〜序章〜

 

「…だから、だれなんだよ?」

冬の朝
従妹から借りた目覚まし時計より早く目覚めた。
昨日、荷解きを終えたばかりの部屋は整頓されており、室内の空気と相俟って、どこか寒い印象を受ける。
キチンと本棚に収められた書籍。
埃や染み一つない丸テーブル。
真新しい蒼のカーテンの隙間から漏れる陽光。
そのどれもが、普段からゴミゴミした部屋に暮らしている俺にとって、妙に落ちつかないものだ。

「……はぁ」

温かなベッドの中、カーテンの隙間から覗く窓の外へと首を巡らせて溜息を吐く。
灰色の曇天から舞い落ちる色は白。
寒いのも嫌いだが、雪はもっと嫌いだ。
見ているだけで、矛先の見えない胸騒ぎと共に気分が悪くなる。

…なんなんだろうな。これ。

視線を戻して、白い天井を見上げる。
目覚まし時計が鳴るまで数分…
目を閉じると、さっきの夢の欠片が見える様な気がした。

ゆめ…

今日も夢を見た。

昔の夢。

その夢は、何年前のものなのか解らなくて…

その夢は、何年前から見始めたかも覚えていなくて…

その夢は、必ず降り積もった雪と、そこに佇む独りの女の子が出てきて…

地面すれすれを浮かぶ大きな夕日の放射する橙に、その白い頬を染め、眩しい笑顔で言う。

『うん。絶対見付けて…』

と…。

儚い夢の中、その姿だけがいつも鮮明に心に焼き付いている。

 

雪の名の姫君

【雪だるま】

一月二十五日

午後一時五十三分

中庭

「春…」

「は?」

「今でも、春は暖かいんですか?」

「それりゃそうだ」

傍らで地面にしゃがみ込み、ボーリング玉ほどの雪玉を転がしながらそう訊いてくる少女に、
それより一回り大きな雪を転がしつつ俺が答える。

「…ずっと強い薬を使い続けた所為で、私はもう…暖かさ感じることさえ忘れてしまいましたから…」

「……」

「あ、でも私には、もう春のお日様を浴びる事もありませんから、関係無いですね」

ごん…

「…その話は、ルール違反だぞ」

「そう…でしたね。ごめんなさい」

俺のゲンコツに、その少女は小さく赤い舌を出して答えると、
細い躰を包む臙脂の制服に付いた雪を、処女雪で出来ているかの様に澄んだ白さを持つ手で払いながら立ちあがる。

「はい。できました」

そして、自然の寒さの中で身を寄せ合う温かさに気付かせてくれる冬の空気を思わせる瞳を俺に向けながら、
少女は雪玉を此方へと差し出した。
彼女の名は美坂栞。
『いま』は、ごく普通のどこにでもいる女の子をやっている。

「どうでもいいが、もう二時近くだぞ」

「そういえば、皆さんは授業中ですね」

雪玉を受け取りつつ顔を顰めて言う俺に、栞は朱色の唇に細い人差し指を当てながら他人事の様に答える。

「俺もお前もだ」

「…祐一さん怒ってます?」

「別に…でも、普通の女の子はこんな事しない」

「そんな事言う人、嫌いです」

軽く釘をさしつつ栞から受け取った雪玉を俺の雪玉に重ねて雪だるまの原型を完成させると、
栞はポケットから取り出した目鼻をそれに嵌め込みながら、悪戯っぽく微笑んだ。

「雪だるま。全長十メートルとはいかないけどな」

「それは、また今度のお楽しみにします」

「…そうだな。雪…ずっと降ってれば良いな」

「……」

不意に軽い衝撃。
栞が俺の胸に飛び込んで来た。

「…そんな事言う人、嫌いです」

冷たい身体…
小さな手が俺の胸をきつく掴んでいる。
過ぎ行く時間を引き止める様に…
きつく…きつく…
白い手が青白くなるほど。
その小さな肩に、お気に入りらしいチェックのストールを掛けなおしてやると、俺は栞の背中を軽く押して中庭を後にした。

§

一月二十五日

午後二時〇三分

教室

「いつまで続ける気かしら…」

遅れて教室に入って来た彼を見て、私は小さく溜息を吐いた。
それが同情からか愛情からかは判らないけれど、いつも彼はあの子の傍にいる。

「名雪も可愛そうよね…」

前の席で舟を漕いでいる親友に同情する。
昼休みが終わっても彼が帰って来なくて一番心配していたのは、この娘なのだ。

「……」

「…」

英語教師となにやら言葉を交わした後、自分の席に戻ってきた彼と一瞬目が合う。

がたがた

が、すぐに視線を外して、彼は私から見て左前の席に座った。
責めるでも、同情するでもない。
少しだけ困惑した眼。
だけど…
私の言葉に嘘はない。
本当に、妹なんていないのだから…
窓の外に目を向けると、また雪が強くなって来ていた。
流れる英文を聞き流しながら、私は無数の白を暫く見つめる。

そう…今の私に妹なんていない。

降りしきる雪に誘われるように、意識が過去に跳んだ。

 

「…なに?」

スカートの裾を引っ張られて振り向くと、ピンクのプラスティック製シャベルを片手に持った女の子が、
『見て見て』と小さなゆきだるまを指差した。

…ぐしゃ

「私に近付かないでって言ってるでしょッ!」

私はそれを踏み潰して、その子に拒絶の言葉を浴びせる

…ぺたぺた

「なによッ!」

ぐしゃ!

私が壊したゆきだるまを修復しようとする女の子。
それを見下しながら、また踏み潰す。
一瞬だけ気持ちが良かった。

ぺたぺた

「お父さんもお母さんもッ!」

ぐしゃ!

ぺたぺた

「みんなッ!」

ぐしゃ!

ぺた…

「みんな大嫌いッ!」

ぐしゃぐしゃ!

……

……

暫くそんな事を続けていると、夕暮れ時になった。
私の足元には、もうゆきだるまの原型なんてない。
ただ、踏み固められた雪が茜色に染まっているだけだった。

「つまんない…」

そう呟くと、私は女の子に背中を向けて、ひとりで家路につく。
だけど公園から出ようとして、朝、お母さんが仕事に出る時、その子の事を私に任せたのを思い出した。

「…帰るわよ」

渋々振り返って声を掛けると、女の子はシャベル片手に此方を見ているだけで、付いて来る様子はない。
だから置いて帰る事にする。
お母さんに訊かれたら、「ゆきだるまを作る」と泣き喚いた事にしておこう。

…ぺたぺたぺた

…ぺたぺた

…ぺた

 

「美坂ッ! 訳してみろ」

現実に戻ってくると同時に、余所見をしていた私を見咎めた先生が、そう言って黒板の英文を指差す。

「はい」

私は普段と変わらない返事をして起立すると、英文を一瞥して、昨日予習した部分を頭から引き出した。

「『目に見えるものが全てとは限らない。なぜなら貴方は貴方自身を見る事が出来ないからだ』…あと、そこのスペル間違っています」

…簡単ね。

ついでにスペルの間違いまで指摘して着席すると、先生はそれ以上、私を追及して来なかった。
授業なんてものは、要するにその時限分の知識を習得しておけば良いのだから、
それを事前に済ませてしまっている場合、他の生徒の邪魔をしなければ良いということなのだろう。

「やるじゃん」

隣りの席で感心している北川君を無視すると、私はまた、窓の外の雪を眺め始める。

「……あれ?」

だけど、先ほどまで頭の中を流れていたモノの続きは、ラベルの無いビデオテープの様に、見付からなくなっていた。

 

作品は、『大帝國書房』発行↓に掲載