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         御予約はお早めに




 12月24日午後6時30分。

 普段は 『定時って何時だっけ?』 という雰囲気の部署だというのに、今日は気づいたら誰もいない。
 いつもは許される限り早く帰りたいと願っているのに、願ってもないこの状況をなんだか素直に喜べなくて、アリスはのろのろと帰り支度を始めた。
 彼氏彼女持ちばかりでなく、仕事のあと連日飲み歩いている面々も、さすがにこの日ばかりはマイホームパパとして存在をアピールせねばと、みな早々に帰って行ってしまった。
 アリスも表向きは、これから彼女とデートということになっている。
 そうとでも言っておかないと、周りが煩くて適わないのだ。(新人の癖に生意気な、という声もあったりするのだが) 相手がいないなんてうっかり口に出してしまうと、誰か紹介してやろうというありがたいお声が絶えなくて。

 それは、困る。とても困る。断りきれない人を紹介されたりしたらたまらない。
 好きな人は、ちゃんといるから。
 恋人になんて一生なれない相手だけれど、その1人だけで精一杯。とても他の人となんて付き合えない。





「はぁ。綺麗やなぁ……」
 繁華街はイルミネーションの渦。
 華やかに彩られているのは実際には何週間も前からなのだけれど、ようやくやってきた当日に、いざ本番! という気合いのようなものが感じられる気がして。これでもかというクリスマスディスプレイに圧倒されてしまいそうだ。
 街を行く人々はみな、待っている誰かのために急いでいるのだろうか?
 手に手にケーキの箱を、扱いづらそうに、でも嬉しそうに持っている。今ごろおもちゃ屋さんに駈け込むのんびり屋のお父さんは、家に帰ったとき子供に見つからないよう、大きな鞄に隠そうと悪戦苦闘。ケンタッキーには予約客だけで行列ができ、大きなツリーの飾ってある店先には人々が少しのあいだ足を止め。
 こころなしかカップルや家族連れの数も多いような気がする。
「みんな、楽しそうや」
 微笑ましい光景を目にしてもいつものように温かく感じられないのは、自分の心が冷え切っているから。今は元気になれない。自分の状態をそう分析して、アリスはため息をついた。
 会いたくて、たまらない。
 こんな日は特に。



 いったいいつから会ってないんだっけ?
 時間帯のせいかイブだからなのか、いつもと違う客層の電車に揺られながら、アリスは京都在住の大切な親友にぼんやりと思いを馳せた。
 夏休みの間は、けっこう何度も泊まりに来てくれた。
 しかし休みが終わると同時に、火村の来訪もパタリと止んでしまって。
 忙しいのかな。それともこうやって、だんだん疎遠になっていくのかな……
 寂しくて。会いたくてたまらなくて。そうなってからようやく気づいた。

 好きなんだ、と―――

 今まで気づかずにいられたのが不思議なほど、火村の存在はとてもとても大きくて。いったい何時からこんなに好きになってしまったのか。呆然とする頭でいくら考えても、アリスには判らなかった。
 どこかに境目があっただろうか? それともそもそもの初めから?

 初めて会った日から急速に火村に懐いた自分を、アリスは自覚している。
 それは小説を誉めてもらった――『気になるな』の一言は、アリスにとって誉め言葉に他ならない――からだと思っていたのだが…… 違ったのか?
 それからずっと火村に1番近い位置にいたのに、その贅沢さに気づかなかった。
 人並みに彼女が欲しかったし、憧れの女性もいた。
 火村がそういうのを疎ましがっているのを知っていながら、でも素敵な彼女ができればその考えも変わるかと思って、火村狙いの女の子の頼みもホイホイと引き受けた。
 そのくせ、いざ自分に近づこうとする女性が現れると、過去の経験からどうしても臆病になり、なぜか同じく恋人を作ろうとしない火村に安心したりして。
 コイツがいるからいいや、なんて。
 安心なんてしてる場合じゃなかったのに。そのとき火村が彼女を作らなかったからといって、これからもそうであるはずはないのに。
「俺、大馬鹿者や……」
 事あるごとにバカ呼ばわりされたのも懐かしくて、その許せない言葉だけでもいいから、今すぐこの場で聞きたいと思った。






