序詩

妹よ

『汚れ』を知らぬ妹よ

嗚呼 妹よ

この不甲斐ない兄を

その愛すべき声で嘲っておくれ

お前に背を向けた兄を

その可憐な唇で詰っておくれ

兄はそのすべてにこの罪深い身を晒し

ただ罰を受け続けよう

実妹(いもうと)…

少女(いもうと)…

恋人(いもうと)よ。

著・御髪 香瑠

「──―──―」

 どこか懐かしさを感じさせる教室の雑踏。
 階段や廊下を駆け抜ける生徒達の軽やかな足音。
 重なって流れる各々の自己主張の中、声を掛けてくるヤツらを避けつつ、そいつの席まで行く。
 何人もの主人に仕え、傷付けられてきたであろう机達のひとつに辿り着くと、軽く深呼吸。
 目の前で、自分に落ちる影に気付いたその女生徒が顔を上げた。

 そして…

「み…」

 見開かれた両眼──

「…え…と」

 言葉を紡ぎ出そうとする唇──
 ──驚愕の表情。

「…さお」

 アイツが死んだ。
 帰ってきた俺を待っていたのは…

「……『お兄ちゃん』」

 実妹(みさお)だった。

想いの仮面

これは罰。

本当の素顔を見せられないから…

今日も仮面を付ける。

 

 朝

 

 …じりり…

 

……

暗い─

……

暗いけど──温かい

……

温かいけど──―寂しい

 

 一人で迎える朝と言うのはそういうものだ。
 愛しい人がいればなおのこと…

 

 じりりりりり…

 

──―辛い。

心が──

体が──

全てが──

それを求める。

 

 腕の中に誰もいない。
 吸いこむ朝の空気に、誰かの影を見つけることもない。

 

 じりりりりり

 

…はやく──―

今すぐ、あいた──―い。

 

―─―──―ッ!

 

 カーテンの隙間からチラチラと陽の光が射し込む室内へと、水を渇望する砂漠の遭難者の様に、眠くて狙いの定まらない手を伸ばす。

おまえ、うるさい…

 床の上でキチンと職務をこなす目覚し時計の頭まで手が届くと、ぺしっと叩いてそれを止めた。

まだ、ねたい。

 そしてまたベットの中へと潜り込んで寝る。
 …いわゆる二度寝。
 たぶん、朝遅刻する原因ナンバー1の行為だ。
 目覚し時計にしてみれば、理不尽な話。
 だが、そうすることにも一応意味はある。
 一旦起きて二度寝するからこそ迎えられる朝というものも在るのだ。

……

……

 …ぱたぱた

 ぱたぱたぱた

 ばたんっ!

ほら来た。

 心地の良いまどろみの中で安心感を感じながら、夢と現の狭間でほくそえむ。

「ほらぁ!起きなさいよーっ!」

 いつもと同じ台詞と共に、いつもと同じ手が、いつもと同じ強さで布団の上から俺を揺さぶる。
 だが、俺にとってこの時間が一番楽しくて一番心地が良いのだから、我ながら困ったものだ。

「…ぐー」

「起きないと遅刻だよ!」

…それにしても、相変わらずボギャブラティーが少ないヤツだ。
たまには革命的な起こし方とか出来ないのだろうか?
牛乳の洪水だとか、一日が百時間になったとか…
…いいなそれ。
百時間もあれば飽きるほど寝てられる。

「もう…いい加減に起きてよぉ」

 なおも寝たふりを続けながらそんな事を考えていると、いつの間にか俺を起こす声にだんだん怒りが含まれているのに気付いた。

…そろそろ起きた方が良いか。

 そう腹を決めると、俺はタイミングを計りながら布団の中で狙いを定める。
 そしてカンを頼りに、布団の中からそいつの細い手首へと右手を伸ばした。

がしっ!

「わっ!」

 今まで俺を揺さぶっていた手をいきなり掴まれ、そいつが驚きの声上げる。

ぐいっ!

