appétit sensuel
「ミレイユ・・・。どうしても、だめ?」
「・・・・・」
すがりつくような目で霧香があたしを見ていた。
これではどちらが捨てられていた猫だか分からない。当の猫は霧香の腕の中で大きな口を開けてあくびをしていた。
買い物に出かけていた霧香だが、提げて帰ってきたのはこの猫だけだった。どうやら、飼いたいらしい。
「あんたねぇ、ちゃんと世話できるの?」
できる訳ないじゃない、そういうニュアンスを込めてきつい口調で投げかけたが、霧香は力強く頷き、やってみる、と言った。
「あたしは一切関知しない。あんたひとりで面倒を見る。それでもいいの?」
「うん」
あたしはため息をついた。
霧香の決心は相当強固なもののようだった。これではいくら言っても焼け石に水、といったところだろう。
「・・・いいわ」
あたしが仕方なく了承すると霧香の表情が一変した。出会った頃の霧香からは想像もつかない程の笑みを湛えている。最近でもここまでの顔は、そうそうお目にかかることはできない。
「そのかわり、途中で投げ出しては、だめ。責任もって飼える?」
「うん。ありがとう、ミレイユ」
喜んでいる霧香とは対照的に、猫は相変わらず呑気に眠そうな顔を浮かべていた。
「あっ、じゃあ、餌買ってくる」
「ちょっと、霧香!」
部屋を出て行こうとした霧香を呼び止めた。
「猫用のトイレも買ってきなさいよ」
振り返り、案の定霧香は知らなかったという顔をした。
「・・・うん。じゃあ、それも買ってくる」
そう言って出ていこうとした霧香がもう一度振り返った。
「ねえ、ミレイユ。外、寒いから、この子お願い」
霧香は抱えていた猫を下ろして、颯爽と飛び出していった。
今し方ひとりで面倒を見ると言ったばかりではないのか・・・。先が思い遣られるようで、口から大きな息が漏れた。
あたしはひとまず椅子に腰掛けて、猫を観察することにした。
猫は汚れはあれど白、黒、茶が混ざった毛色をしていた。まだ成長途中の三毛猫だった。
初めて見る部屋の中が物珍しいのか、きょろきょろと見回しながら落ち着かない様子でそこら中を匂いを嗅ぎながら歩き回っていた。歩く度に床に小さな足跡がついていく。帰ってきたら霧香に掃除させなくてはいけないな、と思った。
あたしの前に来て猫は甘えた声で何回か鳴いたが、得に何の関心も示さないとまた部屋をうろうろ歩き始めた。特別に人間を恐れている、ということもないようだった。人に飼われていたことがあったのだろうか・・・。猫は一通り探索を終えると、陽の当たるこの部屋で一番暖かいであろうと思われる場所で身体を丸めて眠る態勢をとった。
猫が熟睡し始めた頃に、息を切らした霧香が帰ってきた。勢い良く扉を開けたために、猫がびっくりして飛び起きた。
「ただいま」
そう言うと霧香は荷物を持ったまま一目散に猫の元へ駆け寄っていった。一方の猫は驚いて逃げまどっている。
面白い光景だった。霧香が追えば追う程、猫は逃げていく。部屋の中をぐるぐると走り回っていた。
霧香が急に追うのをやめた。すると猫も一定の距離をおいて止まった。買い物袋の中から霧香は皿と猫缶を取り出した。きちんと猫用の皿を買ってきていたのには感心した。皿を床の上に置き、缶詰めを開けてそこに盛った。
「おいで。ご飯だよ」
霧香がそう呼び掛けると、猫は餌に釣られて大人しく側に寄っていった。余程空腹だったらしく、貪るように猫缶に食らい付いた。
「ねぇ、ミレイユ。見て見て。食べてるよ」
猫だから猫缶を食べるのは当たり前である。でも、霧香が余りにも嬉しそうに話すので、
「ほんとね」
と、笑顔で返した。猫を飼うことも満更悪くもないかもしれない。
「ねぇ、霧香。名前はもう決めたの?」
「え・・・まだ」
「そう。じゃあ、考えてあげないとね」
「うん。そうだね」
霧香は勢い良く猫缶を平らげていく猫をジッと見つめて真剣な顔をしていた。名前を考えているのだろう。
霧香にとって名前とは並々ならぬ想いがあるのかもしれない。記憶を失い自分の本当の名前が分からない霧香は、ユウムラキリカというのは嘘だと言っていた。自分には名前がない、そう嘆いていた。今は、どう思っているのかは分からない。けれど少なくとも、そんなことを口にしなくはなっていた。
猫がキャットフードを全部平らげて、もっと頂戴というように甘えた声で鳴いた時に、霧香の表情がパッと変わった。どうやら何か思い付いたらしい。
「ミケ」
霧香がそう言った時に猫がまた鳴いた。多分餌を要求しているのだろう。
「じゃあ、ミケで決まりね」
霧香が嬉しそうに猫を抱き上げた。
「ねぇ、どうして、ミケなの?・・・まさか三毛猫だから?」
「うん。そうだけど・・・」
あたしの質問に、予想通りの答えが返ってきた。
