*少年サンデーGXです。
なんとなく、ですが。
伝説の(笑)少年マンガ誌『少年キャプテン(徳間書店)』のにおいを感じるのですが、どうでしょうか。
尋ねられても困るか。
とりあえず『GX』の方については、伊藤明弘(BREN-303)氏が登場してすんげ〜嬉しいです。銃弾! 銃弾銃弾銃弾! いいぞ。
あと『燃える』マンガ家 島本和彦氏ですか。
実は、小野敏洋氏が、いいな。『インカちゃん』ですよ(笑)。GXの連載でもちゃんと、マスク少女(っつうか、お姉さま? しかも神様だし(笑))が出てきてますし。基本!? 基本!!(爆)
しかし、これで『西川魯介氏』が登場するにふさわしい少年誌が世に現れたことであるものよ(笑)
つうか、大期待中です。
徳間書店は、さっさとコミック誌に帰ってくるか、さもなくばキャプテン時代の貴重な遺産を放出しなさい(笑)
*うむっ! 三日坊主完成!(爆)
バカですね。
はい。
さて。それはそれとしてメガネっ娘である。
なぜでしょうか?
それは、有名な検索サイト、TINAMIのwebマガジン、TINAMIXで連載されていた、はいぼく氏(サイト『めがねがね』
の主催者)によるメガネっ娘と少女マンガに関する論文『めがねのままのきみがすき〜恋愛少女マンガの思想と構造』が目出度く完結を迎えたからです。
いやあ、濃い論文であるよ。
こういうのについては一家言あるぞという方も多かろうと思うのですが。
しかし、ただ『メガネっ娘が好き!』と叫ぶだけではなく、世間一般に流布する悪しき幻想、すなわち『眼鏡を外すと美人になる』という偏見と先入観に対して文章で持って立ち向かう氏の気概には感服せざるを得ません。
なんてな。あんまり、あたし的な文章ではないぞ。こりゃ(笑)
惜しむらくは、主なテクストが少女マンガの文法による『メガネっ娘と言う存在』の解読であり、少年マンガ、美少女マンガ(えろマンガ)等に存在する『メガネをかけた少女』についての解釈についてはあまり触れていないことなどがあるのですが、しかしこれは、今回の論文での主題ではないので仕方がないことでしょう。今後の氏の活動に期待するものであります。
で、あたしもメガネっ娘については色々と思うところがあるのですが、氏の論文、読んじゃったらね。うむ。ツラいのだよなあ。
大量のテクストと、きっちりとした読解と、広い分野の知識に裏付けられた広範囲の解釈を見せられると、だね。自分の文章とか、思想とかに自信がなくなるんだよう(笑)
はあ。
まあ、こっそりと、書くことにしましょう。
と言っても、メガネっ娘論をはじめられる程知識が広いわけでも深いわけでもないので、ここでは、あたしの感じる、メガネっ娘の魅力、について、です。
あ、TINAMIXに連載された、はいぼく氏の『めがねのままのきみがすき』を読んだものとして、話が進んでいます。読んでいない方は、読むように(笑)
*マンガにおいて、いやもっと対象を広げるならば(現実を含めた)全てのメディアにおいて、少女のかけている『めがね』という物体は、存在としての『めがね』と、象徴としての『めがね』という、ふたつの意味を持ちうる。
おそらく『めがね』は主に映像としてのメディアにおいて、その魅力を発揮するのであろう。メガネっ娘を愛する作家、西川魯介氏は、自己の作品中で主人公に『フレームによる拘束が造作に異化効果をもたらしすごく綺麗に見える(屈折リーベ)』と言わしめ、メガネくんをこよなく愛する作家、永野のりこは『メガネって身体の一部が機械化しているみたい(みすてないでディジー)』と言っている。どちらも、ヴィジュアルとしての『めがね』の魅力についての言葉である。
しかし、残念ながら私は、生まれたときから目が見えないわけではなく、文章として書かれたものに対しても映像としてのイメージを補完して見ることができてしまうのである。それはおそらく、生来全盲である人ではない全ての人について当てはまることであろうと思う。
したがって、文章メディアにおいても、そのイメージの自己補完が可能であるという理由によって、『めがね』の魅力は等しく感じ取ることが可能であるとする。
さて、私の感じるメガネっ娘の魅力についてである。
結論から言えば、それは『ずれ』である。視線、視点、焦点、たとえばそういったもので言い表される『精神構造』の一般人とのずれこそが、美しいと思うのである。
