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身延 |
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日蓮大聖人足跡 |
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身延山 久遠寺 (みのぶさん くおんじ) |
![]() 三門 |
![]() 本堂 |
![]() 祖師堂など |
![]() 御真骨堂 |
久遠寺は日蓮宗身延派の本山です。正式名称は「身延山妙法華院久遠寺」です。1281年(弘安4年)11月24日に御堂を新築して久遠寺と命名されました。春は桜、秋は紅葉で知られ、観光地となっています。三門から本堂までは、急な階段の「菩提梯(ぼだいてい)」、坂の「男坂」、緩やかな坂の「女坂」のいずれかで行くことが出来ます。また本堂付近までタクシーで行くことも出来ます。 1274年(文永11年)5月17日、日蓮大聖人は山深い身延の波木井六郎実長の館に到着され、6月17日に実長が寄進した西谷の草庵に入られました。現在の「御草庵跡」です。ここで御書をたくさん書かれました。以前久遠寺は西谷に位置していましたが(現在の本堂より低い所)、1474年に身延派の第11世法主日朝により現在の地に移転されました(御草庵跡より高い所)。日蓮大聖人は9年間身延に滞在されましたが、常陸の国へ湯治のために行かれるまでは一度も身延を出ることはなかったのです。 愚かにもその寺では日蓮大聖人のことを、『日蓮聖人』・『日蓮大菩薩』などと間違った表現をしています(「日蓮大聖人」と表現している場合もある)。一体この宗派はどれが本当の呼名なのかと思いました。鬼子母神を祀ったり、おみくじがあったり、賽銭箱が置いてあったり、日蓮大聖人の教義に違背するものがたくさん有りました。本尊まで間違ったものを使用して、その上売り物の本尊まであるため、お金を出すほど幸せになれると言わんばかりのものでした。『日蓮がたましひ(魂)をすみ(墨)にそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ』(経王殿御返事、P.1124、L..11)を守っておらず、本尊雑乱であることが明らかです。 宝物館(博物館)のみ入場が有料ですが、日蓮大聖人に関する展示物はあまり展示されていません。これなら千葉県の清澄寺と誕生寺のほうが見る価値があります。1875年(明治8年)の大火では、『立正安国論』・『開目抄』・『報恩抄』・『撰時抄』など約50部の御真筆を焼失してしまいました。 日蓮大聖人の御灰骨があるといわれている「御真骨堂(ごしんこつどう)」がありますが、実際に日蓮大聖人の御灰骨は身延離山以降、身延山久遠寺にはありません。日興上人が身延を離山された時に、日蓮大聖人の御灰骨を持って富士山にある日蓮正宗の大石寺(たいせきじ)に移されました。この事実に不利になった身延派は「日興上人が身延離山し、第2祖は日向となった」と主張しています。
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奥之院 思親閣 (おくのいん ししんかく) |
![]() 奥之院 思親閣 |
![]() 日蓮大聖人の像 |
![]() 釈尊の像 |
![]() 東側展望台からの風景 (上:富士山) (下:富士川) |
久遠寺から「身延山ロープウェイ」で奥之院へ行くことが出来ます(所要7分)。奥之院駅付近に東側展望台があり、そこからの風景は素晴らしいです。下には富士川、上には富士山が僅かに見られます。奥之院では、日蓮大聖人の像や、釈尊の像があります。 奥之院思親閣の「思親」とは、親を思うことです。日蓮大聖人がこの峰から小湊の両親や清澄寺の師匠を思っていたと言われています。但し奥之院は日蓮大聖人によって建立された寺ではありません。
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日蓮大聖人について |
そして日蓮大聖人は中国の故事に従って、1274年(文永11年)5月12日、鎌倉を出発して身延へ向かいました。赦免後1ヶ月半でした。このときの記録は「三度国をいさむるに用いずは山林にまじわれ」(報恩抄、P.323)とあります。これは日蓮大聖人が絶望や逃避したわけではありません。日興上人と波木井六郎実長との合議により、日蓮大聖人は身延へ招かれたのです。波木井一族は鎌倉と甲斐を度々往来していました。1274年(文永11年)5月17日、日蓮大聖人は山深い身延の波木井六郎実長の館に到着され、6月17日に実長が寄進した西谷の草庵に入られました。身延で9年間滞在され、弟子の育成、弘教指導、御書執筆の日々でした。 |
「熱原の三烈士」(熱原の法難)と大御本尊建立![]() 駿河国富士地方では、日興上人が中心となって弘教が進み、僧侶も民衆も大聖人に帰依するようになりました。 熱原郷(現在の静岡県富士市「厚原」)では、天台宗の滝泉寺(りゅうせんじ。現在は無い)の院主代の行智(ぎょうち)が農民信徒を殺傷するなどして、脅す事件が起こりました。行智らは1279年(弘安2年)9月21日、熱原の農民信徒20人を無実の罪で捕らえて鎌倉へ護送しました。平左衛門尉頼綱は農民信徒達に対して、日蓮大聖人の仏法を捨てて、念仏に改宗するように迫りました。しかし農民信徒達は、平左衛門尉の私邸での拷問にも負けず、「南無妙法蓮華経」と題目を唱え抜きました。10月15日、神四郎・弥五郎・弥六郎(熱原の三烈士)の3兄弟が処刑され、他の17人は追放されました(熱原の法難)。熱原の三烈士の墓は現在大石寺の正本堂跡地付近にあります。 この農民信徒達が天子魔に負けずに信心を貫いた不惜身命の姿に、日蓮大聖人は10月1日に『聖人御難事』を著されて出世の本懐を遂げる「時」が来たことを宣言され、10月12日に本門戒壇の大御本尊を建立されました。 |
