その糸

 

 

目の前に半ばが絡まった糸がある。

それを解こうとするべきだろうか?

 

 きこきこ…

 優しげな陽光

 小鳥達の鳴き声

 ほのかに漂う桜の香り

 澄みきった新しい空気

 ぽかぽかとした春の暖かさ

 きこきこ…

 きこきこ……

 

半ばから深淵へと続いている糸がある。

あの娘はいつまで待っているのだろう?

手繰り寄せても何一つ出て来ないそれを、しっかりと握り続けて…

見上げた空に舞う

蝉時雨

銀杏

そうやって──

確実に時刻だけが、過ぎて──―ゆく。

 

「用事があるから…」

 そんなものある訳ない。

 あるのは変わらない日常。

「そっかぁ…ざんねん」

 それでも彼女は納得してくれる。

「あ、でも、飛び入りでも歓迎するからね」

 そして、そう言って微笑んでくれる。

『友情』なんていう陳腐な言葉で片付けたくはないけれど、やはりそう言ってくれる存在はありがたかった。

 

 転校して来て一年。すっかり身体に馴染んだ制服を脱ぎ、姿見の前に立つ。

 目の前に映るのは、淡いピンクのショーツだけを身につけた私。

「……」

 首を巡らせ躰を見まわして、肌にシミ等が無い事を確認すると、煤けたドレスを手に取る。

 左から袖を通し後ろ手に背中のホックを掛けると、思わずホッと安堵の息が漏れた。

―大丈夫。まだ、あの時の私だ。―

 制服を脱ぐ時におろしておいた髪を梳かし、後ろで一つに纏める。

─だけど─

 唇に淡い色のルージュを引くと、最後に手袋を填め、私は部屋を後にした。

―ココに留まる事しかしていない私…だ―

 

緩慢に過ぎて行く日々。

少しずつ変わって行く人々。

その中で変わらない事を望み、昨日と同じあの娘でいようとする。

時の流れに逆らう事。

それがどれほど愚かな事なのかも気付いている。

──だからこそ残酷。

 

「あ、またヘンな…」

 キッ!

 一年以上も同じドレスで同じ場所に立っている女の子

 他人の目には、さぞ滑稽に映っているのだと思う。

─でも、恋をしているヒトの行動なんて、どれも滑稽だ─

─私のは、みんながアイツの事を忘れただけ─

─ただ、それだけ…─

 

 夕焼けが夕闇に変わり、公園の街頭がチカチカと点灯する。

 静かな空気と噴水の水音。

 肌寒さに自分の肩を抱くと、不意に涙がこぼれ落ちた。

「…ぅッ…ぅぅッ」

 聖夜の公園で声を殺して泣く。

―私、惨めだ…―

―すごく惨めだ―

 泣く事は嫌い。

 何も出来ない自分を曝け出しているから…

 そして…

 いろんな事に鈍くなるから。

 ガサッ…

 

「わぁ、ホワイトクリスマス!」

「じゃあ、良いお年を…」

「ばいばい」

 いつの間にか降り出した雪の下、口々に別れの挨拶をして、佐織の家を後にする。

 胸には交換したプレゼント、手には紙箱に入れたケーキを一切れ。

 ケーキは留美へのお土産だ。私の自信作でもある。

 留美は、今日も何か強い想いを胸に、あそこに立っているんだと思う。

 だから、これは私からの応援を込めたクリスマスプレゼント。

 いいよね。

 受け取ってくれるよね。

 

―私、鈍くなった―

―いや、もともとアホなのかも…―

―昔の私なら、こんな事絶対になかった―

―人が…―

―こんなヤツが近くに来るまで気付かないなんて!―

「イッ!」

 必至に身体を押し退け抵抗する私に、忘れていた腰の痛みが襲いかかる。

「こ…こんな時に…」

 耳元で聞こえる荒い息遣いと首筋にかかる生暖かい息。 煤けたドレスの胸元が破かれ、胸が冷たい外気に晒される。

「このヘンタイッ!」

 うなじ…

「放せッ!」

 胸…

「放してェェェッッ!!!」

 腿…

 躰中を這いまわるねっとりとした不快感。

熱い何かが下腹部に入り込んで来て、私の中で内臓を貪っている様な激痛を感じた瞬間、心の綺麗な場所にあった何かが「かしゃん…」っと音を立ててコワレタ。

 ……

 あとの事は良く覚えていない

 ただ、気持ち悪くて、痛かった。

 思い出せないくらいに…

 とても嫌な時間―

 ――だった。

 

