奇跡と誓い

 

 

「…朝?」

目を開けると、ベットの横にある窓から朝日が射し込んでいた。

外の空気を入れる為に窓を開け放つと、流れ込んできた冷たい風に白く薄いカーテンが揺れる。

顔を巡らせば、いつもと変わらぬ私の部屋があった。

窓の近くに置かれたベッド、枕元の本棚には何度も読み返したお気に入りの本、その上に置かれた写真立て、机、クロゼット…みんな変わらずそこに存在している。

「ふぁぁ…えっと…」

小さくアクビをしながら壁に掛けられた時計を見上げると、05:23を指していた。

枕元の目覚まし時計がなるまでは、まだ七分ほどある。

「……」

どうしてこんなに早起きしたのか理由を忘れてしまい、私は寝ぼけた目で暫らく時計と睨めっこしながら、記憶を手繰り寄せる。

「……」

…どうしてかな?

ラジオ体操?

それとも、朝の英会話教室かな?

……

…どっちも違う気がする。

「……」

ぴぴぴぴぴぴぴ…

「あ…」

ボーッとしている間に七分経ってしまったらしく、目覚まし時計が電子音を鳴らし始めた。

仕方なく、私は目覚まし時計を止めると、取りあえず顔を洗おうと部屋を出る事にする。

 

ガチャ…

「あら?おはよう栞」

ドアを開いて廊下に出ると、丁度向かい側のドアが開いて、私と同じパジャマを着たお姉ちゃんが出て来た。(ちなみに私の方は、お姉ちゃんのお下がり)

そのまま私の前まで来ると、子猫を相手にする様に私の頭を撫でる。

「お姉ちゃん、子供扱いは止めてよ」

「ふふっ…そう言う事は、大人になってから言うセリフよ」

いつもの様に、私を子供扱いするお姉ちゃんの手を払って上目遣いに睨むと、お姉ちゃんはますます楽しそうな顔をして、今度は私の頭をぽむぽむ叩き始めた。

「大人だもん!」

「そういう事を言うところが、子供なのよ」

「もういい!お姉ちゃん、嫌いっ」

私は頬をぷーっと膨らませながら横を向くと、そのままお姉ちゃんの横を摺り抜けて、一階へと下りていった。

「もう…怒りっぽい子ね。アイスばっかり食べてるから、栄養が足りないのよ」

後ろからため息混じりの声を掛けてくるお姉ちゃんに、私は心の中で反論した。

アイスクリームの材料は、カルシュウムがいっぱいの牛乳だもん…

 

……

…私って、やっぱり子供に見えるのかな?

洗面所で顔を洗うと、私は洗面台の鏡に映る自分をしげしげと見つめた。

ショートカット…

低い背丈…

貧弱な体つき…

世間一般の、『子供っぽい』要素が頭に浮ぶ。

「……」

ぷにっ

「ひゃ!」

「何やってるのよ?後がつかえてるわよ」

本当に子供っぽい自分の外見に少し落ち込んでいると、突然頬を押された。

驚いて顔を上げると、後ろから私に抱き付いて、笑顔で頬を突付くお姉ちゃんが鏡の中にいる。

「お姉ちゃん!びっくりさせないでよ!」

お姉ちゃんの指を押し返そうと、また私がぷーっと頬を膨らますと、お姉ちゃんも負けじと指をぐりぐり押し付けてくる。

その結果、指で押された部分だけが、えくぼみたいにへこんだ。

「はいはい…それより、今日はお弁当作らないの?」

「あ…」

そう…

今日もあの人にお弁当を作る為に早起きしたはずだった。

「TVドラマやマンガの見過ぎよ」

なんて、お姉ちゃんは言うけど、好きな人の為に早起きしてお弁当を作るのは、何だかとても楽しくて、幸せな気分になれる。

「もう!お姉ちゃんの所為だからね!」

私はそう言い残すと、顔を拭いたタオルを持ったまま、洗面所を飛び出した。

 

「えっと、あとは卵焼きかな?」

かちゃかちゃ…じゅー…

「♪〜」

パジャマの上から、ペンギン模様のエプロンを着けると、私は朝食の準備が終わった台所に立って、お弁当を作り始めた。

そして、そんな私の姿を、制服に着替えたお姉ちゃんが食卓のテーブルに頬杖を突きながら見守っている。

「楽しそうねぇ…」

「うん。だって、一生懸命作ったものを「美味しい」って食べてくれるのって、嬉しいんだよ」

「はぁ〜…すっかり恋する乙女ね」

卵焼きをくるくる巻きながら私が返事をすると、お姉ちゃんがため息混じりの声で茶化してきた。

その言葉に頬が熱くなるのを感じながら、私は慌てて振向こうとして…

「おっお姉ちゃ…ヒャチッ!」

うっかり熱くなったフライパンを素手で触ってしまった。

人差し指と中指がジンジンと痛み出す。

タタッ!…ジャーッ!

