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         Time






 ――― 終わった。
 今の私は、アイツが憎むべき殺人犯だ。
 もう、戻れない………





 転送の際に念じていたのは、『火村が殺したかった相手』 を 『確実に殺せる』 時間。
 コイツかと思った。コイツだと解った。
 もしかしたら人違いの可能性もあったのに。転送失敗ということも(かなりの確率で)ありえたのに。目の前で眠っている人物の首筋に、何も考えずに凶器を突き立てた。
 私はもう、狂っているのかもしれないな……

 右手に張り付いたように離れない獲物を、タオルで包み込み、もぎ放す。見えないようにグルグルに巻いて、もう1枚のタオルで手を拭って。コートのフードを取って更にもう1枚使う。
 でも水分は拭き取れても、赤い色までは取れなくて――― 手のしわの1本1本にまで入り込んで、擦っても更に深く押し込むことになるみたいで。
 例え何枚のタオルを無駄にしようと、この手が綺麗になることはない。
 諦め気分で赤く汚れたそれらをビニール袋に入れる。ビニールコートを脱いで裏返しに丸め、それも袋に入れて、持ってきたスポーツバッグに詰め込む。

 終わった。

 少しでも視線を動かせば、私が奪った命の抜け殻が目に入る。切り裂かれた首筋。ぐっしょりと寝具に染み込み、床にまで滴る血液。壁の天井近くまで飛び散った赤い飛沫。現場写真を見せられただけでも胸が悪くなりそうな。
 これを、私がやったのだ。





 振り返ると、その少年と目が合った。


 目を大きく見開き、一言も発しない。
 私がゆっくりと近づいても、身じろぎもしないで立ち尽くしている。
 私は彼の視界を遮るようにして、ぎゅっと抱きしめた。もちろん、紅い手が触れないように注意して。
「ゴメンな。これは、夢や。悪い夢やからな」
「忘れた方がいい。できることなら」
「忘れるんや。ええな?」
「ゴメン。堪忍な。こんなん見せてしもうて」
「全部忘れて、幸せに生きて欲しい」
「こんなことしといて、勝手なこと言うてゴメンな」
「愛してる……」
 少年はすうっと眠るように目を閉じた。クタリとこちらに寄りかかってくる。眠ったのか気を失ったのか定かではない。
 いわゆるブラックアウトってヤツ? 認識したくない光景に、脳がこれ以上の情報を拒んだのだろう。
 このまま忘れてくれるといいけど……
 私は幼い彼を抱き上げ、隣の部屋のソファにそっと下ろした。





 洗面所で紅く染まった手を洗い流す。水は手が切れそうに冷たい。
 どんなに水で流しても、石鹸で擦ってもなかなか綺麗にならなくて泣きたくなる。ああ、吐きそうだ。
 アイツも、夢を見た後はこんな気分やったんかなぁ。
 俺のこの真っ赤な手と違うて、まだ何もやってない、綺麗な手ぇやったのに。
 きゅっと水を止める。見た目には綺麗になっても、生温かく濡れた感触は容易には消えてくれない。おそらく一生、消えることはないのだろう。

 タイムリミットまであと5分。今までの時間は、永遠とも一瞬とも思われた。
 ソファに寝かせた彼の許に戻る。
 最大の禁忌を犯した直後にも関わらず、私は不思議と落ち着いていた。この子に見られたことも。
 そのこと自体が、私の異常な精神状態を表しているのかもしれないが。
「ひむら……」
 成長後が楽しみな整った顔つき。これが大きくなると、私の大好きなあの顔になるのだ。
 手を伸ばしかけて、やめる。
 夢を見た後のアイツは、私に触れようとしない。その気持ちがよく解った。触れた所から、穢れを移してしまいそうな気がして。ましてや今の私の手は、本当に紅く染まってしまったのだから。
「ひむら」
 火村。
 君は、ちゃんと忘れることができるかな。この忌まわしい光景を。
 私のしでかしたことによって、君は事件の当事者になる。かわいそうな子供になる。それでも。
 君ならちゃんと乗り越えられるやろ?
「火村」
 これから君が憎むべき相手は私。
 事件の被害者が加害者を憎むことはごく自然なことで、何も特別なことじゃない。
 犯人を殺したいと思って当然だ。
 君の殺意は正当。だから、私に殺意を抱いたとしてもそれはあたりまえのことで、いつまでもそれに縛られる必要はない。これを乗り越えて大人になったら、好きなように生きていいんだ。
 だから。

 さよなら、火村。
 君は大きくなったら、何になるのかな?
 たぶん犯罪学者の君とはさよならやろうな。友人の君とはどうだろう? でもまさか恋人ではないよね。
 私が君の恋人になれたのは、万に1つの僥倖。過去からのバランスが1つでも崩れたら、きっとあの未来にはならない。
「ひむらぁ」
 君ともっと別れを惜しんでくればよかった。だけど急だったから、そんなこと忘れてたんだ。
 さよなら、火村。
「火村……っ!」
 最後にキスくらいしようかと思ったのに。しっかり目に焼き付けておこうと思ってたのに。

 どうせ私のやることはいつだって間が抜けている。
 歪んだ視界を袖で拭っている間に、私は彼の許から元の場所に引き戻されていた。






アリスが覚悟してるのは
私的にはこれかな
なんてこったい




殺人シーンなんて、よう書きません……!(>_<)
相手も明記しませんが、まぁこれだと限定されてきますかね。
もしも学校や親戚関係だったら、泊まりに行くくらいの間柄だということに…(苦しすぎ)