 ケーキを2つ買って帰る。
 帰り道にある、夫婦だけでやってる小さなお店。店頭のメルヘンなデコレーションは、実家で母親が玄関に飾るのによく似ている。去年のこの日が思い出されて、アリスはふらふらと中に誘われた。
 雑誌に紹介されたりする有名店だと、やたらお上品なサイズだったりするが、ここの庶民的な値段と大きさをアリスは気に入っていた。もちろんしっかりおいしいのだ。
 1人でクリスマスケーキを丸ごと食べるのは、想像すると空しすぎてさすがに手が出ない。でもやっぱり雰囲気は捨てきれなくて、なんとなくイメージの似たの苺のショートケーキを選んだ。
 数は、2つ。
 つい2つと言ってしまったのだ。火村も嫌いじゃないはずだから。思い出していたから。
 一緒に食べたくて、つい。
 (2つくらい、食えるし……)
 そう内心言い訳をして――それならば別の種類を買えばいいものを――同じのを2つ。
 彼女への手土産だとでも思ったのか、店のおばちゃんのニコニコ顔は、幸せな他人を微笑ましく見送る人のそれのようにアリスには感じられた。
 これで傍目には、自分もウキウキと街を往く人々の仲間入りをしたのだろうか。
 こんなに押し潰されそうになっているのに?


 火村は今頃、どんなイブを過ごしているんだろう?
 あの男のことだから、きっとクリスマスなんて関係ない日々を送っているだろうと頭では思っているのだが、猜疑心でいっぱいになったアリスの心が納得しない。
 いったい、誰とどこでどんなふうに過ごしてるの?
 自分の知らない誰かと、楽しく過ごしているのだろうか―――

 火村に予定を訊くことはできなかった。
 (学園祭の日程だって教えてもらえなかったし……)
 避けられてる? とか一瞬でも疑ってしまったから、もう恐くて連絡できない。
 こちらから押しかけたときの様子を、アリスはあれから何度も思い返した。あのとき、火村は迷惑そうにしていただろうか。
『昔つるんでいたヤツが、今でもしつこく付きまとってくる』 なんて思われていたらどうしよう……?
 (違う。火村はそんな奴やない!)
 勝手な想像で相手の人格まで貶めてしまう自分に嫌気が差して、アリスはますます自己嫌悪に陥った。






 重い足取りでアパートに辿りつく。階段を昇ろうとして足を掛けたそのとき。
「アリス」
 建物の影から突然聞こえた声に、背筋が顫えた。例えどんなに久しぶりだろうと聞き間違えようもない、アリスが待ち望んだ声。
「……ひむら?」
「思ったより早かったな。今日も遅くまで残業かと一応覚悟はしてたんだが」
 近づいてくる、懐かしい姿。
 ……本物?
 信じられなくて思わず掴んだ火村のコートの袖はとても冷たくて、過ぎた時間をアリスに教える。
「それか、どこかでクリスマスパーティか、とかな」
 きっとコートと同じく身体だって冷え切っているだろうに、いったいこの男は、ここで何時間待つつもりだったのだろう?
「なんで?」
 一言連絡してくれたら、こんな所で待たせたりしなかったのに。
「なんでここにおるの?」
 こんな寒いところに。こんな日に。他の誰のところでもなく。

「去年、自分が何を言ったか覚えてねえのか?」
「きょねん……?」
 アリスはきょとんと首を傾げる。
 去年はたしか、実家に火村を呼んだんだったが…… 何かあったっけ?
「婆ちゃんしっかり真に受けて、俺がアリスと遊びに行くって思いこんでてさ。娘さんとこ行くの楽しみにしてたんだ。今さらどこにも出掛けないなんて言えっかよ」
 イブだというのに何の予定もない寂しい下宿人たちのために、心優しい大家が誘ってくれる夕食会。アリスもちゃっかり店子に混じって、2度ほどお世話になった。
 去年は、アリスが火村を自宅に誘ったことでめでたく全員の予定が埋まり、ばあちゃんは心置きなく孫と一緒に楽しいクリスマスを過ごせたのだった。その際、アリスはばあちゃんにこう宣言した。
『来年からも火村のことは俺が引き受けたるから―――』