だけど次の瞬間、お姉ちゃんは私に走り寄り、強引に火傷した手を取って、素早く冷たい流水の中にさらした。

そして、コツンと私の頭を叩く。

「火を使ってる時に、よそ見をしちゃ駄目でしょ!」

「お姉ちゃんが、からかう……ごめんなさい」

元はと言うと、お姉ちゃんが私をからかったのが悪いのだと反論しようとした私は、お姉ちゃんの顔を見た瞬間、反射的に謝っていた。

今、私を見ているお姉ちゃんの目は、私を叱ってくれる時の『姉の目』だったから…

そして何より、火傷をした私の左手を掴んでいるお姉ちゃんの手が、とても優しくて…

お姉ちゃんがすぐに飛んできてくれた事が、私の事を心配してくれている証拠だから…

「…幸い、ちょっと赤くなっただけね」

「ありがとう、お姉ちゃん」

「良いわよ別に…さぁ、早く作っちゃいなさい。遅刻するわよ」

「うん」

お姉ちゃんに一通り手当てをして貰った私は、お弁当作りを再開した。

もうすぐ出ないといけない時間だけど、中途半端で終わるのは嫌だったから…

 

「「いってきまーす」」

お姉ちゃんと一緒に玄関を出て学校へ行く。

時間がちょっと足りなかったけど、私達はゆっくり歩いて行く事にした。

お姉ちゃんも私の歩調に合わせてくれる。

「お姉ちゃん、遅刻するから先にいって良いのに…」

「出来れば、そうしたいんだけど、可愛い妹が迷子にならずに学校まで行けるか見届けなくちゃ行けないのよ」

「もう、やっぱりお姉ちゃん、嫌い」

相変わらず私をからかうお姉ちゃんの横で膨れながら、雪もすっかり無くなった、春の香りのする通学路を歩く。

暫らくすると、いつもあの人と逢う十字路に差掛かった。

今日は居ないだろうな…

こんな時間に居るんじゃ遅刻するから…

今朝はあの人に逢えない事を残念に思い、アスファルトの地面を見ながら歩いていると…

「栞」

お姉ちゃんが肘で突つきながら、私を呼んだ。

慌てて視線を上げると…

「…くー」

「起きろ!」

ぽかっ!

「あっ!寝てたよ」

「器用なヤツ…良くコケないな」

「慣れてるからね。あっ香里、おはよう」

丁度あの人が、眠りながら走る従妹の名雪さんと登校して来るところだった。

私の鼓動がトクトクと少しだけ早くなる。

「おはよう。相変わらず心臓に悪い登校の仕方ね」

「言っておくが、好きでやってるんじゃないぞ」

「おはようございます」

ぺこり

遅刻しそうな時間だというのに、いつも通りの笑顔で挨拶をするお姉ちゃんに続いて、私も頭を下げる。

「栞ちゃんもおはよう」

「おはよう、栞。元気か?」

お辞儀をする私の頭に、あの人が、ぽむっと手を置く。

その瞬間、私の心臓かドキンッ大きく脈打った。

「はっはい。とっても元気です」

慌てながら照れる私…

顔がカァっと熱くなるのが分かる。

「朝っぱらから何やってるんだか…」

「走るよー」

二人だけで立ち止まっている私達に、かなり前の方を歩いているお姉ちゃん達が、ぱたぱた手を振りながら声をかけてきた。

「ぐは!待ってくれぇ!」

私達を置いて先に行こうとするお姉ちゃん達に、あの人はそう答えると、私に背中を向けて、ドタドタと駆け出す。

「待ってくださいぃ…ハァ…速すぎますよぉ」

「嫌だ。これ以上遅いと遅刻する」

置いていかれない様に、私も鞄に振り回されそうになりながら一生懸命走ったけれど、ぐんぐんと引き離されてしまう。

私のペースに合わせてくれないあの人を、少しだけ恨めしくも思った。

「そっ…そういうこと言う人…ハァ…嫌いですぅ!」

「…ったく、しょうがないな」

三人からかなり遅れてパタパタと走る私を見かねたのか、あの人はそう呟くと、一旦こちらまで戻って来て、私の手を取った。

「手を貸せ!」

「もう握ってま…きゃぁぁぁ!」

ダダダダダ…

あの人のスピードに、足が追いつかない。

殆ど引きずられるように、私はあの人の後を走っている。

「栞!しっかり走れ!」

「これでも、一生懸命ですぅ!」

「運動不足だ!」

「そういうこと言う人、やっぱり嫌いで…きゃっ!」

私は、手を引っ張るあの人の背中に置いていかれない様、一生懸命に走ったけれど、途中で足が縺(もつ)れてしまった。

倒れる私の視界いっぱいに黒いアスファルトが広がって行く。

黒く…

暗い世界が…

 