『ずれ』の映像的な、もしくは上記の『存在』と『象徴』という分類で言えば『存在的な』意味は、既に述べた西川魯介氏の言葉である『異化効果』で表すことが出来るかもしれない。
しかし、私の主に感じるところは『象徴としての』めがねが表す『ずれ』である。
眼鏡が権威の象徴であり、その基盤である<おとな>の権威の失墜こそがマンガと言うメディアにおける『眼鏡という負の刻印』というテーゼを生んだと、はいぼく氏はその論文(めがねのままのきみがすき)で見事に分析している。
しかし、境界の喪失以前→以後という過程に生まれた作品ならばともかく、既に境界のない(もしくは、世界が新たな構造を持っている)現在において、『眼鏡の権威』というキャラクタリゼーションは意味をなさない。私たちは『眼鏡の権威』から脱し、新たな『めがねの魅力』を感じているはずなのである。
はいぼく氏の論文中ですでに触れられているとおり、マンガの文法としての『有機体モデル解釈』でのメガネっ娘のカテゴリーは『知性』であり『理性』である。
個々人の人格を、まったくの『個性』であり他者と重なる部分はないとするならば、そもそも『メガネっ娘』というカテゴライズすら意味のないものになる。それはビジュアルとしての『メガネ』のみを愛していることになり、それを着用する存在は必要なくなる。もしも『メガネっ娘』を愛しているのなら、それはとりもなおさず『めがね』の持つイメージを愛していることになる。私は『メガネっ娘』というイメージを愛しているのであろう。
では『メガネっ娘』のイメージとはなにか。
すなわち『ずれ』である。
実際のキャラクターに照らしてみてもよい。
例えば『おじゃ魔女どれみ』のはづきちゃんである。
彼女の魅力とは、その知性や理性だけではなく『独特のセンスの持ち主』ということであろう。これについては多くの賛同を得られると信じる。
他のどの作品を開いてもらってもよい。おそらく、メガネっ娘の特性とは『他の人とは少し違う』ということではなかろうか。
もちろん、これに当てはまらないめがねっ娘も数多く存在する。だが、それはおそらく『眼鏡をかけた少女』という存在であり、めがねについての象徴的な意味を意図的に付与されていないキャラクターなのではないかと思う。これについてはさらに深い統計と分析を待たねばならないだろう。ここでは触れないこととする。
メガネっ娘の『独特のセンス』『他者との相違』これを表現する言葉として私は『ずれ』という言葉を用いる。
もちろん、そういった『ずれ』を有しているものがすべてめがねをかけた少女であるというわけではない。めがねをかけた少女のすべてが『ずれ』を持っているというわけでもない。つまりは、象徴である。鬼の角や、神仏の後光や、エルフの尖った耳のようなものである。これらはすべて『普通ではない』ということの象徴である。
私にとってメガネとはすなわち『ずれ』の象徴である。これはメガネをかけている少女自身が持つ特性でもあり、メガネそのものが持つ特性でもある。
ここでは私が受け取る魅力を語っているためにメガネの特性が『ずれ』だけになっているが、その他の特性、例えば『理知的』であれ『勤勉』であれ、どのような特性であったとしても同様の論法が使えるはずである。
つまり、メガネの象徴する特性と彼女の持つ特性が同じものである限り、メガネは彼女の魅力を損なうものではなく、彼女の魅力を増加させる働きをもっていると言える。
逆に、メガネの象徴する特性が彼女の持つ特性とは違うものである場合、メガネは彼女の持つ特性を『隠す』働きを持つ。ここで重要なのは、メガネとは彼女の持つ特性を『損なう』ものでは決してないということである。この逆方向の作用についてはここでは深入りせず、いわゆる『古典的眼鏡っ娘』の解釈も可能であるということのみを述べるにとどめる。
また、メガネそのものが特性を持っているということから、どんな少女でもめがねをかけると可愛くなる、すなわち『女はめがねをかける事により必ず女っぷりが上がる(G.B小野寺 外道校長東堂源三郎)』という解釈も可能であるが、これについても深く追求はせず、『ペルソナ仮説』(変身ヒーロー・ヒロインとは、ヒーローに変身するのではなく、コスチュームを纏うことによってヒーローの属性を憑依させるのだという、シャーマニズム的仮説)との類似性についてのみ示唆するにとどめる。
少女そのものが私の愛すべき『ずれ』という特性を持っており、メガネはそれを補完し増加させる。
