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         〜 憶 〜





 夢から覚めたような気分で、アリスはふらふらとテントを出た。
 一世一代の大仕事だったが、まだ後始末が残っている。このスポーツバッグの中の物を始末しなければならない。
 血に染まったコートとタオル。それに凶器。
 たったそれだけの物しか入っていないのに、ものすごく重く感じた。
 人の命の重さとしては、それでも軽すぎるだろうか。




「アリス」
 そっと。火村ができる限り優しく掛けた声に、アリスはギクリと立ち竦んだ。恐る恐る目を上げると、境内に聳え立つ大きな樹の中の1本に凭れ掛かるようにして火村が立っていた。
「……っ!」
 瞬時にいろんな思いが渦を巻くが、アリスの口からは一言も発せられなかった。手にしたバッグが、ドサリと音を立てて落下した。
 ゆっくりと火村が近づく。
(逃げなければ……)
 そう思ったが、アリスの身体はピクリとも動かなかった。
 アリスは必死で頭の中を探る。新しい記憶、火村との新しい関係の記憶がないかどうか。
 でも、何もなかった。
 出掛ける前と同じ、今までどおりの記憶しかなかった。

 さっきまでの記憶。縁日に2人で来て、そこではぐれたのだ。そして変なジイさんに捕まり、あの怪しげなテントに入った。これはその続きなのだろうか?
 火村が近づいてくる。
 あの出来事は、現在には影響を及ぼさないのだろうか。あの時点から生まれる未来は、この時代には適用されないのだろうか。この火村には繋がっていないのだろうか?
 混乱するアリスの前に、火村はゆっくりと近づいた。
「アリス……」
 火村はなにか痛ましいものを見るような目でアリスを眺め、おもむろに抱きしめた。
 硬直するアリスの耳元に囁きが落ちる。

「おかえり」

 その一言は、アリスの胸を優しく射抜いた。
「あ…、あの」
「いいから。何も言わなくていい」
「……むら、おれ…っ」
「解ってる。解ってるから……!」
 きつく。びくりと逃げ出そうとするアリスの背に手を回し、身動きできないほど強く抱きしめる。
「この、大馬鹿野郎……っ!」
 叱ったつもりが、泣き声のような囁きにしかならなかった。
 火村の脳裏に、あの情景がまざまざと蘇る。
 憎んでいた。殺してやりたいと思っていた相手が、ある日突然に殺された。自分の全然知らない誰かに。
 見たこともない奴だったが、その男は自分のことを知っていた。愛していると言われた。
 一体何がどうなっているのか解らなかったが、憎んでいた相手は死に、火村の殺意は宙に浮いた。
 訳が解らなかった事件の、そのカラクリが。
「……こういう、ことかよっ!」






 忘れられるわけがなかった。紅く染まった光景。あの時の犯人の顔。
 そして大学2年のあの日、隣に座るアリスを見たときの衝撃。
 彼がせっせと埋めてゆく原稿用紙の桝目から、それだけ浮き上がって見えた、『殺』の文字。
 あまりにもあの時の犯人に似過ぎていて、でもだいぶ若くて、あの時の犯人の息子に違いないと火村は思った。顔も性格も呑気そうで、そのことを知ったらコイツはどんな顔をするのだろうかと、悪趣味な興味が湧いた。

 だから近づいたのだ。一言、礼でも言ってやろうかと。



 始まりこそそうだったが、アリスが火村にとって大切なものになるにつれて、そんな動機などいつの間にか忘れてしまっていた。
 こんなに大切な存在になるとは思いもしないで。
 こんなに大切な人間に、あんな罪を背負わせることになるとは、夢にも思わずに。
「アリス」
 これは、罰か―――
 1度抱いてしまった殺意からは、絶対に逃れられないというのだろうか。
(自分の手を汚さなかった代わりに、1番大切なこいつに……!)
 硬直したアリスを抱きしめ、火村は誰にも聞こえない叫びを上げた。

…むら……ひ、むら、ひむら……」
 火村の腕の中で、ガタガタとアリスが顫え始めた。茫然自失に取って代わろうと忍び寄るパニック。
『解ってる』 と―――
 そう言った火村。それでは自分が何をしてきたところなのか、火村は全て知っているのだ。
 アリスは必死で逃げ出そうとした。この腕の中にいるわけにはいかない。火村の憎む犯罪者に、自分はなってしまったのだから。
「アリス、落ち着け」
「や、離…っ!」 
「大丈夫。大丈夫だから。もう終わった。終わったんだ。アリス!」
「ぅぁあ……!」
 逃げ出そうと暴れるアリスを、火村は力任せに抑え付ける。
「これは夢だ。悪い夢だから。忘れろ!」
「ふ…」
「忘れるんだ。……いいな? 愛してるから」
 遠い昔、言われた台詞を火村は繰り返す。
 抜け出そうともがく身体をしっかりと抱きしめ、見開かれた双眸から滂沱と伝う涙を、自分の肩口に押し付けて吸わせた。
 自分は忘れることなどできなかったが、願わくはアリスの記憶が封印されるように。全ては悪い夢として、忘れてしまうようにと祈る。

 と―――
 嘗ての彼がそうだったように、アリスもまた意識をなくしてクタリと火村に身体を預けた。





 先程アリスがドサリと落とした、とてつもなく重そうに持っていたスポーツバッグ。持ち上げたときの驚くほどの軽さに、火村は中身の見当をつける。
 これは自分が背負うべきものだった。
 アリスが持つべきものではないとして、火村はその重みを引き継いだ。





H14.4.21


2人とも救われないですが……
呪縛は2人で背負うのが、ヒムアリ的には1番萌えなのではないかと。