WASP BAND SONGS and ALBUMS W.A.S.P. GALLERY HISTORY WASP NATION
TRIBUTE SONGS RARE COLLECTION LIVE IN JAPAN WASP FILES PROFILE

 
〜1984
L.Aメタル全盛期1984年にW.A.S.P.はメジャーデビューを果たす。前身のバンドは
HYENAと名乗ったが不評のために W.A.S.P.と改名する。この頃はリック・フォックスがベースで参加していた。しかし彼が脱退したのでブラッキーがベースにコンバートして狂気のギタリスト、クリス・ホルムスが加入する。ギタリストに全身バンド時代から一緒のランディ・パイパー、ドラマーには悪童トニー・リチャーズ
この頃からブラッキー中心のバンドで、あとのメンバーは狂気を演じながらついていったと思われる。(クリスは別かも)メジャーデビュー前に例のワイセツな歌詞の
「ANIMAL(Fuck Like A Beast)」の件でレコード会社ともめてしまう。デビューアルバム「W.A.S.P.」は目玉のANIMAL〜抜きで発売。ANIMAL〜はイギリスのミュージックフォーネイションから発売されている。
BLACKIE LAWLESS (B,Vo)
RANDY PIPER (G)
TONY RICHARDS (Ds)
CHRIS HOLMES (G)
 
〜1985
L.Aメタルブームも落ち着いて、本当に力をもったバンドだけが生き残る時代になってゆく、、、。そこでブラッキーの出した答は一流のプロデュースだった。マイク・バーニーがいたけどほとんどセルフプロデュースだったデビューアルバムを越えるべく、スペンサー・プロファーを迎えている。そして問題作となる
「THE LAST COMMAND」を発表。スペンサーが一流だったかどうか解らないがブラッキーの要求はある程度通ったみたいだ。ただ効果音やフィードバック等のSEは初めて使うと新鮮であれもこれもと試してみたと思われる。(この時期は楽器やエフェクター類がデジタルになっていく)もとの曲自体がパワーがある曲がよかったが、問題はその他の曲だった。効果音に頼りすぎるあまり、曲の本質の部分が聞こえてこない(伝わりににくい)ようになっていいた。なおドラマーはメジャーデビューまもなくして加入した元キールのスティーブ・ライリーが正式メンバーとなっている。
OUT←TONY RICHARDS(Ds)
IN→ STEVE RILEY (ds)
 
〜1986
ブラッキーはランディを解雇して、新メンバーとして元キングコブラのベーシスト
ジョニー・ロッドを迎え入れる。ブラッキーはギターに転向するがこのメンバーで86年に発表した3rdアルバム「INSIDE THE ELECTRIC CIRCUS」の出来はイマイチだった。
 OUT←RANDY PIPER (G)
IN→JOHNNY ROD(B)

BLACKIE (B →G)
〜1987
3rdアルバム「INSIDE THE ELECTRIC CIRCUS」伴うツアーを収録したW.A.S.P.初のライヴアルバム
「LIVE... IN THE RAW」を翌87年に発表するが、ミックスダウン中にドラムのライリーが脱退している。アルバムごとにメンバーが変わってブラッキーのワンマンさが伺える。
ドニントンのライヴ10日前にライリーが脱退したために、急遽ドラマーを参加させて凌いだ。 
OUT←STEVE RILEY(Ds)

ONE STAGE ONLY
GLENN SODERLING (Ds
)
 
〜1989
フルレンスの4thアルバム
THE HEADLESS CHILDRENを発表するがドラマーがライリーに変わってフランキーバネリがゲストと言う形で参加している。したがってアルバムジャケットには3人しか登場していない。アルバムの出来は各方面で絶賛され一見順調だったが、ツアー中にバンドが分裂してしまう。なんとクリスはリタフォードと結婚した為にツアーに出たくないと言っていたようだ。(半年くらいで離婚したが、、)ジョニーも個人的な理由で脱退している。ブラッキー独りとなったW.A.S.P.は存続の危機を迎えることになる、、、、
 IN→FRANKIE BANALI(Ds)

OUT←CHRIS HOLMES(G)
OUT←JONNY ROD(B)
OUT←FRANKIE BANALI(Ds)
1990〜1991
ブラッキー独りとなったW.A.S.P.はもはやバンドと呼べるものでは無くなっていた。そこでブラッキーはソロアルバムの計画をするのだが、レコード会社の要望で知名度のあるバンド名での発表を進められる。レコーディングに入るが自宅にスタジオを造っていたブラッキーはそこにこもり曲作りを始めた為に情報は極端に少なくなってしまい雑誌にも載る回数が減ってきて、もうW.A.S.P.も終りかなと誰もが感じていたのであった。
 BLACKIE LAWLESS (solo)
〜1992
どうやらコンセプトアルバムになるらしいとの情報が流れはじめてファンは期待した。だか当時はコンセプトアルバムがたくさんでていて特に88年に出たQEENSRYCHEの「オペレーション:マインドクライム」の評価を越えるアルバムはまず存在しなかった。W.A.S.P.のアルバム自体も発売日が決まらず不確定な情報しかなかった。そういうこともあって特に目立った注目をされることもなく92年も半年が過ぎていった6月、ついに名盤
『CRIMSON IDOL』が発売になる。各方面で絶賛されたこのアルバムはいままでW.A.S.P.が嫌いだったリスナーの耳をも傾けさせた。アルバムの評価は非常に高かったが、それに伴うライヴツアーの最後でブラッキーが絶大な信頼をおいていたベーシスト・ジョニーの脱退で,
またもやバンドが崩壊してしまう。
IN→STET HOWLAND (Ds)

