マチビトキタラズ

第三章・共感者(ミオ)

 

 

 

祭り太鼓を打つ雨の滴。

大勢の足跡が残る地面に、雨だけが落ちる。

 

 

 

がしっ!

 

「…何?」

 

廊下を歩いていて突然左腕に重みを感じると、そこにはショートカットに水色をしたチェック柄の大きなリボンをつけた小柄な少女、澪がしがみ付いていた。

いつも元気な澪を見ていると、自分に元気の無い時でも自然に顔がほころんでしまう。

澪の笑顔は、今の私にとって、詩子やみさき先輩と同じくらい心の支えになっている。

 

『あのね』

『こんにちは』

「はい」

 

満面の笑顔を浮べ、嬉しそうにスケッチブックを掲げての挨拶。

私が挨拶を返すと、逢えたのが嬉しいらしく、三つ編みにじゃれついてきた。

ぶら下がるように抱え込んだり、首に巻いたりしている。

文字だけではなく、身振り手振りも加えて、その小さな体全体で自分の意思を表そうをしている。

澪にとっては、スケッチブックと体が声帯、文字とジャスチャーが声…

 

澪も辛さを背負っている…

そして、笑っている。

みさき先輩と同じくらい強い人なのかもしれない。

 

ほへっ?

 

『どうしたの?』

 

じっと自分を見詰めていた私を疑問に思ったのか、澪が不思議そうな顔で訊いて来た。

 

「なんでも無いです…それで?」

 

うんうん

ごそごそごそ…

 

私の言葉に、澪は元気良く頷くと、ポケットの中から何かを取り出そうとして…

 

ガシャンッ!

 

持っていたスケッチブックと、筆箱を落とした。さらに筆箱の蓋が開いて、中からシャープペンや消しゴムが転がり出す。

 

あっ…あっ…

 

オロオロしながら澪は慌てて拾おうとするが、今度はポケットから手が抜けないで困っている。

 

う〜ん…う〜ん…

 

「…無理すると破れますよ」

 

そう言うと、私は床に落ちたものを拾ってあげた。

その間に澪は、ポケットから何かのチケットを二枚取り出すと、私から受け取ったスケッチブックをめくる。

 

『あのね』

『部活の公演のチケットなの』

「ありがとう」

 

澪が嬉しそうにチケットを渡そうとすると…

 

きーん…こーん……

 

ほぼ同時にチャイムが鳴った。

教室移動の途中だったらしく、澪は深々とお辞儀をすると転びそうな勢いで階段を降りて行った。

けれど、降りながら書いたのか、踊り場の辺りでスケッチブックを私の方へ向ける。

目を凝らして見ると、かろうじて

 

『みにきて』

 

と言う文字が見えた。

 

「…はい」

 

ぶんぶん

 

元気良くスケッチブックを振りながら見えなくなってゆく澪に、私はそう答えた。

 

 

 

公演当日、私は詩子を誘って会場に行った。

詩子の提案で楽屋に行くと、開演前の慌ただしさの中で、澪だけが目を閉じて椅子に座っている。

 

「澪ちゃん寝てるのかな?」

「…演技のイメージを浮かべているんじゃないですか?」

「あっ!なるほど。何て言っても今日の主役だもんね」

 

話をしながら澪の方へ近づくと、声が聞こえたらしく澪が目を開けた。

私達の姿を認めると、嬉しそうに駆け寄ろうとして…

 

かけっ!…べちゃっ!

 

床のコードに足を引掻けて転んだ。

幸いセットはしっかり固定してあったらしく、物が倒れたりはしていない。

 

「だっ大丈夫?」

「…痛そう」

『いたいの』

 

駆け寄る詩子と私を見上げて、澪が涙を滲ませ鼻を押さえながら口をぱくぱくさせる。

その後、体を起こして、パンパンと服の埃を払うと、大事そうにスケッチブックを二冊抱えた。

そのうちの一冊は、表紙が剥げ掛け、何度もセロテープで修復した跡が見られる。

 

「澪、それは?」

 

 

澪は一瞬、何の事か分からないといった顔をしたが、しばらくすると『これの事?』と古い方のスケッチブックを指差して、ちょこんと首を傾げた。

 

「はい」

「随分古いね。澪ちゃんって物持ち良いんだ」

 

頷いた私の横で、そう言って詩子が澪の手からスケッチブックを手に取ろうとすると…

 

ぎゅっ!

ぶんぶん

 

反射的に澪がスケッチブックを抱えて、激しく首を振った。

諦めの悪い詩子が見せてもらおうと宥め透かしても、澪は放そうとしない。

 

「澪ちゃんのケチ。見せてくれたって良いじゃない」

 

えっと…えっと…

ぺこぺこ…

 

機嫌を損ねて膨れる詩子に、澪がひたすら頭を下げて謝る。

 

「…澪が可哀相です」

「しょうがないなあ…じゃあ、どうして見せてくれないか教えてよ」

 

詩子がまだ納得いかなそうな顔でそう言うと、澪は新しい方のスケッチブックにサインペンを走らせた。

 

 

 

「ふ〜ん…それで澪ちゃんはスケッチブックを使うようになったんだ…」

 

うんっ!

