ベトナム交流団ニュース
〜現地ベトナムで毎日発行されたニュースです〜


 
NO.1
1997.12.26発行
−−爆撃の中守りぬいた9分間 ベトナム公共放送局−−
  26日午前9時からベトナム公共放送局の副社長クックさんたちと交流をもちました。
ピカピカの応接室に通されて話をきき、抗米救国の戦いのときから日本の人たちとは深いつながりのあることや、最近ではNHKとも共同で交流していることなど、援助にも感謝されました。そのあいさつの後、音楽部門の方もおられる中、何か聞かせて下さいといわれたので、突然で用意していなかったが、「ソーラン節」と「砲ひく歌」をやることになりました。「ソーラン節」はにこにこして聴いておられました。「砲ひく歌」になると急に表情がいきいきしてきて口から歌も出て、一緒に歌いムードは一変しました。曲が終わったらすぐ立って両手で握手してこられ、ディエン・ビエン・フーの戦いを知っている私たちにうれしそうに語り掛けてきて、音楽部門の代表のカンヴァンさんは、「今ベトナムは冬で寒いですが、あなたたちの歌をきいて胸が熱くなりました。」といってくださいました。そしてクックさんからは、ベトナムの放送局も当時激しく爆撃を受けたこと、そして山や野原に潜む兵士に戦いの放送を流し続けたことを熱く語られました。そしてそれは、放送局を14個所にわけて放送していたことなど、私たちの知らない戦いについて教えてくださいました。音楽は人と人を結びつける力があると実感した交流でした。

・・・・芸は身を救う!皆さん毎朝歌の練習をしましょう
        いつどこで要求されるかわかりません

−−−ベトナムビジネス新聞社訪問ーーー
  26日の午前10:30〜ベトナムの経済ジャーナリズムの中心「ビジネス新聞社」を訪問しました。そこで代表のレ・テインさんに会いベトナムの状況について話を聞きました。なんとそこは9つの新聞を発行しており、ベトナム全土に400名の従業員がいること、1989年にベトナムの経済発展のためドイモイ政策の先頭として経済活動の情報公開を目的に作られたことなど説明をうけました。なんと年間700回もの訪問をうけ、住友など多くの企業のベトナムでの受け入れ先となっているという話でした。ますます盛んになる経済交流発展のためにも文化交流が大切で、これからは重視していきたいとのことでした。ハノイの音楽院との交流を助けたいとのありがたい言葉もあり、握手してわかれました。

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NO.2
1997.12.28発行
あふれる想いの歌がある限り平和と友情の絆は結ばれる
交流をグッと深めた「砲をひく歌」
−−−バクマイ病院−−−
B班が合流して計31名で訪れた最初の施設は「バクマイ病院」・・・25年前の12月22日米軍の爆撃で壊滅的な打撃を受けたところです。「バクマイの歴史はベトナムの歴史」という副院長さんのお話の後、「砲ひく歌」を歌いました。すると看護婦さんたちも戸口に集まってきました。そして病院から、お返しにと看護婦さんたちが歌ってくれた2曲目はなんと「沖縄を返せ!」、期せずして大合唱となり音楽の力の大きさを実感しました。

−−−少年文化宮−−−
  はじめに文化宮の代表の方の話がありました。少年文化宮は1955年に創立され、42年間青少年の文化活動の中心として、たくさんのすぐれた活動をしています。その後、場所を変えてまず民族音楽部門の子供たちの演奏と踊りを見せてもらいました。「赤とんぼ」を演奏するなど、高い技術とかわいい歌・踊りにびっくり。日本語教室の子どもたちは、日本語でドレミの歌を歌ってくれました。そして交流団はまずエイサー、そしてソーラン節、獅子舞、車人形、南京玉すだれ、新曲さくらを披露。さいごの「砲ひく歌」は少年宮の子供たちも加わって大合唱となりました。

・・・文化宮の人が「来年の夏、ベトナムの子供たちを日本へ連れて行きます」

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NO.3
1997.12.29発行
−−−越日友好協会−−−
  友好協会では、協会会員で歴史家のファンフィレさんによるベトナムの現状(災害と侵略者という敵と闘ってきた)をきき、質疑応答をしました。その後、台風被害への支援カンパの贈呈式となりました。
  災害とは干ばつ、洪水そして台風です。(地震はない)台風は多い時は1年で15回くらいやってきます。主として中〜北部が襲われるので、そこでは台風への備えも万全です。しかし今回100年ぶりに南部が台風に襲われました。備えのない南部で死者・行方不明者約3450人、7.6万の家が倒壊という大被害となってしまいました。
  外国からの援助はイタリアから50万$、日本30万$、アメリカ20万$など少ない。(正確な数字は後日お知らせするとのこと)
  贈呈式の後、感激の面持ちで、「1月16日の新年会の時に披露します」とファン・フィレさんは言われました。

