戻る


        微 熱 3





 酔っ払ってるよ、お前。
 と囁いた男は、図らずも真情を吐露してしまった形となった自分に気付き、呆然としているアリスをよそに、キッチンへと向かってしまった。
 カチャカチャと音を立て、コーヒーでも入れているらしい。
 目を閉じて、耳だけでその動作を追ったアリスは、その音に郷愁を誘われた。


 ―――そういえば。
 一年前の今日にも。
 同じ音を耳にした……。


 「―――火村」
 「ん?」
 「ごめん」
 「―――」
 肩を落として呟く。
 火村の返事はなかった。
 それも当然か。
 酔いがさめ始め、霞みが晴れた頭で、アリスは自嘲する。
 意地を張って、矜持やら何やらでたった一言を告げることも出来ず。
 挙げ句の果てにワインで酔っ払って意味不明のたわ言を言い募った男を。
 いくら火村でも―――火村だからか?―――簡単に許すなどとは言えないだろう。
 たとえ、恋人でも。
 恋人であるなら、尚更。
 反省し、すっかりとしぼんでしまったアリスの前に、コトンと硬質な音を立ててカップが置かれる。
 湯気が立ち上るそれ。
 子供を宥めるように乳白色が湯気を立てているのを見て、アリスがちらと顔を上げる。
 「お子様にはホットミルクを。定番だな」
 「―――子供がワインを飲むか!」
 「ところが飲むんだよな。このお子様は」
 「―――悪かったって謝ったやろ」
 「多いに反省するように」
 「なんやねん、偉そうに」
 「言っておくが、アリス。今回の被害者は俺だ」
 大袈裟な物言いに、隣りへ腰を下ろした男を睨み付けた。
 「被害者やと?!」
 「その通り。被害を被ったぜ、俺は」
 「どんな被害を被った抜かすつもりや」
 「カレンダーを見て、俺が気がつかないわけないだろ」
 いきなり飛んだ話に目を白黒させていると、火村は深い溜め息をこれ見よがしについてみせる。
 「良いか、アリス。俺はお前のどんな信号も見逃すつもりはないんだ」
 「はぁ」
 「それから、あのカレンダーにお前がなんでも書き込む癖を持っていることも知っている」
 「いつのまにかクセになってもうたんや」
 「酔っ払いは黙って人の話を聞いてろ」
 じろりと睨みつけられ、後ろめたいところがあるアリスは、肩を竦めて口を閉ざした。
 「アリスから、俺が入院した時の話は聞いてたしな。去年のことをお前が思っていることは、すぐに判った」
 チラリと横目で流し見られ、アリスは頬に朱を散らす。
 それに苦笑した火村はその手で彼の頭を小突くと、
 「いつ、今日こっちに帰ってこないかって誘いが来るか、一日千秋の思いで待っていたんだぞ? それなのに、アリスはカレンダーに印をつけたことも忘れたみたいに過ごしてるしな」
 「それはっ!」
 「俺にはそう見えたんだ」
 「―――そんなこと、あるわけないやんか」
 「その可能性も考えたけどな。少なくとも表面上は……―――、会った時の素振りも、電話での声音にも、見事にお前は見せなかったよな?」
 「それ言うたら、君かて」
 「当り前だ。お前が言わないのに俺が言えるか」
 「なんでやねん!」
 「先に思わせぶりなことをしたのはアリスだろ」
 率直な指摘に言葉を失う。
 「それで、俺は黙って成り行きを見てみたわけだ。お前がどうしたいのか、とな。―――そのあとの俺の思考も逐一辿ってみせようか?」
 「いや、なんとなく言わんとする部分は判る」
 「それは、今、俺の表情が見れるからだろ?」
 「そうやな」
 「隣りにいて、俺の顔が見られるから、俺の考えていることも判る。手応えも感じるだろう」
 火村はそっと指先でアリスの頬を辿っていく。
 「本当は、アリスからお呼びがかかるまで来るつもりはなかった」
 「―――そう、か」
 「結局、我慢できなくて来ちまったけどな」
 苦笑した男は、平素には『冷たい』と表される眦を和らげ、指を追う様に唇を落とす。
 アリスの眦に。
 頬に。
 鼻先に。
 「―――お前はいつも俺を余裕かましてると、見てるかもしれないけどな、アリス?」
 「……うん」
