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 ここを訪れてくださるほぼ全ての方が、 Cislunar Sky 様が2001年11月末をもって閉鎖されたことをご存知のことと思います。
 数々の名作の全てがネット上から消えてしまうのはあまりにももったいなく、せめて1つだけでもと、私がキリバンを踏んだときにリクエストさせていただいたお話を頂戴してまいりました。
 鶴川さんのサイトで大河連載されていた Room's シリーズの2人ゆえ、単品では状況が判り難かろうと思い、ちょいと補足説明などさせていただきます。

 2人で北海道旅行に行く前日、アリスの留守中に火村がマンションに帰宅。
 それで、壁に掛かったアリスの直筆メモ入りカレンダーにふと目を止め、そうか(恋人になって)もう1年になるのか…… と感慨に耽るシーンがあるのです。
 ここがツボに入った私は、『自分だけにしか判らない印をこっそりと書きこまずにはいられないアリス』をリクエストいたしました。『もちろん火村にはお見通し』ということで(笑)

 それに応えて書いて下さったのが以下の小説です。鶴川さま、その節はどうもありがとうございました。
 皆さま既に読まれていることと思いますが、ここに置かせていただきますので、また恋しくなったら読みに来てください。



        微 熱 1




 アリスはふてくされたように、音を立てて腰を下ろした。
 ソファの軋む音までが、癪に障る。
 何かに八つ当たりしてやりたい気分だったが、グッと堪えて両膝へ乗せた手に力を込めた。
 ―――大人げない。
 きっちりと判ってはいても、腹立たしい気持ちは殺せない。
 その感情は詰まるところ「会いたい」という感情を表しているのだが、アリスは認めたくなくて目を逸らしている。
 しかし、目を逸らすにしても、そこを見るのではなかった。
 「うう……」
 うめき声が漏れる。
 視線を当てた先。
 壁に掛かったカレンダーは捲られ、最後の一枚となっていた。
 11月と12月。今年ももう終わる。それは良い。自分で捲ったのだし、また今年もつつがなく年を越せそうだと、ニヤリとした笑いを閃かせたのは、他ならぬ自分なのだから。
 貴重で、生命線を握っていると言っても過言ではない締め切りだけが、キュッと赤いペンで書き込まれているカレンダー。
 リビングに飾るには些か素っ気ないとも言えるそれ。
 しかし、これはリビングに飾るにもってこいのものだったのだ。
 ―――先月までは。





 9月某日。
 月後半の、とある日に、アリスはぽつんとシミのように―――あるいは、書き間違えたかのように、赤いペンで丸を書きかけた。
 閉じられなかった丸を見て、1人ほくそ笑んだのは、新たにカレンダーを捲ってすぐのことだった。
 ―――気がつくだろうか。
 9月のまだ暑い日差しが舞い込むリビングで、ペンを握ったまま、じっとその日付を見つめた。
 平日。
 何もない日。
 誰かと会う約束も、締め切りもない。
 ―――けれど、アリスにとっては思い出深い日だった。
 一年前のその日は。
 アリスが印を付けた日は、火村がフィールドワークにて怪我を負った日だった。
 それは、すなわち、自分が親友に対して友情以上の気持ちを抱いていると自覚した日でもある。
 思いを告げあったのは11月に入ってからであるが、そんなあからさまな日に印を付けるつもりは、アリスにはなかった。
 そんなことをしようものなら。
 アリスはペンを置き、脳裏を過ぎった―――にんまりといやらしい笑いを浮かべている―――火村に向かって肩を竦めて見せた。
 ここ一年付き合ってきて、今更ながらに思うことだが、火村もアリスも意地っ張りである。
 お互いに同じことを思っていたとしても、どちらかが隙を見せるまで、考えを吐露することはない。そして、隙を見せたが最後、良いように相手のペースに持ち込まれてしまうのだ。そんな油断のならない火村相手に、どうしてあからさまに印を付けられよう。