メガネそのものが既に『ずれ』を象徴しており、同時に『ずれ』という特性をも持っているからである。
したがって『委員長メガネとったらただのひと』という言葉に表されるような、メガネがなければだめだという解釈は、ある部分まで同意でき、そして同意できない。
彼女の魅力は、メガネをはずすことにより損なわれるのである! そんなことが許されていいはずがない。彼女は、メガネをかけているからこそ魅力的なのだから。
しかし同時に『彼女はメガネをとっても彼女』なのだ。
彼女がメガネをはずした時、そのめがねは既に一個の物体に過ぎない。そして、彼女の魅力は彼女が持っていたものであると知る。
『メガネっ娘』という普遍的概念と、めがねをかけた一個の女性しか存在しないという概念は、ここでは対立する概念とはならない。
なぜなら『メガネっ娘』という概念はそのめがねが象徴し、『めがねをかけた一個の女性』の魅力は、彼女自身が既に持っていたのだから。
私は、めがねに象徴される『ずれ』という特性を持った少女を愛し、そして同時にめがねをかけた少女、すなわち『メガネっ娘』という特性を愛していたのだ。
めがねをかけた『少女』と『メガネをかけた』少女とを、同時に愛しているのだ。
これを『ふたまた』と呼ぶべきだろうか?
この問いに対して回答することは、私はできない。
*あ、すげえ。
こんなに連続で日記つけてる(笑)
これでとりあえず、三日坊主完了(爆)
まあ、ともかく。
*ちょっと昔、だが、少年愛なえろまんが(爆)の一大ムーブメントがあったような気がするのですが、最早見る影もないですね。
あたし的には、すんごく、寂しいのでした。
ダメ人間っすねえ
で、まあ、そういった『男の子だって、可愛ければおっけぃ!』なハナシではなく(爆)
こう、そういった、えろまんがの、内容とか、テーマとか、そういったの、眺めていると、世の中にはムーブメントがあるんだよなあと、感じてしまうのですよ。
ショタものっていうのも、あったしね。これは、ムーブメントで終わっちゃったのかどうなのか。まあ、それは、おいときます。深くこっそり、続いているみたいなんだけどね。
で、こう、そういった『えろまんが』の、新刊の、背表紙が並んでいるところで見ていると。
どうも『つるぺた』っつうか『ろりぷに』とか、そういうの、一時期またちょっとぶり返しつつも落ち着いちゃったかな、って、そういう感じでしょうかね。
例の『チャイポ禁止条例』で、お子様絵がどういう扱いになるか、出版のほうで迷っていた時期があったのか、ろりろりぃな方面、出なかった時期が、あったようなんだけれども。
実は、絵はまあ問題ないんじゃない? ってことになったみたいで、急にぽろぽろと出始めたと思ったら、また落ち着いてる。ような気がします。
今のところ、なんかないすばでぃなお姉さま(いや、あたし的に『お姉さま』な年齢なんですが、世間一般じゃ少女なのかなあ)を、拘束しちゃったりハゲしく責めちゃったりっていう方面が多いような気がするんですが、どうでしょうか。
尋ねられても、困るかなあ。。。。
えろぱろなんかは、安定して出ているみたいですがね。
こう、作家さんの絵柄を見ても、ぷにぷにろりろりなのってのは、少なくなっているような気がします。
なんつうの? こう、魂に響く、というか。まあ、これ以上言うと踏み外しそうだし、おいとこうか(縛)。
で、そんなことを考えながら、本屋のえろまんがの棚を鑑賞しつつ、買ったのは。
出版社 : 雄出版株式会社
作家名 : G.B 小野寺
書籍名 : 外道校長 東堂源三郎
本体価格: 800円
これであるっっっ!(爆)
これが、今日の話題のミソですよ、旦那
もちろん皆さんも知っての通り、この作家『G.B小野寺』氏は、えろまんがのふりをしながら『真の漢(と書いて"おとこ"と読む)』を描きつづける、魂と浪漫の作家として有名なのですが。
知らない? そうかあ。知らないのかあ…(弱気)
ま、いいや、進もう。
つうわけで、この作品『外道校長 東堂源三郎』も、やはり『魂と浪漫』の作品です。
凡百のえろまんがと一緒に並べられてはいますが、騙されてはいけません。
えろまんがでは、ありません。
なんつっても『性行為』なぞ、ひとつも出てきませんから(笑)
では、ナニを語っているかと言うと。
『フェティシズム』と『漢の浪漫』であるッ!(ドォォォォッッンンン!!)
