「に」の巻 |
■虹伝説 |
■2001年宇宙の旅 生まれてもいない60年代にそれは公開され、幼稚園前後にリバイバル公開を観に連れられたときは、猿の場面と後半宇宙のシーンが一つの映画だということがわからなかった。猿の映画と宇宙の映画を2本見たと思っていた。その後数年に一度はTVで放映され、十代以降しばらくは理解したつもりでいたけど、やはり謎は多かった。で、いいかげん自分の半生で抱きつづけた謎解きのために、この夏、数度と無くDVDを回していました。皿洗いながら飯食いながら腹筋しながら・・・。 映像は周囲の光の映りこみとスローモーを多用したキューブリック・スタイルバリバリでじつに美しい。宇宙船の内装も今の映画よりも現実味ある落ち着く空間でいまさら感動。呼吸音のみの時間は不気味だが、2001年ほどBGVに適した(常に再生していて不快じゃない)映画は無いでしょう。だっておしゃべりが少ない、映像で語るから。不快で疲れるところはほとんど無い。 あのモノリスは舞台劇で使う「超越した何か」というような小道具だったのね。人類進化の引き金をつくり、宇宙に進出した人類には月面で木星への道を電波で指し示す。木星は「太陽になれなかった星」とも、「地球外生命が隠れた星」ともいう。そして木星への道中に新たな生物闘争が起きた。「機械知能対人間」この部分は恐怖映画としても一級である。制止していたポッドは突如振り返る。ポッドにはハルの制御板が!!そして救命パイプを切断された飛行士は無音の空間でもがき、悲鳴も上げられないまま動かなくなる。 反逆AIのハルは言う。「大事な使命を危険にさらせない。」モノリスの電波から、木星にあるものが何かを知っていたような気もする。このサバイバルの勝者が次の進化を迎えられる。骨の棍棒を手にした猿が、他の原始猿を滅ぼしたように。ボウマン飛行士以外は乗員全員死亡。 機械との闘争に辛くも勝利したボウマン飛行士はポッドに乗ってモノリスへと近づき、モノリスの世界へ吸い込まれる。未知の情報が目の前を巡り、最後に到着した部屋で、未来の時間にいる自分を見る。年老いた自分を見ていると思ったら、それが今の自分で・・・という風に急速に時は過ぎ、死に瀕した老人になったところでモノリスがボウマンを次代の生命体「スター・チャイルド」に進化というか生まれ変わらせる。ボウマン飛行士は地球を遠方から見つめる、「大きな」存在になる。スター・チャイルドの顔はボウマンによく似せてある。 生命の進化は不可思議で、それに影響を与える未知の存在がどこかにいるのではないか、そして地球生命はこれからもその存在と共に歩み、旅続けるのではないか、だから「宇宙の旅」とか「宇宙のオデュッセイア(長いお話)」つってるんじゃないか、などと思うのだが原作読んでません。合ってるのかな。 たぶん最後のシーンは原作も未知の空間表現ゆえにキューブリックはわざと既知の空間、しかしながら異様な雰囲気の空間でストーリーを伝えようとしたんかなー、モノリスの扱い方といい、やっぱこの人、舞台劇の、しかも前衛劇を若い頃たくさんやってたんじゃないかなー、なんて思う次第です。 最後に; コレ以降の宇宙映画、アニメ、ゲームには本当に影響大きい。「スターウォーズ」や「エイリアン」はこれ見た後だと2001年のB級亜流に見えるし、「ガンダム」では連邦のボールのデザインのほかに、映画版の「めぐりあい宇宙」のラスト、コアファイターが暁の地球軌道に向かっていくシーンは2001年の宇宙船をコアファイターに書替えただけだというのがよくわかった。スペース・ルネッサンスとかニュータイプとかスターチャイルドとか、当時の若手皆が熱狂する映画だったんだなーと。またゲームでは横シュー「メタルブラック」のイメージが近いし、「Marathon」の凶暴化AIデュランダルがハルそっくりなのは見てのとおり。またマラソンの乗員のスーツのカラーリングは2001年のディスカバリー号のスーツカラーリングとまったく同じということもわかった。SFコンテンツのいろいろが見える2001年は今見ても新しい、「時代を超える」作品ということが分かった。 でも最後のあたりの色が反転した航空映像だけはなんとかならんのかのう。(2004年8月) |
■ニューロマンサー |
■ニンジャ・ウォリアーズ |