TOUR ONLY
JONNY ROD (B)
DOUG BLAIR (G)
1993〜1994
クリムゾンツアー終了後「W.A.S.P.は終わった、、、、」と言い残したブラッキーは完全にやる気を失っていた。 W.A.S.P.の評価を根底から覆すアルバム発表後のツアーも好評で世界各国を旅していた。そこで様々なファンの声を聞いてバンドを続ける決心をした矢先の、ジョニー離脱だった。 W.A.S.P.は終演を迎えるべく、自己完結させるベスト盤『FIRST BLOOD LAST CUTS』を発表。同時にホームビデオも出していてる。雑誌インタビューでも続けるかどうかは判らないと発言していた。
BLACKIE LAWLESS (solo)  
1995〜1996
名盤『CRIMSON IDOL』の続編と称したフルレンスアルバム
『STILL NOT BLACK ENOUGH』を95年に発表。
歌詞の内容は続編っぽい所もあるが、満足するサウンドプロダクションではなく名曲と呼べる曲もない。苦悩するブラッキーが見えて精力的なプロモーションもなくツアーも行われてない。まさに葛藤との闘いだったようだ。
 
〜1997
なんと6年ぶりに永遠の悪童クリスが復活する。そのほとんどをブラッキーとクリスで制作した問題作『KILL FUCK DIE』を発表。今までセッション/ツアードラマーだった
ステット・ハウランドとコネチカット州出身の無名のベーシストのマイク・デューダを正式加入させ、その後精力的にツアーをこなして久々の日本公演を実現させている。ライヴ中にノーカットポルノを流すなど賛否両論の面もあったがバンドの演奏はタイトかつパワフルで往年の力が蘇っていた。
IN→CHRIS HOLMES (G)
IN→STET HOWLAND (Ds)
IN→MIKE DUDA (B)
 
〜1998
バンドでの目立った活動はなかったが、二枚組のライヴアルバムの発表や、ブラッキー自信がリマスターに携わると言う徹底ぶりの再発CDなど休むことはなかったようだ。シングルのB面やボーナストラックを多数収録した再発盤は貴重な写真も満載でコレクター泣かせだ。
 
〜1999
前作と同じメンバーでのアルバム
HELLDORADOを発表。
ブラッキーがデビュー前のデモテープのアテュードを目指したと言うサウンドは荒っぽくてパワフルだ。
 
〜2000
バンドは勢力的にツアーをやっていて、リマスター曲を含むベスト盤も発表。

 
〜2001
2000年4月に行われたブロードバンド用ライヴ盤『THE STING』。音はイマイチで公式なブート盤といった感じだ。
盟友フランキー・バネリ、HM再生仕掛け人ロイ・Zが参加したフルアルバム『UNHOLY TERROR』を発表。
直後にクリス・ホルムスが音楽的相違脱退。ヨーロッパツアーはクリムゾンツアーに参加したダグが同行。
後の全米ツアーで正式メンバーとして無名の
ダレル・ロバーツが参加。
OUT ←CHRIS HOLMES (G)

EUROPE TOUR ONLY
DOUG BLAIR (G)

IN→DARRELL ROBERTS (G)
 
〜2002
短いスパンで更にアルバムを発表。ステット・ハウランドは脱退して、フランキー・バネリがゲストとして参加した
『DYING FOR THE WORLD』新生W.A.S.P.をアピールする佳作アルバムだ。
RATT等とまわるツアーを発表したものの、次のアルバムに取り掛かる為に中止。
OUT←STET HOWLAND(Ds)  
〜2004
長い間レコーディングしていたアルバムが遂に発表。「THE NEON GOD:THE RISE」
このアルバムは当初は2003年の秋、続いて2004年2月に2枚目のアルバム・・・と一大プロジェクトだった。しかし、相変わらずの遅れでようやくPART1が4月に発表された。
精力的なツアーも組まれ欧米で30公演以上!
そのツアーにはステットが戻ってドラムを叩いている。
IN→STET HOWLAND (Ds)  
2005〜
「THE NEON GOD: THE DIMISE」を発表。初の南米などツアーも精力的に行いバンドの結束力を高めている。
 
2006〜
精力的にツアーを敢行。ハウランド、ロバーツと相次ぐメンバー脱退があったが、イングウェイ・マルムスティーンのドラマー・ヨハンソン、盟友ダグ・ブレア、マイク・デュープ等ピンチヒッター起用で切り抜けている。
 OUT←STET HAWLAND(Ds)

US TOUR ONLY
PATRIK JOHANSSON(Ds
)

OUT←DARRELL ROBERTS(G)
EUROPE TOUR ONLY
DOUG BLAIR (G)
MIKE DUPKE(Ds)
2007〜
オリジナルアルバム「DOMINATOR」発表。ヨーロッパを中心に精力的にツアー敢行。
 
2008〜
"The Crimcson Idol"15年記念ツアーを行う。
セル用DVDの撮影も行われた模様。だが発売されていない