あれだけ考えて、この名前とは・・・。まぁ、霧香らしいといえば霧香らしいが。
「捨てられてた猫ならノミがいっぱいいるだろうから、お風呂に入れて綺麗に洗ってあげなさいよ」
「うん」
こういう風に素直に頷く霧香をとても可愛いと思う。
「後、ちゃんとしつけもするのよ」
「うん」
霧香は約束通り、甲斐甲斐しくミケの世話をした。それは見ているあたしがイライラする程に。
一日中霧香はミケに付きっきりだった。お風呂に入れれば自分もびしょ濡れになって出てきたり、床を汚せば進んで掃除はするし、餌もきちんと時間通りに与えるし、トイレの掃除も欠かさずに行う。霧香は何ひとつ愚痴をこぼしたりしなかった。
ミケが何か珍しい行動をする度に、ねぇミレイユ見て、と嬉しそうに言ってくる。1日に何十回ということもある。いつの間にか、猫の遊び道具まで霧香は買ってきていた。でも霧香は首輪だけは買ってこなかった。何故首輪を付けないのか訊いたところ、苦しそうだし、その行為が所有物のように扱うようで嫌だと言っていた。
ミケによって何より困っていることがあった。それは夜、ベッドに入ってくることだ。しかも分かっていてわざとにしているのか、ミケはあたしと霧香の間に入ってくるのだ。霧香は寒いだろうからと言って、ベッドから追い出したりはせずミケを抱くようにして眠る。
もしかすると、あたしは嫉妬しているのだろうか・・・猫に。きっとそうだ。だからあたしはミケが来てからというもの、こんなにもイライラするのだろう。
どうやらミケも敏感に感じ取っているらしく、あたしにはちっとも懐かなかった。いつも霧香にくっ付いていく。まるで霧香があたしにくっ付いてきたように・・・。
でも、今の霧香はあたしではなくミケの方に関心がいっていた。
あたしにとって面白くない日々だった。でも、そんな生活もそう長くは続かなかった。
「じゃあ、買い物に行ってくるからいい子にしてるんだよ、ミケ」
出かけようとしていたあたし達に、ミケが扉まで付いてきた。正確には霧香に付いてきたのだが。
霧香が屈み込みミケの頭を撫でた。喉元を撫でるとミケは目を細めて気持ちよさそうな顔を浮かべた。今度は人さし指を口元に持っていくと、ぺロリとそれを舐め、甘噛みした。ミケは美味しそうに霧香の指をくわえていた。気が付いた時には、自分の口元が開いていた。あたしはミケが来てから霧香の指をくわえていない。
「霧香、行くわよ」
「あ・・・うん」
あたしが部屋の外に出ると、慌てて霧香が付いてきた。まだミケと遊んでいたい、といった感じだった。ミケも名残惜しそうに、にゃあ、と甘えた声で鳴いていた。どうもあたしは霧香とミケの間に上手く入っていけないようだった。
冬空は一段と澄んでいて青い。風はないけれど、底冷えするような寒さだった。外へ出ると気分も随分晴れてきた。霧香と二人きりで過ごせる、久しぶりの時間だった。今では部屋でそういう状況に一切なれないのだ。ミケはいつも霧香にくっついている。いや、霧香の方がミケにくっついているのだろうか・・・。
あたし達の食料と、ミケの餌を買った。それから、スフレのおいしいカフェに立ち寄った。もう少し二人の時間を過ごしたかったから。
最近、霧香はよく喋るようになってきた。といっても、いつも話題はミケなのだが・・・。
今もそうだった。チーズスフレと紅茶には目もくれずミケの話をしていた。ねぇミレイユミケはね、と言って色々な話をしてくる。昼寝をする時のお気に入りの場所はどこだ、とか、餌はどこどこのメーカーの物が好きで良く食べる、など。早く紅茶を飲まないと、冷めるとおいしくなくなるというのに。
霧香の話に適当に相槌を打ち、喋りながら動かす指を見ていた。わざわざ話の腰を折る気にはならなかった。霧香がよく笑い、よく喋るようになってきたのは、あたしにも嬉しいことではあった。
「ただいま」
部屋に着き、扉を開けると霧香がミケに言った。けれど、ミケは部屋に見当たらなかった。いつも霧香が帰ってきた時は、扉の前で出迎える程なのに。
「ミケ?」
霧香が買ってきた荷物をビリヤード台に置き、コートを脱ぐとミケを探し始めた。霧香も異変を感じたらしい。キッチンやベッドの中を見たりしている。
窓が開いていた。歩きながら考えた。ここはアパルトマンの二階だ。いくら猫といえども無理だろう。あたしは窓から顔を出して見下ろしてみた。軒を使えば降りれないこともなさそうだった。
「ねぇ、ミレイユ。ミケが・・・ミケがいない!」
霧香は切羽詰まったような表情をしていた。たかが猫一匹のことではないか。
「ここから出て行ったんじゃないかしら」
窓を親指で指しながらあたしは言った。
「でも、ここは二階だよ」
「猫なら降りられないことはないと思うわ」