 

「……」

夢から覚めると、見慣れた天井があった。

「…夢?」

暗い部屋の中、いつもの様に私はベッドに寝ていた。

「そうだよね…幸せなんて、夢でしかないもの…」

首を動かして、時計の文字盤を見ると、蛍光塗料で書かれた針の先が、03:07を指していた。

「…あと、どれくらいかな?」

首を戻して再び天井を見上げ、全てとの別れまでの時間を考える。

「楽しい夢だったな…優しいお姉ちゃんがいて…大好きなあの人がいて…あのままずっと見続けていられたら良かったのに…」

目を閉じて耳を澄ますと、真っ暗で何も音のしない世界が、訪れる。

「静か…雪、降っているのかな?」

私は雪を見る為に窓辺に行こうと、ベッドを降り、冷たいフローリングの床に立とうとした。

「…あれ?」

ぺたん…

だけど、足に殆ど力が入らず、その場に座り込んでしまう。

「…もう、長くないのかな…」

「んっ?…栞?」

「え?」

不意に後ろから聞こえてきた声の方へ振り向くと、そこには制服の上から茶色い厚手の毛布を羽織ったお姉ちゃんが居た。

「……」

「…何となく、そばに居たかったから…」

久しぶりにお姉ちゃんと向き合って緊張する私に、お姉ちゃんが少し俯き加減になって呟く。

「…お姉ちゃん…って呼んで良いのかな?」

「当たり前でしょ!」

私がおずおずと訊くと、お姉ちゃんに大声で怒鳴られた。

その声に、私はビクッと身を縮こませて謝る。

「ごっ!ごめんなさい…」

「ああ…ゴメン、栞。謝るのは私の方…本当に、ごめんね…」

「…ううん、良いの。…お姉ちゃん」

かみ締めるようにお姉ちゃんの事を呼ぶと、私の目から何故だか涙が一筋零れ落ちた。

これは、嬉しいから?

それとも、悲しいから?

