微速前進
73737番 こむぎさまのリクエスト 『片思い中の二人で、初めてアリスが火村の下宿に泊まった日。』
(※『アリスの自覚後、初めて』ということにさせていただきます。前回のクリスマス話の続きから)
火村がアリスのアパートを訪ねたのは、実に4ヶ月ぶりだった。夏休みは頻繁に泊まりに来たものだが、自分の忍耐力がふと心許無くなって足を向けられなくなって。秋に1度アリスが京都に来たから、会うのは2ヶ月ぶりだ。
クリスマスイブ。
このままアリスと疎遠になってしまうのに耐えられない自分を、火村はそもそもの初めから知っていた。気づいていながら続けていた無駄な抵抗をようやく放棄し、このなんとも気恥ずかしいイベントに便乗したのは、去年のアリスの言葉があったから。
惹かれ合っているのを知らず互いに隠そうとして、どうしても会話はぎこちない。それでもアリスは降ってきた幸せを堪能したし、火村は今までの反動のように飢えを実感させられた。
失いたくないが為に、会うことができない。そんな矛盾を抱えるのはもう止めだ。
「正月はどうするんだ?」
「あー、31日は実家に帰らなアカンと思う。買い物にも駆り出されるやろうし、そのまま泊まりやろうな」
大晦日の晩と元旦の朝は、神棚に上げたお神酒を家族3人揃って頂く。それが有栖川家恒例の年中行事になっている。
実家を出て、初めての年越し。帰って来いと言葉で言われたわけではなかったが、それが暗黙の了解だろうとアリスは思っていたから。
「火村は? 今年も帰省せえへんの?」
「しない。他のヤツらは帰るらしいけどな。だから……」
一家団欒の邪魔はしたくない。火村はそう思っていた。小説を書く時間も欲しいに違いない。だけど。
「来ないか?」
意地を張るのを止めた今では、どんな僅かな時間でも一緒に過ごしたい。そんな火村の急な誘いに、アリスは即答できなかった。
「――――」
「忙しい?」
「い、いや。特には……」
アリスはアリスで、ちっとも遊びに来なくなった火村に、避けられているのではと不安でたまらなかった。だから迷った。それが全て杞憂だったと、確信してもいいのだろうかと。
「来いよ。久しぶりに」
「……行く」
それでも火村の誘いを断ることなど、今のアリスにできるはずもなかった。
と言うわけで元旦の夕方、アリスは寒風で頬を赤くしながら北白川にやって来た。
「あけましておめでとー。今年もよろしゅう」
「よろしく。……なんだその大荷物は」
学生の頃は着の身着のまま、ふらりと立ち寄ることもあったくらいで、缶ビールなどの手土産だけを下げてくるのが常であったのに、今日は両手に大きなスポーツバッグを2つも抱えている。
「うっかり火村んとこ行くんがバレてしもて、おかんにアレもコレもて山ほど持たされてん。死ぬかと思ったわ。片っぽ持って〜」
頷いて火村が受け取った鞄は、確かにずっしりと重い。
部屋に運び込んで開けて見ると、1つの鞄からは幾つかのタッパーに、いよかんがゴロゴロと10個ほども出てきた。もう片方の鞄にはお泊まりセットと、緩衝材代わりにトレーナーを着せられた一升瓶……
火村が荷物を出す間、アリスはストーブの前に陣取ってそれを眺めていた。
「おせちやと、ばあちゃんのと差がつくさかい嫌や言うねん。そんな比べられるほどの腕でもないくせしよって。百年早いっちゅーねん。なぁ?」
アリスは今朝方の騒ぎを思い返して、少し遠い目になった。
「この栗きんとんな、これだけは自信作やさかい持ってき。あといよかん、こないだ箱で買うて来たからおすそ分けや。果物なんか男の子はあんまり自分では買わへんやろうからな。そ・れ・か・ら、っと……」
「えーかげんにせぇ。相手は火村やで? なにそんな張りきってんねん」
「火村くんだからやないの! あんな出来た子、めったにおらんで? 見捨てられんように、しっかり掴んどかな」