 毎度のことにも関わらず今回もキチンと驚いてくれた事に満足しながら、そのまま自分の方へと力任せに引き込む。

「わわっ」

 バランスを崩し倒れこんで来る躰を受け止めると、そいつの重みと温かさが、その存在の確かさを俺に伝えてきた。

スッ…

 さらさらとした髪の甘い香りに鼻を擽られながら、右手で目の前の鬢を掻き揚げて雪白の首筋を露にする。

かぷっ…

「ひんっ」

 そしてその柔らかな肌に歯を立てて愛情の印(しるし)を付けてやると、腕の中の存在がビクンっと体を強張らせ、唇から甘い声をもらした。

…可愛いヤツ。

「こ…ふ…」

 耳元にかかる温かな吐息を感じながら、さらに制服の襟元から覗く鎖骨に唇を押し付け、それに添って舌を這わせようとする。
 と…

ぐにっ

「だーめっ!甘えてないで起きるのっ!」

 左耳を引っ張られ、そこに思いっきり大声を叩きこまれた。

「…ケチ」

 キンキンする左耳を押さえながら、最後にもう一度『みさお』の躰を強く抱きしめ、微かに朱の入った耳元にそう囁くと、俺は今日も『』と共に二人の香りが残るベットを離れる。

「行こ。『おにいちゃん』」

「おうっ」

 

狂おしいまでに愛しくて…

胸が張り裂けるほど切なくても…

泣く事は許されない。

ただ…

涙で濡れた素顔に、笑顔の仮面を押しつける。

 

 通学路

 

朝と言う時間は家族が集まる時間だ…と思う。
食卓に家族が集い…
挨拶を交わして…
一日の勤めを始める気力を与え、そして貰う。
もちろん、そんなにカタチこだわる必要は無いし、実際、様々な事情により不可能だとも言える。
それは一つの手段に過ぎないからだ。
だから、本当は食卓に集まる必要もないし、言葉を掛け合う必要もない。
大切なのは、もっと深くて…基本的で…
『正直』なところ。
ただ…
互いを想い合っていることが伝わっていれば、それで良いのだと思う。
父親と母親
両親がいない状態
しかも基本的に放任主義な叔母の世話になっている俺達にとっては、それぞれでその役割と埋め合うしかなかった。
つまり…
兄は妹に母を見…
妹は兄に父を見る。
それが様々な偽りに固められた気休めであったとしても、互いがそれを必要としているのなら、やはりそれに従って演じるしかない。
そう言うものだと、俺は思う。
まあ、気持ちが楽になる方向に生きてるだけなのかもな…
俺も、『みさお』も…

 

―─―──―ッ!

 

 相変わらずでいつも通りな朝の風景の中、今日もまた性懲りも無く疾走する俺達。

「ぐあ…寝違えた」

 首の左…図らずもさっき『みさお』に痕をつけた場所と同じところの筋肉が痛む。
 時間もヤバイので、とりあえず走りながら首を彼方此方振ったり、とんとん叩いたりしてみるが、一向に良くなる気配はない。

ごんッ!

「ぐあっ!」

ずざざッ!

「ぎょえっ!」

 それどころか、電柱にぶつかったり、ゴミ捨て場に突っ込んだりと危険極まりなかった。

「あぶないよ〜」

 並んで走る『みさお』が心配げな表情で注意してきたが、俺は最後の手段とばかりにぐるりと首を回してみる。
 灰色のアスファルトに転がった空き缶―
 物干し台に揺れる白いシーツ―
 囀りながら蒼空を飛ぶスズメ―
 風に飛ばされそうな電柱の広告―
 車道に描かれた速度制限―
 ものすごい速度で世界が一回転して…

どたっ!

