3部屋向こうの住人がちょうど顔を出していたけれど、すごいものを見てしまったという顔をして引っ込んでしまった。まあ、またアブない噂が広まるだけだと、気にもとめなかった。

 しばらくして学校をやめてしまった。別にあの子が原因というわけでもなく、ただ単にドロップアウトしただけだ。ぶらぶらして、適当に就職して、結局その部屋も引っ越してしまった。
 その後、あの子には逢っていない。まだ1万円も返してもらっていないし、特にいいことがあったわけでもないから、そのうち、どこかでひょっこり逢うかもしれない、と思っているけど。

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by Die
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