白い昼の夢

 

 

おもい…

……

ちから…

……

いのち…

 

ぱっぱー

さくさく…

ちゃかちゃか…

 

言葉に表すと、こんな感じ…
最初に感じたのは音だった。

 

…臭(くさ)い。

少なくとも、良い香りじゃない。

 

次に感じたのは、私の周りからする臭(にお)い…
何日も洗っていない汚れ物の匂いだ。
臭いを払う様に勢い良く手を振ると、『もさもさした物』に引っかかる。

 

ばさっ!

 

少し迷った後、そのまま『もさもさした物』を振り払うと、『もさもさした物』が体の上を滑る感触がした。どうやら『もさもさした物』は、私(あたし)の体全体に被さっていたらしい。

 

ふぁん…

がさがさ…

かんこんかん…

 

『もさもさした物』を全て取り去ると、今迄黒一色だった視界に様々な色が入って来た。

 

「…あ…ぅ」

 

急に開けた視界に戸惑いながら周りを見回す。
まず理解できたのは一面に降り積もり、そしてなお降り続ける雪の白さだった。
『白』の上に『白』が重なり、泥で汚れた『白』も後から降る雪がまた白くしている。そして『白』を被った様々な色…
知らない街(まち)が目の前に在った。

 

びくんっ!

 

見知らぬ光景を見て暫し呆然としていた私に、体が訴えるように飛び跳ねる。
それと同時に、その原因が私の体を刺し始めた。

 

「…ックチュン!」

 

寒い…

 

「…あぅー」

 

痛いくらいの寒さに、膝を抱えて耐える。
だけど、一度感じてしまった寒さは、何処にも行ってくれなかった。
そして、大体自分が置かれている状況が飲み込めてから、初めて気付いた事がある。

 

あたし…だれ?

 

「あぅーあぅー」

 

寒くて、痛くて、恐くて…

 

ぐー…

 

ひもじかった。

 

 

……

……

「おっ!喰べた。喰べた。」

 

誰かの声…

 

「うまいか?」

 

知らない声…

でも、知ってる気がする声…

 

「返事くらいしろ!」

 

でも何故か…

なつかしいコエ

……

……

 

 

「ぅ?」

 

突然、頭の中から聞こえてきた『声』に、暫しぼうっとしていた私を、食べ物の匂いが呼び覚ました。

 

何なのか分からない『声』について考える事より、お腹をいっぱいにする事の方が先。

 

そう自分の心に決着を付けると、私は『もさもさした物』(汚れた毛布だった)を体に巻きつけた。
刺すような寒さの事を考えれば、毛布が多少臭いくらい我慢できる。
そして、余った部分をずるずると引き摺りながら、匂いのする方へ寒くて暗い路地を歩き出した。

 

 

匂いを辿って着いた先は、暗くて狭いところに置かれた青くて大きな入れ物だった。
その気になれば、私が中に入れる位に大きいから、温かくなる迄、ここに入って寒さを凌ぐと良いかもしれない。
でも今は、お腹を満たすのが先だ。

 

がさがさ…

もぐもぐ…ごくん

 

中に入っていた『細長くて塩辛い物』と『丸くてスカスカした物』を食べる。

 

ごそごそ…

はぐはぐ…ごくん

 

空腹が満たされてゆく幸福感を感じられたけれど、この寒さで、どっちの食べ物も冷え切っていた。

 

がさごそ…

かちゃっ!

 

そろそろお腹がいっぱいになり、今夜の寝床とする為に私が入れ物の中に入ろうとしていると、不意に入れ物近くにある茶色の扉が開いた。
『丸くてスカスカした物』を咥えたまま振向く私と、扉から出てきた人間との目が合う。
黄色い頭に無精ひげの生えた男。はっきり言って、変だ。

 

「……」

「……」

 

お互いに無言で見詰め合ったまま、この痛いくらいの寒さに凍り付いたか様に動きを止める。

 

「なっ…」

「!」

 

その変な男が、沈黙を破って何かを言おうとした瞬間、私は『丸くてスカスカした物』を二・三個掴んで逃げ出した。
後ろで男が呼び止めている様だけど、私は構わず雪を蹴り上げて走り続ける。
結局私は、男の声が聞こえなくなる迄、次々と目の前に現われる知らない路地を感に任せて走り抜けた。

 

 

「…ふぅ」

 

白く吐き出した息が、煙の様に霧散する。
走り続けて着いた先は、縁が茶色い石で出来た池のある広間だった。凍りそうな寒さの中なのに、池の中央から水が勢い良く吹き出している。
その光景は、降り続ける雪と相俟って、とても綺麗だ。

 

みず…

 

食餌をした分、目覚めたときより少しだけ辛く無くなっている。
走ったから体も温かい。
ただ、酷く喉が渇いていた。

 

ちゃぽ…

 

凍っていないのだから飲めるだろうと、目の前に在る不思議な池に口を着けて水を吸う。

 

じゃばっ!