 次の瞬間には、やっぱり俺も一回転していた。

「はあ…またバカなことやってる…」

 コケた俺を置いて先まで行ってしまった『みさお』が、地面に転がった俺のところまで戻ってきて手を差し伸べる。

う〜、カッコ悪ィ…。
しかも、足まで痛めるとは…
俺って不幸…

 人生の不条理さを痛感しながら『実妹』の手を取って立ち上がると、礼代わりにその頭をぽむぽむと軽く撫でてやる。
 そして、首と新たに加わった足の痛みを堪えながら、再び学校目掛けて走り始めた。

「だけど、お前も丈夫になったよなぁ…」

「そ…そうかなぁ?」

 俺の言葉に、隣りを走る『みさお』が首を傾げる。
 その髪の間から、今朝付けたばかりの朱い印がチラリと顔を覗かせた。

…結構、目立つな…

……

チョットやりすぎだったか…

「昔のお前なら、俺に付いてくるなんて絶対に無理だったのに…」

「あはは…それっていつの話だよ〜。私だって少しは丈夫になったんだもん」

 至極当然な俺の疑問に『みさお』が、ほらっと力こぶを作るポーズをとりながら笑顔で答える。

「…そっか。そうだな…」

 

少しずつ…

ゆっくりと…

音をたてて仮面が剥がされる。

理由はひとつ…

自分がその仮面を付けていたくないだけ…

 

登校

 

 それなりに楽しい一日の始まり。
 宿題を忘れてインスタントな親友の世話になったり…
 お山の大将に目を付けられない様に上手く立ち回りながら…
 今日も一日のんべんだらりと過す。
 たまには騒動も起こすけれど、そこは悪友との貸し借り関係で切りぬけて…
 小さくても輝く思い出を、一つずつ創りつづける。
 そんな世界で、俺は今、生きている。

そう、生き続ける。
定められた時の中を…

 

―─―──―ッ!

 

 誰もいない校門に飛びこみ、下駄箱で騒々しく靴を履き替えて、教室への階段を音をたてて駆け登る。
 廊下を走る騒音を聞き付けた教師がホームルーム中の教室から怒って出てくる前にその前を素早く走り去ると、俺達は自分のクラスへと滑り込んだ。

「セーフ。間に合った」

「遅いんだよっ!」

すぱんッ!

 まだ担任の髭が来ていないことを確認しながら教室に入った俺の頭に、絶妙のタイミングで拳骨の衝撃が走る。
 叩かれた場所を押さえながらその方向を睨みつけると、初めて顔を合わせて以来、数々の悪行を共に重ねてきた悪友がそこに仁王立ちしていた。
 しかも表情から察するに、なにやら怒っているらしい。
 とはいえ、此方には覚えきれないほど身に覚えが有り過ぎるので、どれに対する制裁なのか、とりあえずその提示を求める。

「不意打ちとは卑怯な! 決闘は果し状からだろうが!」

「違うっ! 大穴狙ったのに、お前の所為で一万円も損こいただろうが!」

「ンなもん知るかっ!」

「あはは…『おにいちゃん』も住井君も席に着こうよ。そろそろ本当に先生が来るよ」

 横から『みさお』が何やら言っているが、意図的に耳を素通りさせて、住井との熱い攻防戦をさらに続ける。
 というか、ここで引くと後で莫大な貸しを背負わされる事になり、確実に後悔するのが目に見えているのだ。

「よって、オレはお前に損失の半額を請求するぞ」

「ならば、お前はオレに先月の昼飯代を全額返済しろ!」

「ねぇ…ふたりとも…」

「ぬっ!」

「むむっ!」

 いつも通り「困ってます」と言う笑顔を浮かべたまま根気良く俺達に話し掛けている『みさお』の前で、俺と住井が火花を散らして睨み合う。一見すると『みさお』を取り合っている様に見えない事もない。
 だが、そんなロマンチックな事でいがみ合う二人でないのはこのクラスの連中全員が解っているようで、止めに入る者もいなければ、ヤジを飛ばす者もいなかった。
 せいぜい、住井が負けたと言うトトカルチョの第二戦にされるのがオチだろう。