ただ分かるのは、お姉ちゃんが怒ってくれる事でさえ、もう私にとって思い出にしかならないから、という理由だけ…

「…ありがとう」

そう呟くと、お姉ちゃんは、温かく懐かしい匂いのする胸に私を抱き寄せ、両腕と羽織っていた毛布で、優しく私を包み込んでくれた。

窓から差し込む微かな明かりだけが、私達を照らしている。

お姉ちゃんと顔を合わせて話をするのは、本当に久しぶりだった…

嬉しい…

そのまま、お姉ちゃんの温もりと匂いを久しぶりに感じながら、私は口を開いた。

「ねえ、雪、降ってるのかな?」

「ええ、多分…」

「見てみたい…」

「…分かったわ。しっかり掴まってるのよ」

そう言うとお姉ちゃんは、私の背中を支えながら、抱き上げる様にして立ち上がらせてくれた。

そしてその上から、立ち上がった時にずり落ちた毛布を羽織り直す。

「うん…」

私も力の入らない手だけではなく、体全体を使って一生懸命お姉ちゃんにしがみ付いた。。

ガラガラガラ…

ガラス戸を開き、ベランダに出ると、身を切るような外気が私達を包んだ。

薄く雪の積もったコンクリートを踏む足から、痛みさえ伴なう冷たさを感じる。

お姉ちゃんと一緒の毛布に包まれながら、私は雪が降る夜の街を見つめた。

「…真っ白だね」

「ええ…」

「静かだね…」

「ええ…」

「あったかいね」

「……」

しっかりと私を抱き締めるお姉ちゃんの腕に、ギュッと力が篭る。

そして、私の髪に顔を埋めた。

「お姉ちゃん…ありがとう」

「栞?」

弾かれたように顔を上げたお姉ちゃんが、目を見開いて私を見る。

何となく理解できた。

部屋に戻る事は無いって…

だから、ここで言いたい事をみんな言う事にした。

妹の最後のわがまま…

お姉ちゃん、許してくれるよね…

「最後にお姉ちゃんに優しくして貰えて…嬉しかったよ…」

「栞!冗談はやめなさい!」

言葉とは裏腹に、その震えた声から、お姉ちゃんも私がもうすぐ居なくなる事に気付いているのが解かる。

「お姉ちゃん…」

「栞!しっかりしなさい!まだ駄目!」

「私…死にたくないよ…」

「そうよ。まだ生きるのよ!諦めたら許さないんだから!」

お姉ちゃんの涙が私の頬に落ちて、私の目から流れる涙と混じる。

「もっと、いろんな所に行きたかった…」

「どこ!?どこに行きたいの?どこにだって…」

ぼやけてゆくお姉ちゃんの泣き顔を見ながら、私は最後の力を振り絞って言葉を紡ぐ。

それが、お姉ちゃんに大きな痛みを残す事になるのが分かっているのに…

「もっと、美味しいものも食べたかった…」

「何が食べたいの!?何でも好きなだけ…」

すっかり全身の力が入らなくなった私を抱き締めながら、お姉ちゃんが雪の上に膝を付く。

もう私の体は、雪の冷たさを感じる事さえ出来なくなっていた。

「もっと、いろいろな風景を描いてみたかった」

「どこが描きたいの!?どんな風景でも…」

私の頭を胸に強く抱き寄せながら、お姉ちゃんが訊いてくる。

「もっと、お姉ちゃんとお話したかった」

「どんな事話したいの!?いつまでも、夜が明ける迄だって…」

ひたすら私を繋ぎ止めようとしてくれる大好きなお姉ちゃん…

でも、私の体は、もう限界みたいだった。

最後に、一番言いたかった事を言い残そうと口を開く…

「そして…もっと…あの人と…いっしょ…に…」

だけど、現実は残酷で…

「うそ…うそよ…こんな…しおりィィィーー!」

私の体は、それを言う時間をくれなかった。

人形みたいにぐったりとした私の体を、お姉ちゃんが狂ったように揺さ振る。

〔ぐったりとした栞を抱えて、涙を流す香里〕

「栞!動いて!何か言って!」

…体が重くて…

「お願いよ!栞!嫌よ!私、まだ栞に言ってない事、有るんだから!」

…まばたき一つ、出来なくて…

「聞きなさいよ栞!栞はね。私のたった一人の…凄く大切なたった一人の妹よ!」

…お姉ちゃんの声も遠くなって…

「今までごめんね!私が弱かったから、栞に悲しい思いをさせて、本当にごめんね!」

…目の前が暗くなって…

「謝るから!だから返事をして!もう一度、笑って!」

…全てが夢だったかの様に…

「しお…」

消えた。

 

 

雪が降っている

音も無く…

ゆっくりと…

街の全てを包み込むように…

音も…

光も…

そして、心さえも…

 

 

「…」

大好きだった…

大切だった…

でも、今の私には、妹の亡骸(なきがら)を抱えて泣く事しか出来ない。

「栞…」

なんて惨めなんだろう…

何もしてあげられなかった…

今迄妹に辛く当たっていた自分に、苛立ちが募る。

なぜ、もっと優しくしてあげられなかったのだろう。

確実に死へと向かう妹に何もしてあげられない自分の無力さを認められず、辛い現実から逃げたところで、結局は何も変わりはしないのに…

「…栞」

冷たくなってゆく妹の髪を撫でる…

この子の方が強かった。

最後の一瞬まで、現実と向かい合い『生』きていた。

それなのに、私は何をしていたの?

バカよ…本当に…

この子は、もう笑わない…

泣かない…

動かない…

……

もう…『生』きない…

誰の所為でもない…

運命…

そんな言葉で終わらせたくはないけれど、どうしようもなかった…

最初から、こうなる事は分かっていたのに…

「栞…私は、本当に『お姉ちゃん』に戻れたの?」

決して返事をする事の無い妹に訊く。

もちろん、返事は無かった。

「そうよね…私は一度栞を捨てたのだもの…」

「…」

「妹なんかいないって、決めたのだもの…」

「…」

「でも…もう一度、栞の『お姉ちゃん』に戻りたかったわ」

「…」

「栞…私、もう逃げないから…私に大切な妹がいたって事…絶対に忘れないから」

そう言って、冷たい栞の頬に自分のそれを寄せる。

さらさらとした栞の髪を撫でると、積もっていた雪がぱらぱらと落ちた。

「ほら…約束よ」

ぐったりと力の入らない…まるで人形のような栞の小さな小指に、自分の小指を絡ませて指切りをする。

「……」

ぽて…

小指を開放すると、栞の手が指切りをした形のまま、コンクリートのベランダに積もった雪の上に落ちた。

「…やっぱり、いや…」

「…」

「栞…起きてよ!」

「…」

「栞を忘れようとした私をなじって!引っ叩いて!」

「…」

「そして、もう一度私の事呼んでよ…しおり…」

そう言って、栞の小さな胸に顔を埋める。

でも、心臓の音がする事など無く…

ただ冷たいだけの小さな体が悲しかった。

 