ぶんぶんぶんっ!

 

だけど、池は雪解け水より冷たかった。
口に含んだ水を吐き出し、ごわごわとした服の袖でごしごしと顔と前髪を拭う。

 

「あぅーあぅー」

 

こんなの飲めない…

体の中が凍る…

 

だけど、喉の渇きは我慢できなくて、私は冷たいのを我慢して池の水を含み、口の中で暖めてから飲み込んだ。

 

「ひゃぅー…」

 

やってみてから、口の中と舌が凍り付きそうになる程の冷たさに、やっぱり止めておけば良かったと後悔する。

 

冷たい…

温かい物ほしい…

 

 

……

……

「こらっ!布団の中に入ってくるな!」

 

また、あの声…

今度は、何かが『見える』。

 

「『ふほうしんにゅう』だぞ」

 

知らない影…

でも、知ってる気がする影…

 

「…寒いのか?」

 

でも何故か…

あたたかいカゲ

……

……

 

 

「ぁ?」

 

また、突然頭の中に浮んだ『声』と『姿』に、暫しぼうっとしていた私を、今度は懐かしい匂いが呼び覚ました。

 

これ…知っている…匂い…

あたし…この匂いを知ってる?!

 

実際は、知っている気がするだけで、何の匂いなのか分からない。だけど、自分が誰かさえ思い出せない、記憶なんて無いはずの頭に、その匂いだけが強く引っかかった。
私は迷わずその匂いのする方へ駆け出す。
今の私にとっては、それだけが『あたし』を知る為の道標だった。

 

 

すんすん…

 

鼻水で少し通りの悪い鼻を鳴らして、匂いを辿って行く。
どうやら、雪の積もった木の長椅子がいっぱい並んでいる所からする様だ。
私は、ずり落ちそうになっている毛布を肩に引き上げると、重なった部分を内側から強く掴んで寒さを凌ぎつつ、また匂いを辿る。

 

すんすん…

ずるずる…

 

そして…
匂いは、木の長椅子に座って髪の長い人と話している一人の男に行き着いた。
その人を見た瞬間、よく分からない感情が込み上げて来る。

 

ぱさ…

 

うれしくて…

かなしくて…

あたまにきて…

こわくて…

いとしい。

 

想いが全身を駆け巡り、張り裂けそうになる程、胸をいっぱいにする。

 

「あっ…あぅっ」

 

言葉が出ない…。

あの人が誰なのか分からない。

何を言えば良いのか分からない。

 

「あっあっ…」

 

でも、あの人に会えば何かが判るような気がする。

いや…私は、あの人に会わないといけない!

 

そう思った瞬間、私は走り出していた。
だけど…

 

ぐっ!…べちゃ!

 

何時の間にかずり落ちていた毛布に足を取られ、私はその場に転んでしまった。
顔が雪まみれになり、口の中に入った雪がまだ麻痺の治まらない舌の上で融ける。

 

「ぅ〜…あ?」

 

ごしごしと両手で顔を拭うと、自分の両目が濡れている事に初めて気付いた。
何故か次々と溢れてくる涙に驚いたけれど、今は泣く事よりあの人に会う事が先。
私は、涙で濡れた掌をグッと握り、手の甲で両目を擦って立ち上がった。

 

……

 

だけど、そこには既にあの人の姿は無く、誰もいない木の長椅子に、筒が一本置かれていた。
刹那、私の全身から力が抜け、その場に崩れ落ちる。

 

「あぅー…あぅー…」

 

そして、堅い道路を被う雪に、頬から落ちた涙がぽつぽつと穴を開けた。

 

せっかく見付けた道標なのに…

何か分るかもしれなかったのに…

 

「あうー!」

 

自分の失態に苛立った私は、木の長椅子に駆け寄り、そこに残された金属の筒を思いっきり地面に叩き付けようと鷲掴む。

 

ちゃぽ!

 

だけど、まだ筒には温かい中身が残されていた。
私は今まで筒を叩き付けようとしていた事も忘れ、それを頬に当てて残された温もりを感じ、渇いた喉に中身を流し込む。

 

ごくごく…

…?!

きょろきょろ

 

すると、またあの匂いが微かに漂ってきた。
慌てて首を左右に振って、あの人を探す。

 

「…あぅ」

 

しかし、見えるのは一層強くなった雪の帳だけで、あの人の姿は何処にも見えなかった。
しかも、匂いさえ消えている。
肩を落して、再び筒を口に運ぶと…

 

きょろきょろ

 

また、あの匂いがした。
慌てて見回すと、匂いが消える。

 

きょろきょろ

………

きょろきょろ

………

きょろきょろきょろ

……………

……

………

 

そんな事を十回は繰り返しただろうか…
ようやく私は、その匂いが持っている筒からしている事に気付いた。

 

すんすんすん…

 

筒の穴に鼻を近付けて匂いを嗅ぐと、中に入っていた苦い飲み物の匂いと共に、あの匂いが確かにする。
あの私に不思議な気持ちを起こさせる匂いが…。

 

これが、私に残された唯一の道標…

 

正確には、唯一の道標(つまりあの人)を見付ける為の道標だ。
私は大事な筒を服の中に仕舞い込むと、毛布を拾い上げて雪をはたき、体をすっぽりと被う様に羽織る。
そして、雪と寒さが入り込まない様に、毛布の重なった部分を内側からギュッと掴み、とりあえず今夜の寒さを凌ぐ為に少しでも温かい寝床を求めて歩き始めた。

 

 

……

……

「じゃあな…」

 

また、あの声と影…

今度は、『匂い』を感じる。

これがこの人の匂い?