「まだいるのかな?」

 すっかり日も落ちたイヴの公園に着いた私は、街燈を頼りに留美の姿を探す。

 階段―

 …いない

 噴水―

 …いない

 ベンチ―

…いた。

「留美」

 俯いてベンチに座っている留美。

 最近になって、やっと名前で呼び合えるまでに仲良くなった彼女に声を掛けながら近づく。

「もう…よごさないで」

「……」

 どさ…

 薄暗い街頭に照らされ、そこに居る少女。

 目の前の光景に、私は手に持っていた箱を落した。

 箱の口が開き、汚れた地面に白いクリームが散る。

「こうへいのための…わたしを…よごさないで…くださ…い」

「なに…これ」

 いま…

 私の前に居るのは…

 健康的な肢体を、むっとした匂いを放つ体液と千々に引き裂かれたドレスで、妖しく彩られた少女。

 薄っすらと涙の浮かんだ虚ろな瞳は、ガラス玉の様に澄んでいて…

 そして、ガラス玉の様に何の色も映していなかった。

「……えっと」

 混乱で思考が上手く回らない。

 ただ…

 目の前に座る少女の躰を隠す様に、しんしんと降り積もる純白の雪が、とても綺麗だと思った。

「…夢?」

 そうであれば、どんなに良かっただろう。

 でも、震える指先で触れた体は温かくて…

 認めたくないくらい現実的で…

「るみ…留美…イヤァァァァァ──―」

 雪が──―ひどくつめたかった。

 

人の運命は無情。

そして、不公平。

過酷な現実。

絶え間の無い流れ。

それに逆らったところで、何が残ると言うのだろう。

いっそ指を放せば、楽だったのかもしれないのに…

 

 きこきこ…

 きこきこ…

 アスファルトで舗装された散歩道。

 パジャマ姿の少女が乗る車椅子をゆっくりと押す。

「あ…さくら…だよ」

「そうだな」

 振り仰げは一面の桜の樹。

 少女の髪をふわりと撫でる暖かな風が、歩けぬ彼女のもとまで、桜の花びらを運んで来た。

 優しい春風の贈り物を重ねた両手で受けとめ、目を閉じて胸いっぱいに香りを吸いこむ彼女。

「いいにおい」

 吸い込んだ息をゆっくりと吐きながら、彼女は恍惚とした表情でそう呟く。

「……」

 目の前にある幸せそうな少女の背中。

 丁寧に梳られたその髪に思わず触れようとしてしまう。

「ねえ、せんせい…」

 だが、彼女の呼び掛けで正気に戻り、危ういところで手を止めた。

 彼女には触れてはいけないのだ。

 どんなに愛しくても…

いや、愛しいからこそ…

―歯痒い。

「なんだ?」

「こうへい、かえってきてくれるかな?」

「……」

 慣れる事など出来ない言葉が、今日もその錆びた刃を心の弱い場所に突き立てる。

 これは罰なのだろうか?

 潰れんばかりに車椅子の取っ手を握り締め、小刻みに震えている拳が、他人の物に見えた。

「先生?」

 風に舞い上がる桜の花びら。

 返事の無い俺に、車椅子の少女が小首を傾げる。

「…帰ってくる」

「うん…」

 とても深い深呼吸の後、ようやく俺は一言だけ彼女に返答した。

「こうへい…」

 眩しい陽光の中、俺の言葉に安心した彼女が、膝の上に乗せたボロ雑巾の様な布の固まりを大事そうに抱えて、いとうしげに頬擦りする。

 酷く哀しくて…歯痒い光景。

「……」

 陽光と春風の中、ずっとそうやっている彼女を見守る。

 とても無機質な暖かさ…

 彼女は今も夢の中―

「先生…ちょっと寒いな。帰ろ」

「……」

「先生?」

 返事の無い俺に、再び小首を傾げる少女。

 髪に―

 肩に―

 静かに―

 舞い落ちる桜。

 

 


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