 

……

…ぽわ…

「?」

どれほどそうしていただろう…

…ぽわ…ぽわ…

「…何?」

しんしんと栞と私に降り積もる雪に混じって、いつの間にか蛍の様に自ら光を放つ雪が、私達の周りに舞い下りて来ていた。

「…光る…雪?」

不思議に思いながら私が上を見上げると、そこに屋根は無く、ただ暗い空から、無数の光の粒が舞い降りて来る光景が目に入った。

「…きれい」

暫らくその幻想的な光景に目を奪われていると、視界の隅に一際強い光を放ちながらひらひらと舞い下りる何かが映った。

「…はね?」

そう…一枚の羽だった。

風も無く、ただ真っ直ぐに落ちてくる雪の中、その羽だけがひらひらとあちこちに流されながら落ちてくる。

「……」

そして、私達の周りをくるりと一回りすると、光り輝く羽は、栞の胸の上に降りた。

そして、まるで雪が解ける様に栞の中へと染み込んで行く。

私は、そのあまりに非現実的な様子を、ただボーッと眺めている事しか出来なかった。

「え?なんなの!?」

しかし次の瞬間、栞から淡い光が漏れ出した。

そのまま光は強くなり、ついには視界を真っ白にする。

だけど、その光は眩しく無く、とても温かで、優しい光だった。

一体…何が…

そして…

全てが真っ白に染まった。

 

 

チュチュン…

「…朝?」

気が付くとベランダで栞を抱き締めたまま眠っていた。

首を起こすと頭に積もっていた雪が落ちる。

「栞…」

「……」

とりあえず自分の頭に積もっていた雪を払うと、腕の中で微動だにしない栞の顔に積もった雪も、優しく払ってあげた。

…?

しかし、目を閉じて、ぐったりとしている栞に、どこか違和感を覚える。

…柔らかい?

死んだ者がこの雪の中に一晩晒されていれば、完全に硬直してしまうくらいの事は知っている。

でも、雪を払った栞の頬が柔らかかった。

そう…

まるで、生きているかの様に…

「栞!起きなさい!目を開けなさい!」

私は、相変わらずぐったりとしたままの栞の体を抱え直すと、全身に被った雪の冷たさにかじかんだ手で、その頬を容赦無くびしびし引っ叩いた。

今、目の前で起こっている事を疑えば、全てが辛い現実に飲み込まれてしまいそうだから、手加減なんかしていられない。

「栞!帰って来なさい!目を覚ましなさい!」

ピシャ!ピシャ!ピシャ!

「……天使」

真っ白な栞の唇が僅かに動いてそう呟くと、その目がゆっくりと開き始めた。

そして、虚ろな目で前を見ると、言葉を紡ぎ続ける。

「天使を見たの…」

「栞ッ!」

私は栞の体を力一杯抱き締めると、私が叩いた所為で真っ赤になった頬に涙で濡れた自分の頬を摺り寄せた。

「白くて、綺麗な翼を持っているの…」

「栞!栞!」

なおも淡々とした口調で話し続ける栞の声を耳元に聞きながら、栞の背中を懸命に擦(さす)る。

目覚めたとはいえ、栞の体は氷の様に冷え切っていた。

「でもね…とっても悲しい表情(カオ)をしてたの…寂しくて、今にも泣き出しそうな…そんな表情…」

「お父さん!お母さん!早く来て!栞が!栞が!」

私は家の中に喉が張り裂けんばかりに叫んだ。

今一度灯った小さくて弱々しい灯火を、絶対に消したくはなかった。

とても大事で、そして大好きな妹をもう失いたくはなかった。

「だからね。私、約束したよ」

「良かった!ホントに良かった!」

私が腕を緩めて正面から栞の顔を見ると、栞も光の灯った瞳で私の顔を見つめ返して…

そして、数年ぶりに見た心からの笑顔で…

あの人を幸せにするって…

FIN


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