千葉の海で起こったある出来事
illustrated by Mamoru Oshii
「川井君もゴルフぐらい出来ないとだめだよ」と、ある時に田中公平さんから言われ、ハッとなってしまった。いままで考えたこともなかったのだが、私にはスポーツなどの特技というものがまるで無いことに気がついたからだ。私が出来ることと言ったら、山手線の駅名を全部言えるとか、耳を動かしながら吉野屋の牛丼弁当大盛を1分で食べられるなど、何の意味もなくみっともない芸ばかりである。音楽は職業だし、温泉を特技とは普通言わない。また、ゴルフはおろか、テニスだって出来やしないし、マリンスポーツに至っては全くと言ってよいほどやらない。海であれば、せいぜい千葉の海水浴場に行って焼きハマグリを食べる程度である。そこで釣りぐらい出来ればよいのだが、ある事件が脳裏に蘇ってしまい、どうしても竿を振る気になれないのである。その事件は以前友人と千葉県の、とある海に近いバンガローに泊った時に起った。
 丁度その日はあいにくの雨で海水浴もできなかった。そこで私は釣竿を持って夕食のおかずを釣ってこようと考えた。岩場の海岸には同じ考えを持った人々が大勢いたが、皆殆ど何も釣れていなかったことが一層自分を燃えさせた。なにしろ私は、家の近所でハゼを20匹も釣り、全部テンプラにして食べてしまった実績があるのだ。その経験を生かせば、アジであろうとタイであろうと、いくらでも釣れるハズなのである。
 私は逸る気持ちを抑え、エサになりそうなものを適当に見つけてハリへ付けた。そして、なるべく岸から遠いほうが釣れると考え、満潮の海に顔を出している岩の上を自分でも驚くくらいの軽快さで3つ4つと飛び移り、とうとう最先端まで達した所で、そのまま海に落ちてしまった。
 落ちた所は思ったより深く、水面に顔が出せるまで随分の時間を要した。もがきながらやっとの思いで顔を出すと、岸にいる大勢の人人の笑い声が聞こえた。だが、私はそれどころではなかった。サメが来るかもしれないと思ったからである。そして、あせればあせる程つかむ岩は滑り、かろうじて少し上がりかけたところで再び海に落ちてしまった。それを見てギャラリーはさらに爆笑した。しかし、冗談ではない。サメが来るのにどうして誰も助けてくれないのか、と思っていたら、なんと、すぐ近くを何人かの子供が悠々と泳いでいたのである……。
 私は急に冷静になって岩の上に何となく上がり、来たときの10分の1位の速度で慎重に岸へと向かった。人々は皆笑いながら私に注目している。凄くいやだったが、そこを通らないとバンガローに帰れないので、顔を俯けたまま歩いた。岸が近づくにつれ、人人の声がハッキリ聞き取れるようになった。「みて、みて、びちゃびちゃよ」とか「浅いのにねぇ……」などと無責任なことを言っている。おまけに2〜3人が拍手までしてやがる。どうにもカッコがつかないので、思い切って「がちょ〜ん」と言おうかとも考えたが、これでハズしたらもう生きて行けないと思い中止した。そして岸に上がり、バンガローに向う水もしたたる私の背中に、人々の笑い声がいつまでも響いていた……。
 −−この悪夢のような事件以来、私は釣りを一切やっていない。
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