 11月3日。
 その日、恋人となって1年目を迎える。


 記念日というものに疎い火村でも、日付はどうあれ、11月に一歩を踏み出したことぐらいは覚えているだろう。
 だから。
 11月3日に印は付けない。
 ―――これは自己満足だ。
 アリスはソファに座り、書き損じを装った印を眺める。
 (当然、それらしく見せるために、次の日にきちんと丸をつけてある。)
 病院での火村を見たときに、自分の思いを自覚したと、何かの拍子に告げたことがあった。もしかしたら、それを覚えているかもしれないが、確信を得ることは出来ないだろう。
 11月3日に誘いをかけるつもりはないし、10月のその日にだって、何もするつもりはない。
 ただ。
 何かをせずにはいられなかっただけだ。
 あの日。
 自分を受け止めて貰える至福を味わったこと。
 側にいて欲しいと思う人間に、同じ気持ちを返して貰えたこと。
 そして、何よりも、それが、一番近くにいた、火村自身であったことを。
 誇らしく、誰かに自慢したかっただけだ。
 けれど、それは単なる惚気になってしまうだろうし、火村自身には口が裂けても言いたくはない。(当たり前だ。これ以上、図に乗らせてたまるか!)


 さて。
 火村は気づくだろうか。





 札幌へ旅行に行く前日。
 こちらで1泊して一緒に空港へ向かうことになっていた。
 用意を整え、食事は外へ取りに行くこととして、冷蔵庫を片づける。
 夕刻近くになり、のんびりと恋人の到着を待っていたアリスは、ふいに旅行へ持って行くつもりだったモノを買い忘れていたことに気がついた。
 束の間、出てしまおうか。火村を待って、食事に出たついでに買ってこようかと迷う。
 しかし、モノがモノだけに、男の眼前でそれを購入するところを見られたくはなかった。
 仕方ない。
 入れ違いになったとしても、火村は合い鍵を持っているだろうし。
 アリスは決心して解熱剤を買いに行くこととする。
 傷はもうかなり直っていた。だが、用心しすぎると言うこともないだろう。
 財布を握りしめ、アリスは急いで戻ってこようと決意して、家を飛び出したのであった。



 そうして、薬とついでに靴下も購入したアリスは、案の定、入れ違いに帰ってきていたらしい火村の靴を玄関先で見つけ、声を張り上げた。
 「火村? なんや、けっこう早かったな」
 言いながらリビングへと入ったアリスは―――いつ来たのかは判らないが―――立ったままの火村を見て、首を傾げる。
 「すまんすまん、待たせてもうたか?」
 振り返った火村が何も言わずに自分を見つめるのを受け、やはり来るのが判っていながら家から出たことを不快に思ったかと謝ると、男はわずかに苦笑して見せた。
 「馬鹿。そうじゃねぇよ」
 「え。したら、なんやねん」
 「アリス」
 「はい」
 「―――お帰り」
 きょとんとし、ついで笑みを浮かべた。
 「ただいま」
 ちゃんと言うてなかったな。
 照れ臭さを隠して抱えていた紙袋をテーブルに置き、キッチンへと入りながら、チラと振り返る。
 「いつぐらいに帰って来たんや」
 「そう前でもない」
 「ふぅん」
 「ところで、飯、どこに食いに行く? 俺は今日、チャーハンを食べたい気分なんだ」
 「チャーハンかぁ。したら、ほら、夏に行ったトコ、行ってみようか。あそこ、安かったし、腕もまぁまぁやったよな?」
 コーヒーを入れかけていた手を止め、火村を振り返ったアリスは、
 「火村?」
 「ん?」
 「聞いとるんか、人の話?」
 何を見ていたのか。
 思わず視線を追ってしまったアリスは、ばれないようにグッと手にしていたコーヒーの缶を握りしめた。


 カレンダー。


 火村はカレンダーを見ていた。
 アリスが目で追ったのに気がつき、すぐに逸らしてしまったけれども。
 確かにそこを見ていた
 ―――ばれた?
 跳ね上がる鼓動を押さえ、何も気がつかなかったフリをしてキッチンを出る。
 火村は踵を返して鞄から財布をとりだし、ポケットにしまい込んでいた。
 「すぐ出るだろ?」
 「あ、ああ」
 「その前にトイレ」
 「ことわらんでええっ」
 思わず叫んだアリスを、火村は何故かニヤリと笑って見やり、スタスタとトイレに入ってしまった。
 「―――なんやねん、もう……」
 脱力しながらも、アリスは男の表情を思い出し、片手で顔を覆った。
 ―――確実に。
 確実に、ばれた気がする。
 アリスが、カレンダーに書き損じの丸を描いた訳を。
 その日に何を思っているのかを。
 ―――いや。
 いや、気のせいや。きっと。
 きっと、気がついてないって。
 明日からの旅行を平穏無事に終えるためにも、と己に言い聞かせ、アリスはしばしカレンダーの存在を忘れることとしたのであった。