 

「もう…山を下りて来るなよ」

 

知らない匂い…

でも、知ってる気がする匂い…

 

「来ても…いないからな」

 

でも何故か…

いとしいニオイ

……

……

 

 

…ぐー

 

食べ物を欲しがって、お腹が情け無い鳴き声を揚げる。
喉の渇きだけは公園の水道等で何とかして来たけれど、さすがに二日間何も食べないでいると空腹で目が回りそうだ。
少し前に『財布』を拾ったのだけれど、私には『お金』の使い方がわからなかったから、食べ物を買う事も出来ない。

 

…ぐー

 

あれから『缶コーヒー』に残されたあの人の匂いを探して、私は町の中をさまよった。
だけど、あの人の匂いが見付からなかったところを見ると、この町に住んでいないのかもしれない。

 

…ぐー

 

立て続けに非難の声を上げるお腹を擦りながら、また青くて大きな入れ物の食べ物を取りに行こうかと考えていると…

 

「…ぅ?」

 

すんすん…

 

…みつけた?

 

正確には『嗅ぎ付けた』なのかもしれない…とにかく冷え冷えとした寒風の中にあの匂いがする様な気がした。

 

すぅぅぅぅぅっ!

 

次の瞬間、私は反射的に爪先立って精一杯背伸びをすると、鼻がツンッと痛くなるほど冷たい空気を我慢して胸いっぱい吸い込み、あの匂いを探し始めた。

 

「…あ!」

 

する!本当にあの匂いが!

 

キンッとした寒気の中から、私の鼻は確かにあの匂いを嗅ぎ分けた。
やっと見付けた微かな希望を消さない様に、私は目を瞑り、鼻に全神経を集中させて歩き出す。

 

すんすん…ずるずる…

 

夕日に照らされ茜色に染まった垣根の上に、茜色の雪が乗った角を曲がる。

 

すんすん…ずるずる…

 

茜色の雪が積もった道路を、自分の鼻に従って真っ直ぐ歩く。

 

すんすん…ずるずる…

 

…いた!

 

濃くなってきた匂いに、私が閉じていた目を開くと、十歩ほど前にあの人が居た。

 

ささっ…

 

だけど、私はすぐに飛び出したい衝動を抑え、今出てきた曲がり角に隠れる。

 

『恐怖』

 

そう…恐かった。
やっと見付けた唯一の道標…
だけど、『唯一』だからこそ、あの人が私の事を何一つ知らなかったとき、もう私には何も残らなくなる。
今更ながらその事に気付いてしまい、私はあの人の前に出る事を躊躇った。
……
だけど、あの人が唯一の道標である事は変わらない。
仕方なく私は、複雑な思いを抱えたまま、あの人の後を付ける事にした。

 

 

…どうする?

 

あの人が入って行った建物の前で考える。

 

…会う?会わない?

 

もう頭がぐちゃぐちゃで判らない。
あの人に会いたい…でも恐い。
想いに胸を、考えに頭を掻き回されて、私は泣き出してしまいたかった。

 

もう…何が何だかわからない。

……

…わからない?

そうだ!

私は何もわからない。

自分が誰なのか…

ここが何処なのか…

あの人が誰なのか…

何も…無くす物なんて無いんだ。

それなら…いっそ…

 

「よし!」

 

迷いに迷った末、私は半ば強引に心を決め、両手を握り締めて気合いを入れた。
そして、建物の出口であの人を待つ。

 

うぃぃぃぃぃ…

 

暫らくすると、建物の扉がひとりでに開き、あの人が出てきた。
私はその前に立ち、毛布の隙間から頭一つ高いあの人の顔を見上げる。

 

「やっと見つけた…」

 

目の前に現われた私を驚いた顔で見るあの人…

 

…に…くい

コイツが憎い!

 

その瞬間、漠然とした強い感情だけが、紙に染み込む絵の具の様に心を憎悪一色に染めてゆき、『コイツだけは許さない』という言葉が頭から足の先までを突き抜けた。
そして私は、先程まであれほど私を悩ませていた迷いを簡単に消し去った激情に、抗う事無く身を任せ、毛布と一緒に空缶を投げ捨ててアイツを睨み付けると…

 

「…あなただけは許さないから」

 

 

それは…

雪降る街の御伽噺

〜華音〜


戻る感想を書く