『そうなの』

 

「結局、持ち主は分からなかったんですか?」

 

う……ん…

 

私の質問に澪は俯き加減で頷いた。

触れられたくなかったのかもしれない。

 

……

いくら待っても来ない大事な人…

…アイツもそう…

 

「あっ!ねえねえ!終わったら打ち上げ行かない?」

 

沈んだ空気を感じたのか、突然詩子が明るくそう言った。

詩子のこういう所が、私は好きだし、羨ましくも思う。

でも、澪は…

 

『だいじな用事があるの』

 

そう書かれたスケッチブックを申し訳無さそうに掲げると、舞台の方へ歩いていった。

そろそろ舞台が始まるらしい。

 

 

 

「良い劇だったね。澪ちゃんが凄く上手に演技するのには驚いたなあ…」

「はい。良かったです」

 

帰り道、劇の話をしながら商店街を歩く。

今日、澪達がやった劇の題は『この思いをアナタに…』。

澪の過去…スケッチブックを使うようになった出来事を元にした現代劇だった。

台本は卒業した前部長が書いたもので、主役はもちろん澪。

舞台上の澪は、いつも以上に何かを伝えたいという雰囲気に溢れていて、とても輝いていた。

もしかすると、観客の中に待っている人が居るのを期待していたのかもしれない。

 

「澪、輝いていました」

「そうだね。仕草だけであんなに自分の気持ちを表現出来るんだし、澪ちゃんが喋れるようになったら賑やかだろうね」

「そうですね」

 

相変わらず明るくて前向きな詩子に、私は少しだけ微笑みを浮べた。

 

 

 

……

……澪?

 

詩子と別れてから帰途に就くと、途中の公園でブランコに揺られている澪を見付けた。

いつも元気な澪とは違い、寂しそうに俯いている。

 

きぃー……きぃー……きぃー………

 

公園の中にブランコの揺れる音だけが寂しく流れている。

そっとしておいてあげようと思ったけれど、いつの間にか私は、澪の方へと歩いていた。

 

きぃー……きぃー………

 

「……澪」

 

きッ!

!?

 

私が澪に呼び掛けると、澪は慌ててブランコを止めて顔を上げた。

しかし、自分の前に立っているのが私だと知ると、寂しそうな笑みを浮べてまた俯く。

澪が初めて見せた表情に戸惑いながら、私も隣のブランコに腰掛けた。

 

きぃきぃー……

きぃきぃー………

 

私と澪以外誰も居ない公園に、ブランコが揺れる音だけが流れる。

いつも元気な澪が静かなので、私も何を話して良いのか分からない。

ただ、隣に座って澪の顔を見ている事しか出来なかった。

 

……

どうしよう…

私…何を話したら良いんだろう?

 

何と声を掛けるべきか私が迷っていると、不意に澪がブランコを止めてスケッチブックを私に見せた。

 

『ここなの』

『だいじな人のばしょ』

『つたえたいことがあるの』

 

今日の観客に、澪の大事な人、『声』を…スケッチブックを貸した人が居るのなら、ここに来るはず。

そう信じて、澪は待っているらしい。

来るかどうかも…いや、澪の事を覚えているかさえ分からないのに…

 

「……私も…」

 

 

無意識に出た言葉に、私自身驚いた。

でも、澪は不思議そうな顔で私を見上げている。

澪に話すべきかどうか迷ったが、何かを期待するような澪の視線に耐え切れず、私はアイツの事を話し始めた。

 

「私も、待っている人がいるの」

 

うん…

 

前を向いて、何も無い虚空にアイツの姿を思い浮かべながら話す。

澪は私の方をじっと見て聞いていた。

 

「でも、帰って来るか分からない…」

 

「……」

 

「私の事を覚えているかさえ…」

 

「……」

『それでも待ってるの?』

 

澪が、すがるような目で訊いて来る。

自分のやっている事が無駄じゃないのか、知りたいのだと思う。

でも…

でも、それは私にも分からない。

待っていて、アイツが帰ってくるのが…

無駄な事なのか…

だから、私は正直に答える事にした。

 

「分かりません。でも、待ちたいんです……私に出来るのはそれだけだから…」

 

うんっ!

 

私の答えに、澪は元気よく頷いた。

もしかしたら、澪も同じ事を考えていたのかもしれない。

 

 

 

きぃきぃー…

きぃきぃー……

 

それから私達は何も話さずに、ブランコに揺られていた。

だんだん日が暮れてゆき、一番星が輝き始める。

私は空を見上げると、またアイツの姿を思い浮かべた。

 

そっちの世界はどうですか?

幸せですか?

……

もし、幸せでないなら…

私の事を覚えているのなら…

……

…帰って来てください。

約束を…守ってください。

……

私は今も待っています。

あの日のままで…

あなたとの約束に縛られたまま……

 

 

 

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