 「俺だって、けっこうギリギリなんだ。こういった日に試すのは止めてくれ。他の日だったらいつでも受けて立ってやるから」
 「―――うん」
 「アリス」
 「―――……なんや」
 「今日を記念としたいのは、お前だけじゃないんだぜ……?」
 低い囁きは唇に落とされた。
 触れ、啄ばむ動きをする火村の口付けを、余すことなく味わいながら、アリスはしめやかな吐息を洩らす。
 頭の中で、壷に注がれていく水のイメージが湧き上がった。
 冷たい水であるはずなのに、注がれれば注がれるほど。
 湛えられれば、湛えられていくほど。
 全てを暖めていく。
 埋めていく。
 「―――……っはぁ」
 離れた存在を確かめるように、瞼を押し上げたアリスは、そこに、深い潤いを齎す人を見付け、和えやかな笑みを浮かべた。
 「火村」
 「……ん?」
 「好きや」
 「―――」
 「今日、本当は、なんもせんでもええ。ただ、そばにいたかった」
 「―――」
 「けど、約束はしたくなかったんや」
 「どうして? 俺はお前の言葉を待ってた」
 「うん。それについては、謝る。俺も君の言葉を待ってた部分もあるし」
 「なのに、約束はしたくなかったのか?」
 「―――約束せんでも、いっしょにいられるって思うてたんや」
 早口で言いきってしまった。
 それは、約束をしないでも、同じ時間を過ごしたいと思っているはずだという、アリスの甘えや自信や奢りを示すものだというのに。
 火村はどう答えるだろう。
 知らず、上目遣いになってしまったアリスの視線を受け、火村は自分の唇を撫でていた指を外す。
 濡れた唇に、先程の口付けを思い出して1人、赤面してしまった。
 それに呆れたのか。
 火村は苦笑し、アリスの肩を抱き寄せた。
 「……ああ、なるほど?」
 「―――」
 「それは、俺が悪かったな」
 「ひむらっ!」
 「さすがにそこまでは読み切れなかった。俺もまだまだだな」
 「か、からかってんのかっ」
 もがいて腕の中から脱出を試みる。
 けれど、強固な火村の檻はそれを許さず、それどころかより強くアリスを抱きしめた。
 「からかう? 俺が?」
 「お前以外の誰が俺の前にいるっちゅうねんっ」
 「俺しかいないな」
 「あたり前やっ」
 「それも去年の今日という日があったからさ」
 「―――」
 「な、アリス」
 どの面を下げてそんなことを言うのだろうか。
 アリスは呆れた溜め息をついてやろうとし、思い直す。
 今となってはいらない意地を張っていたと反省している部分が、それを打ち砕いて来てくれた火村に、そんな態度を取るものではないと戒めたのだ。
 仕方ない。
 何やら当初の思惑とは外れたが、確かに火村は来てくれたのだし。
 残す所あと数時間。
 お互いの思いを確かめ合った去年の今日という日を、心行くまで味わっても良いだろう。
 「今日だけ」
 「ん?」
 「今日だけ、俺は熱があることにする」
 「なんだ、それ」
 プッと吹き出した男にはかまわず、アリスは火村に廻した手に力を込める。
 間近に迫った男の首筋に舌をはわせ、その薄い耳朶を噛んだ。
 「好き」
 「―――」
 「好きやで。一年前の今日よりも」
 「―――」
 「去年より、君に惚れとる」
 「……アリス」
 「だから、今日を君と迎えられて良かった」
 「ああ」
 「火村が、来てくれて良かった」
 「アリス」
 「意地はってごめんな」
 「許してやるよ。今日に免じてな」
 「うん」
 素直に頷くと、火村はフッと口端を歪め、アリスの脈を図るように手首の裏に指を走らせた。
 「熱、高いみたいだな」
 「……上がる一方や」
 「なら、冷まさないと」
 「どうやって?」
 「俺が受け取ってやるさ。他でもないアリスの熱だ」
 「君の熱は?」
 「お前が受け取ってくれるんだろ?」
 勿論、異存はないことを伝えると、火村は混じりけ無しの笑みを浮かべて、アリスの熱を発散させる為に胸元へと抱き寄せたのだった。



 そうして。
 去年と同じように、熱を高めたアリスは、去年とは違う方法で、熱を冷ましたのであった……―――



H12.5.4

  
鶴川さんへのメールはこちら↑