「…………」
「あーもー、アンタが女の子やったら、一夜漬けで叩っ込んででも何か手作りのモン持たせるのになー。『男を掴むには、まず胃袋から』や! それやのにアンタときたら不器用でまーしょーもない……」
「……な、んで俺が男掴まえなアカンねん」
「ええやんか。なんなら今から練習するか? 株上がるで〜」
「なんでじゃ!」
「ん? ナニ? 生意気にアンタが捉まえられる方なんか? そういや火村くん、料理上手なんやてなぁ?」
「そら上手いけど…… なんで火村とつかまえっこせなアカンねん」
「せやかてアタシが火村くんを息子に欲しいんやもん」
「無茶言うな!」
ぜいぜいとアリスは肩で息をする。
そんな、昔から相変わらずの冗談で茶化すのは止めて欲しい。否定しなきゃいけないのが辛いから。今は本気で、心の底から欲しいものだから。
いよかんを婆ちゃんにおすそ分けしたら、お返しに小豆の煮たのを分けてくれたので、夕飯はそれに焼いた餅を入れて食べることにする。それプラス栗きんとんではいかにも甘いので、火村の作る大根の味噌汁付きで。
他の学生が見たら驚くだろうが、火村が自炊する姿はアリスに取っては見慣れたものだ。それなのに、久しぶりに見るその後姿になぜだか泣きたいくらいドキドキして、アリスは理由を考える。
(そっか。好きって気づいてから、初めてなんや……)
火村が自炊する姿。手料理の味。他の誰にも知って欲しくない。
アリスの胸に不意に込み上げる独占欲と危機感。こんなに疎遠にしていたら、いつ自分以上の友人ができてもおかしくない。
(そんなん、困る)
「……美味い」
「そうか?」
「うん」
(『男を掴むには、まず胃袋から!』かぁ……)
今朝の母親の言葉がアリスの頭を過る。
(俺、やっぱしそれで捕まったんかなぁ?)
(けど、それやったら、俺が火村をつかまえられへんやん)
「ひむら……」
「ん?」
どうしよう。どうすれば。
火村をつかまえておける方法。想いを隠し通そうとしていたことも忘れ、アリスは必死に考えた。でも。
全然わからなくて。そんな便利な方法があるなら、人類みなハッピーエンドだ。
「あんなぁ、俺、もうちょっと頻繁に遊びに来てもええ?」
忘れられないように、側にいることしか思いつかなかった。
「なんだ? 突然」
味噌汁を口にしたときから、なにやら難しい顔で考え込んでいたアリスの発言に、火村は戸惑う。
「邪魔か? 忙しい?」
「こっちは別に構わんが、お前は大丈夫なのか? そっちこそ忙しいんだろ?」
ずいぶん痩せたなと火村は夏にも思っていたが、その時よりも更にやつれたように見える。顔色も悪い。
「そら忙しいけど。たまにはガス抜きせんと、小説もよう書かんわ!」
「ガス抜きかよ…… 解った。愚痴でもなんでも聞いてやるよ。それでストレス解消になるならな」
それならば、ここに来たときだけでも栄養のある旨いものを食べさせてやるか、と火村は思った。アリスの食生活は、だいたい想像がついていたので。今は特に料理に力を入れている訳ではないが、婆ちゃんにでも習って、少し精進してみようかと。
「……眠いのか?」
まだ早い時間ではあるが、口数が減り、目がトロンとしてきたアリスに火村が声を掛ける。
「婆ちゃんから布団借りて来いよ」
学生はみな自分の分の布団しか持ってこないから、友達が泊まったりするときは、大家さんから客用の布団を借りることになる。年季が入ってだいぶくたびれてはいるが、婆ちゃんがきちんと陽に干して風を通してくれている布団。
「ねーむーいー。火村行って来て〜」
「しょーがねーなー。この酔っ払いが」
「行ってらっしゃ〜〜い」
コンパの日は無論のこと、普段からたびたび火村の処に転がり込んでいたアリスだったから、1番とまでは行かなくとも、その布団にお世話になった回数にかけては上位に食い込んでいるのは間違いない。
でも今日は。