「……はぁ」

「よし。今回はそれでお互いチャラと言う事にしよう」

「……待て。俺の方が損してないか?」

「気の所為だ」

「そうか」

がらがら…

 髭が来るまでの長く短い攻防戦の末、今回は俺が形成不利のまま、押し問答は終了した。

「ぐっ…」

 負けた悔しさに拳を握り締めつつ、先月奢った昼食代を計算しながら着席する。

「…おっ?」

 が、過去の昼食メニューを回想する内に、先月は住井に奢られてばかりだった事を思い出した。
 損どころか、アイツに貸しを作らなかっただけ、得したと言える。

ちら…

 その事に気付いてはいないだろうかと横目で住井の方を窺うと、さらにその向こうの席で、髪の下に隠れた首筋に手を当てて、頬を染めながら此方を見つめる『みさお』と目が合った。
 その可愛らしさに、思わず顔が綻ぶ。

愛いヤツ…。
……
そういや、何でアイツと同じ学年なんだ?
……

あ…留年したからか。
そっか…そうだったよな。

 

罅(ひび)だらけの仮面に触れる。

硬く冷たい感触。

熱く…

切なく…

止め処なく…

素顔の流す涙はその内側に溜まり続けて…

それに圧され、さらに仮面の罅が大きくなる。

 

 

 青い空の下、のんびりと昼飯を食う。
 平和なもんだ。
 こっちの国が食料難だとか、あっちの国は紛争中だとか、そう言う事実を統合したとしても、平和なもんだと思う。

1…

2…

3…

 ほら何も起こらない。
 だから、これからも何も起こらないだろうと思う。
 そうすることで、安心する。
 いや、みんながみんなそう言う顔をして…
 みんながみんなの顔を見る事で、何も起こらないのだと…
 『いま』は永遠不変なのだと安心している。

4…

 戦争が勃発することも無く─

5…

 地震が起きることも無く─

6…

 光速で隕石が飛来する事もない。

だけど…
確実に滅びに向かっているはずなんだ。
そのことを認めたからこそ…

 

―─―──―ッ!

 

 曇り空の昼休み、屋上の給水設備にもたれてエビフライをロールした食パンをかじる。
 軽くトーストされたパンとフライ衣の微妙に違う二段構えのさくさく感の後に、主役であるエビの緻密な歯応えがたまらない。

もぐもぐ…

「…わっ…」

 咀嚼しながら傍らで心配そうに感想を待つ『みさお』の頭を撫でてやると、『実妹』は少し驚いた後、頬を染め含羞んだ笑顔で俺を見上げた。
 とりあえず一つ目を飲み込み、『みさお』の膝の上に広げられたタッパーに手を伸ばして、次のパンを取ろうとする。

じぃー…

 と、『みさお』が俺の顔をじっと見つめていた。

「…なんだよ?」

「ん? いっぱい食べてくれるから嬉しいなぁって」

「そうか。なら次は熱いカレーライスを頼む。出来れば納豆付きな」

「…一応、考えてはみるよ」

じぃー…

 今度はアジフライロールを取って口に運ぶと、また『みさお』が俺の顔を…正確には咀嚼する顎を見つめる。

…なんだよ?

 そう俺が目線だけで『みさお』に問うと、『みさお』は唇に人差し指を当てて少し躊躇した後、意を決した様に口を開いた。

「ねぇ『おにいちゃん』。…噛むのやめない?」

「ばかっ。噛まないと消化に悪いだろうが」

「お弁当じゃなくて…その…首筋…」

 「何を言っとるんだキミは?」という目で『みさお』を見ながら俺が言うと、『みさお』は顔を赤らめながら自分の首筋に触れる。
 やはり、朝のはチョットやり過ぎだったらしい…

「い・や・だ。お前、俺の食事風景見て、そんな事考えてたのか? 呆れたヤツ…」

 とはいえ、それを認めてしまうと明日から面白く無いので、俺はわざと意地の悪い笑みを浮かべながら、ヤレヤレと両掌を空に向けて肩を竦めてみせた。

「うー。でもでも誰かに見付かったら、何て言えば良いんだよ〜」

「まあ、がんばれ」

 そんな俺の態度に、『みさお』がるような目を向けながら焦りと恥じらいの入り混じった声で文句を言うが、これも冷たくあしらっておく、これで明朝の『みさお』の様子がどうなるかがまた楽しみなのだ。