−−−軍事博物館−−−
  ベトナムの歴史は他国からの侵略との闘いの歴史と重なる部分が多い。軍事博物館1Fは中国の宋・元・明との戦いの様子が絵で表現されていた。2Fへ上がると近代のベトナムの闘いである。1910年〜日本軍部ファシストとの闘い。救国軍の武器は竹やりの先に金具がついた簡単なものがほとんどだった。1945年ホーチミンの独立宣言「独立と自由ほど尊いものはない」1946年〜フランスの帝国主義との闘い。「特攻」のようなやり方もされた。またディエン・ビエン・フーの戦いのようすは実写ビデオで見ることができた。
そしてアメリカ帝国主義との闘い・・・
クチトンネルの模型や日もつ運びの自転車に驚いた。サイゴン陥落のビデオ。模型は精巧だった。

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NO.4
1997.12.30発行
−−−これぞ第一級の演奏家たち!−−−
     ついに会えたバ・フォ・ファミリー
  12月29日、今回のツァーのメイン・イベント、バフォーファミリー民族アンサンブルの演奏を聴くことができました。2時20分、スタジオに到着すると、バフォさんマイリェンさんのあふれる笑顔とあたたかい握手が待っていました。2部構成のステージでは、ベトナムの伝統的な教えの曲や、くじゃくの踊り、そして「白鳥の湖」まで演奏していただきました。

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NO.5
1997.12.31発行
−−−さらばハノイ97・・いよいよホーチミン98へ−−−
ホーチミン市に行く時、「ホーチミン」に会いました。
カメラもだめ、かばんもだめと重々しいきまりの中、2列で入った部屋にホーおじさんは横たわっていました。静かな眠りが印象的でした。その後ホーおじさんの家をみました。生涯を革命のためにささげた家は森の中にあり、ホーおじさんの植えた「乳房の木」は今も葉を繁らせていました。
小さな家は偉大な思想を伝えているようでした。

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NO.6
1998.1.1発行
12月31日ホーチミン到着後すぐクチトンネル見学
「暑い!」30度を超える暑さの中「20年以上かかって完成したクチトンネル」へ行きました。全長250kmに及ぶ地下トンネルです。ここで生活し闘ったのです。

今回のベトナム交流団の活躍で、ハノイでは日本・ベトナムの文化交流にとって大きな前進が生まれた。日ベト協会の中村さんも正月返上で電話して下さりファックスを通じて団の活躍を知り応援して下さっている。クチの見学においても、あんなに詳しく2回も穴に入れてくれたのは、団のみんなが熱心に声の聞こえにくいビデオに見入ったり、質問したりする態度であったことで、係りの人と心が通い合ったからではないかと思う。観光ツァーなどいろいろな人がベトナムにやってくるが積極的にベトナムの闘いを学び、文化交流しようとするみんなの熱意が伝わっていくのだと思う。

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NO.7
1998.1.2発行
−−−ホーチミン見学−−−
  アメリカを追い出し歴史的な勝利を収めた元南ベトナム大統領のいた統一食堂(元南ベトナム大統領宮殿)を見学しました。中には開放戦線側をやっつけるさまざまな会議をした部屋や地図、拷問の部屋もありました。びっくりしたのはグエンバンチュー大統領が逃げ出す時使ったヘリコプターが屋上に置いてあり、何と彼は16トンもの金を持ってアメリカへ亡命したという話でした。今でも大金持として暮らしているそうです。まったく腹の立つ話です。
庭には最初に突入した有名な戦車843がかざってありました。

  第一陣帰国メンバーベトナム最後の夜をサイゴン川ディナークルーズで食事しました。とてもおいしくて楽しかったのですが、この船はほとんどが外国人が乗りベトナム人は乗れない(貧しくて)ときいて複雑な気持ちになりました。

