少しずつ、大人に…
朝
新しい一日の始まり…
一日の中で、一番空気の清んだ時間…
一日の中で、一番眠い時間…
だから、俺は…
「…ぐあ」
水溜まりを避けながら、約束の時間ギリギリで椎名家に到着すると、繭は既に準備を整えていた。
しかし…
「…みゅ〜」
「ほら、繭。せっかく、折原さんが迎えに来て下さったのに…」
俺が来るなり、居間の方へ逃げ隠れてしまい、出てこようとしない。
どうやら、怒っているわけではない様だけど…
「みゅ〜…」
「すみません。この子、恥ずかしがっているみたいで…ほら、繭。可笑しくないから…ね?」
華穂さんが、居間に隠れたままの繭を呼ぶ。
一方俺は、繭を連れてすぐに出るつもりなので、玄関で靴を履いたまま待つ事にした。
「うー…ほんと?」
「ええ…」
どうやら決心がついたらしく、暫らくすると繭がおずおずと出てきた。
「……」
「…浩平?」
その姿を見て、俺は言葉を失った。
襟元と袖にフリルの付いた白いブラウス。薄ピンクのスカート。そして、髪には、小さなリボンを左右に付けている。
可愛らしく『おめかし』した繭がそこに居た。
「……」
「……みゅー!」
しかし、無言でいる俺に、何か勘違いしたらしく、再び繭は居間に引っ込んでしまう。
慌てて呼び止める俺。
「ちょ…ちょっと待て!驚いただけだ!」
「うー…ほんと?」
居間から首だけ出す繭。
俺は笑顔で手招きしながら、彼女を呼び寄せる。
その横では、華穂さんが微笑んでいた。
「ホントだ。似合ってるぞ」
「うんっ」
人差し指で頬を掻きながら俺が褒めてやると、繭は一変して笑顔を浮べ、俺の横に並んでスカートと同じ色のブーツを履き始めた。
「うんしょ…うんしょ…」
「雨降ってるから、汚さない様に気を付けろよ」
靴を履き終えた繭に雨天用の防水スプレーを吹きかけると、俺達は華穂さんに見送られて、椎名家を後にした。
「みゅ〜♪」
「楽しそうだな」
「うんっ」
俺の横に並んで楽しそうに歩く繭…
その姿を見ていると、何だか温かい気持ちになる。
でも、何だってこんな日に雨なんだろうな…
傘を傾けて、灰色の厚い雲に被われた空を見上げる。
一週間前に繭を遊園地に連れて行くと約束した時には、雨が降るとは夢にも思わなかった。
勿論、今日が雨だという事は昨夜の時点で分かっていたから、「他の場所にしないか?」と、繭に電話をしたのだが、返ってきた答えは「でも、行きたい」だった。
「なあ…」
「あ…信号かわる」
…やっぱり、今度にしないか?
と続けようとした俺を無視して、繭は突然走り出した。
見ると、横断歩道の青信号が点滅している。
「コラ!繭!」
「ほえ?」
とっさに呼び止めた俺の声に、繭が足を止めてこちらを振向く。
その背中で信号が変わり、それと同時に車が一斉に動き出した。
「ほえじゃない!飛び出したら…」
バシャァァ!
「……」
「……繭?」
次の瞬間、叱ろうとした俺の前で軽トラックの巻き上げた水溜まりが、白とピンクに彩られた可愛らしい繭を泥色に染めた。
何が起こったのか理解できずに、ただ呆然と立ち尽くす繭。
そして次第に、その両目が潤み始める。
「…ヒック!ゥゥ…」
「…まゆ」
俯き、両手を握り締めて、しゃくり上げる繭…
俺は彼女に駆け寄り、その小さな肩に手を置いて待った。
繭を信じて…
泣かないよな…
お前は強い子だ…
一年間、俺が居なくても大丈夫だったんだから…な。
「…ング!」
繭を信じてひたすら待つ俺・・
その目の前で、繭は、何かを飲み込む様にして大きく頷くと、涙目で俺を見上げた。
そして、自分の体を見下ろして呟く。
「…よごれちゃった」
「着替えるか?」
「…うん」
「よし!」
両手を握り締めて涙目で答える繭に、俺はその頭をがしがし撫でてやりながら、自分の上着を掛けてやった。
繭は、ちゃんと成長している。
少しずつだけど…しっかりと確実に大人への階段を上っている。
昔のお前なら…
泥が跳ねられた時点で、その場に座り込んで泣き出して…
かんしゃくを起こして、そこらじゅうの物に当たり散らしていたのに…
ずっと、頑張り続けているんだな…お前は…
「どっ…どうしたんですか?」
椎名家に戻った俺達…特に泥塗れの繭を見て、華穂さんが珍しく取り乱した。
「よごれ…ちゃった」
「泥をはねられたんです。着替えさせてくれますか?」
「はい…有り難うございます」
涙を抑えながら話す繭を見て、華穂さんが目尻を押える。
華穂さんも、繭の成長を感じたらしい。
「浩平…」
「大丈夫だ。取り止めにはしないから、着替えてこい」
「うんっ」
不安そうに俺を見上げる繭に、俺がそう言って背中を押すと、彼女は大きく頷いて階段を駆け上がっていった。
「少し時間が掛かりますから、上がっておいて下さい。」
「はい」
そして、華穂さんも一礼して、二階の繭の部屋へと上がって行く。
その背中を見送りながら、俺は胸の奥が温かくなるのを感じていた。
「はえ〜」
雨上がりの遊園地…
目を回しながらも一生懸命付いて来る繭の手を引いて、陽射しを反射する水溜まりを避けつつ走る。
目指すは、遊園地の中心だ。
「今がチャンスだ。しっかり付いて来いよ」
「ほえ〜」
イマイチ頼り無い返事する繭は、一変してボーイッシュな恰好をしている。
黄色のシャツにサスペンダーで吊った若草色のジーンズ。
そして、頭には海賊の子分みたいにバンダナを巻いている。
端から見たら、兄弟に見えるかもしれないな。
まあ、どうでも良いけど…
そんな事を考えつつ遊園地の中でも一際高い場所へと走る。
そこに目的の物があった。
「はえ〜」
ゴンドラの窓に顔をくっ付けて、繭が感嘆の声を上げる。
「綺麗だろ」
「ほえ〜」
繭が眺めている物…
それは雨上がりの虹だった。
遊園地に入った時、陽射しが強くなったのを感じ、もしやと思ってきてみたが、正解だったらしい。
綺麗な虹を、それも特等席で見られるなんて、めったにあるものじゃない。
窓に張りついたままの繭に苦笑しながら、俺は今日初めて、「繭をここに連れて来て良かった」と思った。
「来て良かったな」
「ウン!」
少しずつ、大人に…
おわり
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