「はふん。それ無責任だよ」

 俺に突き放され、哀しそうに俯く『みさお』。
 その様子に大部分の満足感と僅かな罪悪感を感じながら、俺は話題を変えた。

「そういえばお前、牛乳は?」

「牛乳? 『おにいちゃん』牛乳飲むの?」

「…いや、何でもない。気の所為だ」

 

愛しい人に逢った日

ずっと待っていたのに…

それが突然過ぎて…

怯えと一緒に差し出された手…

それさえも放したくなくて…

とっさに…

目の前にあった呪いの仮面をつけた日。

 

 

 この世には『一瞬の美』と言うものがある。
 朝露に彩られて蕾が綻ぶ瞬間。
 夜空に流れ星が駆け抜ける瞬間。
 蝋燭が燃え尽きる寸前に煌く瞬間。
 清水が水面に落ちて冠を形作る瞬間。
 明けの明星が最後の輝きを見せる瞬間。
 夕焼けが最も鮮やかに地表を照らす瞬間。
 そして────―
 ヒトが己の生きている意味を自覚する瞬間。
 再び訪れることの無い美しさ。
 しかし、それは確かに過ぎ去った時間の中に刻み込まれ、そのとき最高の輝きを放っていた事は、間違い無くて…
 だからこそ『美しい』。

そして今この瞬間も、この星のどこかで、何かが美しく光り輝いている。
だけどそれを見る事が、今の自分に果たして出来るのか…

 

―─―──―ッ!

 

 部活の終わった『みさお』と共に晩飯の買い物を終えると、夕焼け色に染まった商店街を並んで歩く。
 買い物袋を下げた制服姿の男女…
 なんだか周りの視線が痛い様な気がする。

やはり、この光景は不健全なのか?
でも、兄妹だぞ。後ろめたいことなど断じてない。
いやでも、俺もこの光景を目の当たりにすれば、多少の邪推は…
…邪推?
どんな邪推だ?
……夫婦ゴッコをする学生か?
ばかばかしい…

 考えれば考えるほど泥沼に嵌まっていき、要らぬ心労を抱えるだけの様な気がする。

「はぁぁ……」

 それまでの思考を振り払う様に俺は大きく溜息を吐くと、隣りで指を折りながらぶつぶつと晩飯の献立を呟いている『みさお』に話し掛けた。

「そういえば、チェロって重いんだろ? 肩とか凝らないのか?」

「あはは…ヴァイオリンと違って、肩に乗せるわけじゃないんだから…」

 俺の質問に思考を止め、一瞬キョトンとした後、首を竦めて笑いを堪えながら答える『みさお』。

「違うのか?」

「当たり前だよ〜」

「見てみたかったのに…」

 予想を裏切った答えにがっくりと肩を落とす俺。
 その横で『みさお』はまだ笑いを堪えている。

「なら今度、『おにいちゃん』がチェロを肩に乗せてみる? あはは…」

 『みさお』に言われ、空を見上げながら自分が馬鹿でかい弦楽器を肩に乗せる姿を想像してみる。

「…やめておこう」

 が、結局それに押しつぶされる姿しか頭に浮かばなくて、首を横に振りながら、その誘いを辞退した。

「あはは…あれ?」

 その答えにまた笑いながら隣りを歩く『みさお』が、向かう先の壁を見て疑問符付きの声を上げる。

「猫だよ」

 その声に俺も同じ方向を見ると、曲がり角の塀に猫が置物の様に鎮座していた。
 たぶん飼い猫なのだろう。
 透き通るほどの白い毛をしている。
 向こうも此方に気付いたのか、夕闇の中でその両目だけが光っていた。

「残念ながら飼い猫だ。拾って帰れないぞ」

「うん? 『おにいちゃん』あの猫飼いたかったの?」

 隣りから覗きこむ様に俺の顔を見上げながら、不思議そうに訊いてくる『みさお』。
 その表情にからかっている印象は微塵もない。
 本気で言っているのだ。

「お前、猫嫌いだっけ?」

「ねこ? 別に、どっちでもないけど…」

「…そうか」

 

仮面越しに見る想い人。

だけど、この仮面を外しても…

この人は近くにいてくれるのだろうか?

