微 熱 2
旅行から戻り、9月が終わって、10月も―――早くも、だ―――終わりを見定めるころとなった。
しかし、だ。
しかし、何度かここへと足を運んだにも関わらず、火村は何も言ってはこない。
気がつかれなかったのだろうと胸を撫で下ろしながら、アリスは言葉に出来ない感情を抱く。
あの、火村が、気がついていて何も言ってこないということは考えられない。
―――ほんまに気がついてないんかな。
単純にアリスのスケジュールを確認していただけなのかもしれない。
旅行前日に見た、男の視線を思い、アリスは眉間に皺を刻み込む。
いや、もしかしたら。
いつもいつも、からかってはアリスを怒らせている自分を顧みて、言葉にするのは止めようとしているのかもしれない。
「火村が?」
自分で考えて笑ってしまった。
そんな男ではないだろう。
10年以上も見てきたのだ。チャンスを逃すような男ではないことぐらい、誰に言われなくてもアリスが一番良く知っている。そんな火村など、想像することも出来ない。
同じように、些細な風景の中から、思いもよらない部分まで読み取ることに長けている男が、カレンダーに書かれた合図を読み取れないことなどあるだろうか。
否。
アリスはニヤリと笑う。
―――そうか。
案外に子供っぽいところがある火村のことだ。
当日まで何も言わず、いきなり自分を驚かせる手段を選んだのかもしれない。
―――都合の良いことを考えていると、どこかで警告ブザーが鳴っていたが、アリスは端から聞こうともせず……。
こみ上げてくる期待と共に、11月を待ったのであった。
そして。
11月3日。
火村は来なかった。
「やってられるかっちゅうねんなっ! なぁ?」
罪のないクッションに人差し指を突き付け、アリスは上気した顔を近づける。
リビングに置かれているガラス製のテーブルの上には、空へと刻々と近づいているワインの瓶がひとつ。
まだ夕刻ではあったが、とうとう痺れを切らして開けてしまった。
どのみち、日曜のこの時間に誰かと約束しているわけでもない。
いくら酔っても迷惑をかける相手もいない。
「―――約束……」
くにゃり、と指を曲げ、アリスは情けないほどに眉を下げる。
「正直に言うとったらえかったんか……? 今日は一緒にいたいって?」
だが、ただ会いたいというのでは無しに、付合いはじめた日を一緒に祝おうなどと、どの面を下げて言えというのだ。
それに。
「別に、俺はアピールするつもりで書いたんやない。ただ、……書きたかっただけやし」
ポフッと顔をクッションに埋め、アリスはソファに腰を下ろし、体を倒すという苦しい体勢でしばらくじっとしてみた。
―――そうや。
なんで付合いはじめた日をこんなに気にしとるんや、俺。
胸の告白はすぐに答えを見付けた。
嬉しいからだ。
それはそうだろう。
そりゃ、嬉しいわ。君のこと、好きやし。
短いとは言えない一年という日を共に過ごせたのだと確認できる今日を迎えられたことも嬉しい。
ここに君がいてくれたら、もっと嬉しいけど。
ちらっと本音を吐き、アリスはクッションに頬をこすり付ける。
せやけど、なんやろ。
何が悔しいんやろ。
カレンダーにつけた印は自己満足の為だった。
火村が気がついていようといまいと。
どちらでも良いと思っていたのは、確かに自分であったのに。
「―――君は、俺とのつきあいをどう思ってるんやろうなぁ」
特別な日。
今日は特別な日ではないのだろうか。
その日を一緒に過ごしたいとは思ってくれないのだろうか。
何も言わなくても?
何か言わなければ?
「甘えてるんかなぁ、俺」
呟いて、もう一度顔を埋めようとした時だった。
「どちらかというと、もうちょっと甘えてもらえた方が、俺は嬉しいけどな」
「―――火村?! なっなっなんでここにおるねんなっ! お約束すぎるやないけっ」
慌てて飛び起きたアリスは、今まさに姿を現したと思しき火村に指を突きつけ、大声で叫んだ。
わざとらしく耳を押さえ、それから肩を竦めてみせた火村は、「あー疲れた」などと言いながら、ネクタイを緩め、テーブルに置かれたワインを取り上げている。
「火村!!」
「うるせぇぞ。そう何回も言われなくても、自分が火村という名前だってことは知ってるんだ」
「あほ! そないなこと言ってる場合か!」
「アリスはどんな場合だと思ってるんだよ?」
「俺が聞いとるんやっ!」
「台詞の意図が掴めないな。だいたい、さっきからお前、言ってることが滅裂だぞ? ―――まぁ、1人でツマミも食わずにこれだけ飲んだら、酔いも回るか」
コトン。
ワインを置いた火村は、足でテーブルをずらし、アリスの膝の間に膝を突いた。
驚いて身を引く彼にはかまわず、その両膝に手を置き、下からじっと目を合わせてくる。
「な、なんやねん」
「アリス」
「せやから、何や!」
「寂しかった?」
「〜〜〜〜!」
「悔しかっただろ?」
「なっなんでっ」
火村の手が静かにアリスの膝を撫でる。
「俺が忘れてるとでも思ってたか?」
ドキッと胸が鳴り、アリスは居心地悪く身じろぎをしてしまった。
しかし、火村の手は揺るぎ無く彼の膝を押さえつけている。
静かに注がれ続ける視線。
目を逸らすことも出来ない。
思わず困ったように沈黙を守っていると、表情を消して下からアリスを仰ぎ見ている男が、低く囁いた。
「あんな、あからさまな印をつけて、人を煽っておいて……」
「―――」
「何も言わないで済ませようとした自分を、棚に上げておいて」
「―――」
「行動を起こしてくれないと俺を詰ったか?」
「火村」
「来てくれないのかと、今日を一緒に過ごしてくれないのかと、俺を恨んだか」
「火村!」
「アリス。お前はもうちょっと大人になれ」
「なんやと?!」
「人に、『欲しいものはちゃんと欲しいと言えるようになれ』と言っていた人間はどこのどいつだ?」
「―――」
「大人っていうのは、人に言った言葉ぐらい実践できてるもんだろ」
火村の手が伸び、アリスの腕を掴んだ。
ぐ、と男の背が伸ばされ、顔が近づいてくる。
「アリス」
「―――」
「判るか? ―――俺は怒ってるんだよ」
「火村……」
「一言で良い。どうして言わなかった」
1人でワインをあけ、クッションを相手に文句を吐くぐらいなら。
俺に言えば良かっただろう。
今日だけは一緒にいたい、と。
じっと、目の動きすら見逃すまいとでもするかのように覗き込む火村の視線に、アリスはクシャリと顔を歪ませる。
「せやけど……」
「―――」
「恥かしいやんか!」
「……なんだと?」
「お、俺ばっかり、そんな、こんな日を気にしてるみたいで、なんや青臭いまんまで、約束なんてねだることなんてできへん!」
「―――」
「だいたい、君が、火村が今日のこと、覚えてるなんて、保証もないやろ。俺だけが覚えとったらどうしようとか、き、記念になんてしてたらどうしようとか、火村は誕生日とかまで忘れるような奴やし。恋人よりも友達だった時のが長いし、カレンダーに印つけたりなんて、子供みたいやし」
「アリス、アリス」
「記念日やなくても、一緒にいたいって思ってるし」
「アリス」
「ああ、もう、何言うとるんか、よぅ判らん!」
「そりゃ、俺の台詞だ、馬鹿」
火村は苦笑して、アリスの前髪を撫で上げ、膝立ちのまま、彼の頬に唇を落とした。