「じゃあ・・・ミケは・・・」
「さぁ、猫は気紛れだからね。帰りたくなれば、帰って来るんじゃないの」
「私、探しに行ってくる」
「えっ・・・ちょっと、霧香!」
扉も閉めずに霧香は部屋を飛び出していった。コートも着ていない。霧香にとっては、たかが猫一匹という感覚ではないようだった。
霧香のコートを手に取って、あたしも寒空の下へ出ていった。
左右見渡してみても、霧香の姿はもう見えなかった。
ミケが行きそうな場所を考えてみた。思い付くのは霧香がミケを拾った場所だけだった。でもあたしは、はっきりと何処で拾ったのか知らなかった。買い物に行った時に見つけてきたのだから、ひとまずその道筋をたどってみることにした。
いくら走り回れど、霧香もミケも見つからなかった。捜索範囲を広げてみても一向に見当たらない。
もしかすると、もう既に霧香が見つけて部屋に戻っているのかもしれない。そう思い、家路に付こうとした時だった。
「にゃあ!」
猫の声に、あたしは慌てて振り返った。
10才くらいの男の子が猫を抱いていた。隣には父親らしき人物もいる。
「もう、勝手に出てっちゃダメじゃんか。ずっと探してたんだから」
少年が猫を叱りつけていた。猫はそんなことはお構いなしに少年の頬に顔を擦り寄せている。
「やっぱり住所を書いて首輪を付けておいた方がよさそうだな」
「うん。今度はもうそうするよ」
二人と一匹が横を通り過ぎていくのを、あたしは呆然と見送った。あの猫は確かにミケだった。毛並みといい、大きさといい、間違いない。今朝まで霧香に擦り寄っていたミケだ。今はもう霧香のことなど忘れているかのように別の人物に甘えていたけれども。あれは、きっと元の飼い主だろう。ミケには放浪癖でもあったのだろうか・・・。
あたしは霧香に真実を告げるべきか迷った。例え告げなかったとしても、当分の間霧香が落ち込むだろうことは容易に想像が付いた。やはり告げるのはやめておいた方がいいかもしれない。
ひとまず帰ってみようと振り返ると、すぐ目の前に霧香がいた。
「霧香・・・」
何も訊くまでもなかった。表情が全てを物語っていた。霧香もミケとすれ違ったのだろう。
「ミレイユ・・・どうして・・・」
霧香の目からポロポロと涙がこぼれ落ちた。どうして、そうくり返しながら泣きじゃくった。
確かにあれだけ懐いていたのに、急にそっぽを向かれれば「どうして」とも言いたくなるだろう。餌を与えてくれる人に甘える。あれは猫にとっての処世術だったのだろう。所詮、猫は猫といったところか。
道ゆく人々が横目であたし達を見ながら通り過ぎていく。まるであたしが霧香を泣かせているようだった。
「帰ろ」
そう言ってあたしは霧香の肩にコートを掛けた。聞こえていないのか霧香は頷きもしなかった。俯いたまま手で涙を拭っている。もう一度同じ言葉を掛けても無反応だったので仕方なく手を引いて強引に連れて帰ることにした。手を握ると、驚く程強い力で握り返された。歩きながらも霧香は涙を流し続けていた。こういう時の霧香は、まだ幼子のように思えてくる。
部屋に着いた頃にはようやく落ち着いてきたようだった。
ミケの遊び道具や、キャットフードが少し残った皿が虚しく床に転がっていた。さすがにあたしもミケがいなくなったことに寂しさを感じた。
何故か霧香はいつまで経ってもあたしの手を離そうとしなかった。
「霧香・・・」
呼び掛けると霧香は顔を上げた。目が真っ赤になって潤んでいた。何かを必死に訴えかけるような、そんな眼差しだった。あたしはその目に見入ってしまう。
「ミレイユは・・・」
霧香が握っている手に力を込めた。痛いくらいだった。
「ミレイユは、どこにも行かないよね。いなくなったりしないよね」
あたしが、どこかに行く?いなくなる?
ミケ・・・。ミケが突然手のひらを返したように他人の腕の中に行ってしまったことで、不安に陥ったのだろう。
どこへも行かないし、いなくなったりもしないわ。そう答えたい気もしたが、果たしてそう言い切れるのだろうか。不意に疑問に思った。
幾らそのつもりでも、否応でも死という形での別れはやってくる。得に裏社会で生きてきた者は、いつでも死と隣り合わせにいるのだ。あたしも霧香も明日死んだとしても可笑しくないような身だった。
例え気休めでも、できもしないことは口にしたくはなかった。
「あたしは猫じゃないわ。一緒にしないでよ」
「うん・・・そうだよね」
表情は幾分か和らいだようだったけれども、目にはまだ怯えが残っているようだった。
あたしは手を伸ばして霧香を抱き締めた。こういう時は言葉よりも行動の方が伝わり易い。
「ミレイユ・・・」
霧香があたしの背中に手を回した。あたしはふと思った。今日から誰も邪魔をするものはいない。
完