「あ……」
 そうだ。
 去年の自分は、なんて考えなしでお気楽だったのだろう。何の疑いもなしに、これからのクリスマスも火村と一緒に過ごせる気になっていた。
 そんなこと、できるはずもないのに。
 道が分かれてしまえば、付き合う相手も変わって当然なのに……
 今のアリスにとってはいちばん言いたくて、でも決して言えない言葉。自覚してない頃の自分は、なんて無敵だったのだろう。今ではこんなにも臆病になってしまったのに。
 楽しくて、この関係が変わるなんて思ってもみなかった。卒業したらなかなか会えなくて寂しいな、くらいにしか思ってなかった。まさかこんなに苦しい想いを抱くことになるなんて予想もしないで。
 でもそのおかげで今、火村が目の前にいるというなら。去年の天然な自分に感謝するアリスだった。

「……痩せたな。ちゃんと食ってるのか?」
 自分こそ寒さで酷い顔色をしているくせに、火村はそんなことを言う。そんな気遣いがとても嬉しい。
「心配すんなや。あ、けど…… 今日のところはラーメンしかない。どっか食いに行く?」
 普段の貧しい食生活を抜き打ち検査されたようで、ちょっとバツが悪いが。
「あったかけりゃなんでもいいよ」
「おし。その後はビールとケーキな」
「ケーキ?」
「おう。ちゃーんと君の分もあるから」
 手にした小さな箱を掲げ、アリスは今度こそ幸せな人々の仲間入りをした。







 熱いシャワーとラーメンでようやく解凍された火村と、改めて乾杯する。缶ビールはちょっと脇に置いて、まずは火村の手土産の安ワインで。
「よかったよ。お前がちゃんと帰ってきて。さすがに一晩中あそこにいたら、凍死するとこだ」
「阿呆。帰ってきた途端氷漬けのオマエとご対面なんて、御免蒙るわ」
 一晩中なんて。いったい他の誰と、イブの夜を共に過ごせというのか。
 火村だけでいっぱいな自分を少し悔しく思いながら、それでも緩んでしまう頬を、アリスはどうすることもできなかった。火村から見たら、きっと泣き笑いのような情けない顔になっていることだろう。
「俺のことは引き受けてくれるんだろ? ちゃんと、言ったことの責任は取れよ」
 聞きたかった、あれほど欲しかった声がすぐ近くから聞こえる。しかも、こんなに嬉しい言葉で。
「しゃーないなー。誰とも予定のない甲斐性なしのひでおくんは、俺が面倒みたるわ」
「それは俺のセリフだ。独り者はお互い様だろうが」
 顔を見合わせて笑う。ちゃんと自然に笑うことができた。

「はいこれ」
「何だ?」
 カチリと音を立てて、アリスは火村の前に銀色に光る鍵を置いた。
「これ……」
「凍死されたら適わんからな。持っとって」
 ずっと前から渡したかった、この部屋の合鍵。ゆっくりした動作で火村がそれを取り上げ、掌に握り締めるのを見詰める。
「……サンキュ。来年は、ちゃんと部屋をあっためて待っててやるよ」
 来年。
 アリスは目を閉じて、たった今もらった言葉を噛み締めた。



 来年も、また一緒に過ごせるという約束。
 最高のクリスマスプレゼントを貰ったと思った。
 この部屋の鍵を受け取った火村の方も同じことを思っていたなんて、全く気がつかないままに。




H13.12.24


贔屓のケーキ屋さんがあるサラリーマンって…… どんなもんでしょ?(笑)

ずっと前の学園祭話と去年のクリスマス話をしつこく引きずってます。お暇ならまた見てね。