久遠寺の命名 草庵の老朽化が進み、1277年(健治3年)に草庵の柱は転倒し、壁は倒れてしまいました。それでも多くの門下が集まり、1281年(弘安4年)11月24日に十間四方の御堂を新築し、久遠寺と命名されました。 |
身延から池上へ![]() |
最期 10月8日、主な法弟を枕元に集め、本弟子6人(日昭・日朗・日興・日向・日頂・日持)を定められました。13日には再度集め、『池上相承書(身延山付嘱書)』(御書P.1600)を示されました。そして門下の読経唱題のうち、午前8時ごろ61歳で御入滅されました。14日の午後8時頃入棺となり、15日の深夜12時頃に荼毘に附し、身延で埋葬のために21日に弟子たちは池上を出発しました(現在、御灰骨は大石寺にあります)。 |
『身延相承書』と『池上相承書』 (二箇相承) |
身延相承書 日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり、国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり、時を待つべきのみ、事の戒法と云うは是なり、就中(なかんずく)我が門弟等此の状を守るべきなり。(御書P.1600) 池上相承書 釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す、身延山久遠寺の別当(べっとう)たるべきなり、背く在家出家どもの輩(やから)は非法の衆たるべきなり。(御書P.1600) |
身延離山 |
日蓮大聖人御入滅後 日蓮大聖人が御入滅になられ、日興上人は『二箇相承』(『身延相承書』と『池上相承書』)の御遺命のとおりに大聖人の御灰骨を持って身延山へ帰り、一宗の総貫首であり、久遠寺の別当として就任し、入山されました。日興上人は身延に大聖人の御廟所(ごびょうしょ)を建てて御灰骨を納め、百か日法要を行いました。その後、六老僧を含む、主な弟子18人が月番を決めて御廟所の守護にあたることになりました。 五老僧の謗法 ![]() 日興上人を除く五老僧とその弟子達は墓輪番制を守らず、身延山と日興上人から離れて行きました。しかも五老僧は弾圧を恐れて、天台沙門(てんだいしゃもん)と名乗るなど心身共に落ちてしまいました。 1285年(弘安8年)、六老僧の一人である民部日向が身延に登山してきたため、喜ばれた日興上人は日向を学頭職につけました。一方、日興上人によって入信した地頭の波木井実長(はきりさねなが)は、初めは日興上人が久遠寺の第二祖になられたことを大聖人の再来であると喜んでいましたが、日向と知り合うにつれて厳格な日興上人から離れ、鎌倉の軟風にかぶれた日向に従って、釈迦如来像の造立、神社への参詣、福士の塔(ねんぶつ)への供養念仏道場の造立という四箇の謗法を犯すに至りました。 身延離山決意 波木井実長は日興上人の度々の訓戒にも従わず、「私は民部阿闍梨(日向)の弟子である」等と言い出し、ついに「私も故聖人の弟子であり、老僧達も同輩ではないか」との暴言を吐きました。 このように身延山は日向の邪義と波木井実長の違背によって、ついに謗法の地となってしまいました。日興上人はこのことを深く悩みましたが、大聖人の「地頭の不法ならん時は我も住むまじき」との御遺言に照らして、大聖人の正義を後世に伝えるため、やむなく謗法の地となった身延山を離れることになりました。この時の日興上人の御心境は『原殿御返事』に拝する事が出来ます。 富士山の大石寺(たいせきじ)へ 1289年(正応2年)の春、大御本尊、日蓮大聖人の御灰骨など、全ての重宝を護持して弟子と共に身延を離山された日興上人は、上野郷の地頭であり、日興上人の弟子である南条時光の招きにより、南条家に移られました。南条時光は日興上人に大石ヶ原(おおいしがはら)を御供養し、日興上人は富士山を背景にした景色の良い大石ヶ原に弟子檀那の協力により、1290年(正応3年)10月12日、12間4面の大坊を建立し、『多宝富士日蓮華山大石寺』と名付けられました。 現在、日蓮大聖人の仏法は創価学会により192ヶ国で実践されている宗教になりました。一方、身延山は身延離山以降、完全に謗法の山となりました。 |
久遠寺へのアクセス |
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身延線の旅 |
身延線はJR東海の路線で、富士から甲府まで全線で88.4kmです。列車は遅く、飛ばしても80km/hです(富士=西富士宮間、鰍沢口=甲府)。カーブが多いため、殆どの区間では40〜60km/hほどしかスピードが出ません。山の中を通り、富士川に沿って走ります。西富士宮から鰍沢口までなら景色を楽しめます。天気がよければ、富士から西富士宮まで富士山が良く見えます。 身延駅まで行くのに、富士から乗車した場合と、甲府乗車した場合と比べて、ほぼ同じ所要時間です。特急「ふじかわ」号が走っていますが、これもスピードが出ません。乗り降りにかかる時間が少ない分、普通列車より早く着くことは確かです。快適な席で楽しみたい方には特急「ふじかわ」号がお勧めです。スロートラベルを楽しみたい方は普通列車がお勧めです。身延までは是非身延線の旅をお楽しみ下さい!
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