そして…

なおこの人を愛しいと思えるのだろうか?

それが一番怖くて…

剥がれそうになる仮面を押さえる。

 

帰宅

 

 声が聞こえる
 いや、聞こえる様な気がする。

…はっきりしない。
だけど…
何かが聞こえるはずなんだ。

 それは聞こえるんだけど、はっきりしないもので…
 自分の妄想?
 風の音?
 空耳?
 違う。と思う。

……ほら

 また聞こえた。様な気がする。
 だけど、誰の声なのかがわからない。
 だから、声を出せない。
 返事が出来ない。

誰が――

誰に――

何を――

それを知りたくて…

耳を澄ます。

 

―─―──―ッ!

 

 家に帰り台所に買った物を放り出すと、俺は自室に戻ってラフな格好に着替えた。
 そして、洗面所で嗽(うがい)と手洗いを済ますと、リビングのソファーに寝転がる。

 ちなみに嗽と手洗いは、『みさお』に「受験生なんだから健康には注意しないと!」と口喧しく言われて最近始めた習慣だ。病弱な『みさお』に健康云々で忠告されるのも癪だが、それをしなかった所為で風邪でも引いたら情けないことこの上ないので、仕方なくしている。

「……」

 布張りのソファーに体を預けたまま、ぼうっと天井を見上げる。

幸せ?
ああ、幸せ。だと思う。
何故?
『みさお』がいるから。だと思う。
本当に?
本当。だと思う。

 天井のシミを数えながら、自問自答を繰り返す。

──―?
──。と思う。
──―?
──。と思う。
──―?
──。と思う。

 漠然とした問いに曖昧な答の繰り返し。
 何も生み出さない非生産的な行為。
 だけど本当の答えを知る事が出来ないから、今はそれを繰り返すしかない。

……
…何やってるんだろうな。俺

 常に俺の傍に居てくれて、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる『みさお』。
 護るべき存在。
 決して哀しませないと誓った存在。
 俺のやっている事は正しい。と思う。
 いや…
 そう思わないと…
 今の行動に自信を持っていないと、不安に潰されてしまう。

不安だから、俺は今の自分でいるのか?

 …違う。とは言い切れない。
 そうだ。とは認めたくない。
 結局、自尊心の問題なのだろうか?
 そうすると俺は、自分の自尊心の為に『みさお』を巻き込んだことになる。
 これでよく『護る』なんて言えたもんだ。

「…ちくしょう」

 自分の傲慢さに腹が立つ。
 余りにも情けなくて涙が出てきた。

なあ、みさお。
やっぱり、俺は間違っていたのか?
…。
間違っていた。かもしれない。
でも、あの時はああ言うしか無いと思ったんだ。
だけど…
本当に『みさお』がみさおだとしたら?
いや…
本当は俺にみさおなんて実妹は居なくて…
全て偽りだったとしたら?
……
だめだ。
それだと、『みさお』がみさおでいる理由がない。
……
なあ、『みさお』。
お前は一体、誰なんだ?
……
『誰?』だって?
バカか俺は?
…いや、大バカか。
だいたい、『みさお』が誰かなんて、ずっと前から解ってるじゃないか。
それなら何故、その名で呼んでやらない?
……
やっぱり、怖いからか。
『みさお』がみさおと重なりすぎるから…
ふたりとも俺に近すぎるから…
俺の周りに存在する真実と虚偽が、一気に逆転してしまうのが怖い。
自分が…愛しい人が無くなってしまいそうで、とても怖いんだ。
……
ゴメンな。ふたりのみさお…
臆病な兄を…
もう少しの間だけ許しておくれ。

 ………

 ……

「……」

 目覚めると身体の上に毛布が掛けてあった。
 由起子さんとは考え辛いから、やはり『みさお』だろう。
 とりあえず身体を起こして首を巡らせ、ビデオの時刻表示を見ると、帰ってきてからそれほど時間は経っていなかった。
寝ていた時間は十五分ほどだろう。
 そのままのそのそと立ち上がり、毛布を適当に畳んでソファーの上に投げ出すと、何か飲み物を貰おうと『みさお』のいる台所へと向かった。
 距離にして数歩。
 だが、台所に近付くにつれ、炒め物の音と共に脂の焼ける香ばしい匂いが鼻を擽る。