火村が舌打ちしながら部屋を出て行くのを見送ると、アリスはふらりと立ち上がった。
「――――」
火村のいなくなった隙に、押入れの布団を敷いてそそくさと潜り込む。
「……こっちのがいい」
寝煙草は自粛しているらしいのに、それでもふわりと薫るキャメルの香り。それから、火村の匂い。
アリスは毛布の端っこをきゅうっと抱きしめた。外から見ただけでは判らない程度に。火村本人に、そうできない代わりに。
ほんとはそんなに眠いわけじゃない。だけどこれ以上酔ってしまったら、何を口走ってしまうかわからないから―――
ほどよくアルコールが入り、ふわふわと漂い出す意識。ええ顔やなぁ、なんて、視線が1ヶ所に止まってしまったら赤信号。
(今日はここまでや)
また明日。明日もう1日、一緒にいられる。
それから今度は、そう間を空けずにまた会いに来れるから。今度は小刻みに火村を補給できる。
それほど切羽詰らないうちにまた補充しに来よう。アリスはそう決めた。死にそうに会いたくて、憔悴していた日々はもううんざりだ。離れているから不安になる。だったらできる限り一緒にいよう。
何の曇りもなく毎日会っていた、あの贅沢な学生時代みたいに。
「アリス? オイこら」
階下から運んできた布団を、アリスが寝ているすぐ隣に下ろす。例え自分の理性に信用が置けなくても、積み重ねた本が林立するこの部屋で、そこ以外に余分なスペースはない。と言うかアリスが泊まることのなくなったここ数ヶ月の間に、すっかり本の山が占める領域が広がってしまい、積み重ねた山の高さと引き換えにようやく確保したスペースなのだ。
「寝ちまったのか?――ったく」
アリスは火村に背を向け、顎まで布団に埋めるような形で目を閉じている。
『もうちょっと頻繁に遊びに来てもええ?』
先程のアリスの言葉が火村の耳に残る。散々考えた末の発言だったように見えたのに、出てきたのはこんな言葉で。
ここに来るのにアリスに遠慮があったとは、学生の頃の態度からして火村は考えたことがなかった。ただ単に忙しくて来れないだけかと思っていたのに。
自分の回りに意識的に張り巡らせていた見えない壁。それはなぜかアリスにだけは通用しなかったのに、ここに来てようやくコイツにも効力を発揮するようになったのだろうか。よりによって今になって。
(いや。俺のせいか……)
アリスが臆病になった理由を、火村は知らない。だから心当たりといえば、自分が距離を置こうとしたことくらいしか思い当たらない。それでも向こうから手を伸ばしてくれようとするアリスに、言いようのない愛しさが募った。
今すぐにも、自分のものだと宣言してしまいたい。
大切なのに、力一杯抱え込んで、そのうちに押し潰してしまいそうだ。
「アリス……」
柔らかい髪に顔を寄せてそっと触れると、眠ったかと思われたアリスがぽっかりと目を開けて火村を振り仰いだ。
「――火村のアップや〜 うはは。夢に出そう」
「勝手に出すな。出演料取るぞ」
「それくらいサービスせえ」
「やだね」
「ケチ。ほんなら君も俺の夢見たらええ。それでチャラや」
「酔っ払いが。……じゃあ頑張って出てこいよ」
「君が頑張って俺を出すんや。んじゃおやすみぃ〜」
「おやすみ」
(今更だよな)
特に頑張らなくても、出演者には事欠かない2人だった。それは却って辛いことでもあったが―――
でも。意地を張るのはもう止めたから。
お互いに忙しいのは今までと変わらないが、自分の時間が空いたら差し入れでも持って、顔を見るだけでもいい、忙しい相手の陣中見舞いに行こう。会えないと思うから辛かったのであって、いつでも会えるとなれば、どんなに頻繁に相手が夢に出てきても全然OK。むしろラッキーだ。
(手始めに、初夢に出してやる)
隠し通そうとする後ろ向きな状況の中で、ちょっとだけ前向きになってみた年明けだった。
H14.3.2