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NO.8
1998.1.3発行
第1陣25名が2日帰国、残留組での交流始まる。
−−−ホーチミン市越日友好協会−−−
  最初に訪問したのはホーチミン市越日友好協会の事務所でした。迎えて下さったのは事務局長で通訳のタインさん、越日協会はじめたくさんの友好連帯委員会代表をされているアン・トインさん、ホーチミン越日友好協会会長のアントワンさんたちでした。さっそく団長から今回の交流団の目的やハノイでの熱い文化交流について話をしました。そして「私たちの思いをこめて2曲します」といって椅子をかたづけはじめると、協会のかたがあわててとなりの部屋へ案内してくださりそこで出し物をしました。「砲をひく歌」が終わると、ベトナムの方々は立ち上がり、大きな拍手をして下さいました。連合会長のドインさんは感激されて、「あなたたちのことをもっとよく知っていたなら、私たちはたくさんの公演を計画することができました。残念です。」と行ってくださり、さっそくその場所から携帯電話で有名な音楽家の方や青年同盟の方々に電話して下さいました。そして青年同盟で100人規模の1時間の公演が4日の午後5時に決まるなど、大きな前進がありました。

ホテルに帰るとさっそく日本語学校の青年団より訪問OKを知らせるFAXが入っていました。一度断られていたところだけに、すぐに折り返しのFAXを出しました。うまく連絡がとれれば3日の夜に公演が入ります。

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NO.9
1998.1.4発行
−−−日本人民への熱い友情と期待
          青年団日本語学校公演100名超す立ち見満席−−−
  1月3日夕方5時ホーチミン青年団日本語学校で交流団は公演を行いました。時間になると若い学生がぎっしり集まってきた。この学校だけで2000人の学生がおり、ホーチミン全体では10000人近い人が日本語を習っているとのこと。日本への大きな期待を感じました。最初のあいさつの中で、台風の見舞いのことや、中央歌舞団の日本公演当時のことを話すと大きな拍手がおこりました。いよいよ日本の民族芸能となり、次の演目を行いました。
1、新曲「さくら」
2、獅子舞
3、ソーラン節
4、南京玉すだれ
5、砲をひく歌
さくらの時から、全員の息づかいがきこえるほどの集中の高さに驚きました。
獅子舞では最初から拍手の連続で、ししのこまかい動きにもすごく反応が返ってきました。獅子が頭をかむところでは、黄色い声が飛び交い場内ははじけるような拍手が何回もおこりました。「南京たますだれ」の時、代表の学生が一人前に出ていっしょにやりはじめると、われんばかりの拍手となり、「砲をひくうた」は大合唱となりました。校長先生のお礼のあいさつがあって、みんなで「赤とんぼ」と「ベトナムホーチミン」を大合唱した。この国の未来をつくる学生の人たちのかわいい笑顔と明るさにベトナムの未来を見る思いがしました。
さよならをしようというと、校長先生がさよならでなく、またぜひきてほしいので「また会いましょう」にしましょうということで全員でまた会いましょうと約束しました。12人の団結でつくったすばらしい文工隊でした。

−−−ホーチミン60万人の労働者を代表する
      労働総同盟事務所で職場文工隊大成功−−−
  午前10:30より労働者の代表である労働総同盟副委員長のダンガットンさんに出会いました。ベトナムの労働者のおかれている立場について説明をうけ、特に外国資本がはいってきておきているトラブルなどについて話しを受けた。ベトナムでは子供2人までは産休が4ヶ月あり、月給も100%でる話など興味ある話も多く「質問もしたかったが時間がなく、すぐ出し物となった。2階の部屋部屋に行くとそのセンターで働く人たちがどっと集まり50〜60人の職場例会となった。労音のこともよくわからない中で出し物の「さくら」がはじまると、3番のところでみんなの表情がかわり、言葉はわからないが、私たちの意気込みは伝わっていって大拍手となりました。「獅子舞」「ソーラン節」では職場のおばちゃんたちが大喜びし、「砲をひく歌」では手拍子も出て、終わるとダンガットンさんが前にきて全員に握手してくれました。そうして、「私たちの同盟にも音楽クラブがあります。ぜひ今度は職場やクラブの中にも入ってほしい」と嬉しいことばをいただきました。私たち労音が日本の働く物の中から生まれたことや、中央歌舞団を呼んだ時、日本に入国をせまった闘いを伝えると大きな拍手がおこりました。労働者を代表する総同盟の事務所職員の方たちと交流できたことは、私たちにとって大きなことでした。ベトナムの未来をつくる働く人たちの中にはいれたらどんなにすばらしいでしょう。

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NO.10

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