「『おにいちゃん』。あんなところで寝たら風邪引くよ。今日は温まるもの作るね。」

 空腹感に腹を摩りながら台所に踏み込むと、制服の上にエプロンを付けた『みさお』が此方に背中を向けたまま、マーボ茄子を炒めていた。
 ちなみにまな板の上にはみじん切りにされた生姜が乗っている。
 たぶん、コンロにかかっている中華風スープの仕上げに入れるのだろう。

「…何か」

「お皿。大きいのと、スープの器も」

 「―手伝おうか」と続けるまでもなく、単純化された返事が返って来た。まあこの辺りは長年付き合ってきた呼吸と言うものだろう。
 返事もせずに注文された物の他に箸やらレンゲやらもごそごそ出して、食卓の上へと並べる。

「保温プレート」

 全て並べ終わったと思ったら、絶妙のタイミングで次の指示が飛んできた。
 言われた通りに食器棚の横から電気式の保温プレートを取り出すと、予めスープ鍋用に空けておいた食卓の真中に設置して、コンセントを繋ぐ。

「どいて!どいて!」

 それが終わるとこれまた絶妙のタイミングで『みさお』がスープに満たされた鍋を運んで来た。
 そして、どんっと鍋を保温プレートの上に置くとまた台所へと帰って行く。忙しい奴だ。

「あ、『おにいちゃん』。もう席に着いてて良いよ」

 せせこましい『実妹』の背中を追って台所に行くと、冷蔵庫から出した野沢菜を切りながら『みさお』がそう言ってきた。
 だが、俺はその後ろまで歩いてゆくと、いきなり後ろからその躰を胸に抱く。

「…」

「ひゃぅ!」

 突然抱きすくめられて、驚きの声を上げる『みさお』。
 さすがに耳たぶを噛んだりすれば包丁を落としかねないので、その小さな肩に鼻を押し付けて息を吸いこむと、甘酸っぱい女の子の匂いが胸に満ち、狂おしいほどの愛しさと切なさで頭が真っ白になった。

……
…いかん
愛(いと)し過ぎる。

 行き場の無い衝動を逃がそうと、彼女を抱く腕により一層の力を込める。

「……」

「『おにいちゃん』」

 暫くの間、互いの温もりを確かめ合う様にそうしていると、腕の中で身を硬くしていた『みさお』が、包丁を置いて自分を締め付ける腕にそっと手を添えた。
 そして、ゆっくりと自分に言い聞かせる様に言葉を紡ぐ。

「大丈夫。どこにも行かないから…」

 思いやりに溢れた優しい言葉。
 だが『みさお』は、すぐに首を振ってそれを否定すると、また新しく言葉を紡ぎなおした。

「…ううん。もうどこにも戻れないから…私は」

「ずっと…そばにいるから…」

「大丈夫。大丈夫だよ」

 言葉を重ねる度に、俺の腕を掴む白い手に力が篭る。
 それに応えて、俺も『みさお』の躰を抱き締め続ける。
 そうやって痛みを与え合う事で、互いの存在を確認し合った。

「好きだ…」

「…うん」

どんなに力一杯抱いても…
たぶん、自分の骨を折られても…
お前は腕の中で笑ってくれるんだ…な。
可愛い女性(ひと)。

―─―──―ッ!

俺のもの…

―─―──てッ!

もう手放さない。

──―─いてッ!

俺の傍らで笑っていてくれ…

―─気付いてッ!

──みずか

私に―─―──―

 

 

  • 人間(ヒト)は仮面を被らずに生きられない。

    互いを想い合うがゆえ…

    人間は虚構を演じ続ける。

    『じぶん』という仮面

    金銭──

    安心──

    地位──

    信頼──

    愛情──

    その他、自分が自分である全てを賭してまで…

    その仮面を外す勇気が…

    今の貴方にありますか?

  •  

     

     

    「…ずか」
    ……………かしゃん。