いや、もう、熱いっす。
氏のマンガに、熱い魂を感じたのは一度や二度ではないのですが。
しかし『大丈夫/キミたちには/夢の中で/会えるから……』(p.120)『……いや/わしは……/友と帰るよ』(p.121)で、マジ涙をこらえきれませんでした。
いや、本気で、漢キーワード盛り沢山の、えろまんがのふりすらしない、こっぱずかしくも真剣にアツいマンガを描いて欲しいものである。
君の右脇腹では浪漫が回っているかッ!
浪漫ッ! そうッ! 漢の浪漫ッ!
オレの右脇腹では浪漫回路がフル回転しているッ!
そうッ! 痛いほどにッッ!!
……
…痛たたた……筋肉痛だよ……(回し過ぎ)
浪漫ですよ、浪漫。ねえ。
*あ〜。このぺ〜じも、はやいとこ改装したいなあ。
『可及的速やかにね』
『可及的速やかにね』
うん。
*考え事をしていると、つい、独り言を言うクセがあるんだが。
今日の帰り、いつもどおり(笑)考え事をしながら、歩いていたのです。
地下道を歩いていたら。
ふ、と、気が付くと、とってもラスタふぁっしょんなおじさん(地下道在住・無職)が、あたしのことを気味悪そうに見ていやがりました(爆)
なんだよ、おめぇにゃメイワクなんざ、かけちゃいねーよ(笑)
*昨日のハナシ。切断なハナシですが、あのまま終わったらどうかと思うんで、ちょびっと追加。
別に、そういう趣味の人の意識を探ろうとか、ガクジュツっぽいこじつけをしてみようとか、そういうことではないのですよ。
あたしも、まあ、お絵かきをするのですが。
こう、ヘタなせいか、慣れていないせいか、パーツずつ、描いてくのですよ、あたしは。
頭のかたち描いて、首、胸、腹、腰、上腕、太もも、って、そういうふうにね。
そんな風に描かないと、全然、ヘンな絵になってしまうので。
で、そうやって、描くんですが、頭のカタチから描くから、もちろんハゲ頭なんですね。
でも、そうやって、ハゲ頭の少女で、なお可愛く描けないと、なんとなく不満が残ったりする(笑)。
もちろん、胴体描いて、腕脚ない状態で、可愛く描けると、嬉しいの。
でも、そうやって描いた、可愛い胴体を、脚とか腕とかで隠してしまうのが、すんごくもったいなくなっちゃうのです。
……そうやって、描かないから、腕とか脚とか髪の毛とか、末端がヘタクソなまんまなんですがね(T^T)
まあ、そういう、イモムシ少女な状態の絵を見て、ああ可愛いなあとか感じてしまうあたしの感情を、ちょっと掘り下げてみたりしようと。
その間に描けと言うのが正解(笑)
*まあ、そういうワケで、服を描く前に、身体のパーツから描いていくのですが、せっかく可愛く描けた身体なのに、服で隠すのはもったいないじゃないですか(笑)。
だもんで、裸の女の子とか男の子とかが多くなって、だもんでお絵かきをアップできないのです。
と、言っておこう(爆)。
どうにもならんなあ、あたしゃ。
*本当は、色々と改装したいんだけど、まだ停止中(笑)
とりあえず、方向性として。
白バック/黒文字に戻す(笑)
目に痛いと言われたけど、でも、それが一番いいかなあ、って。
まあ、最低限トップページは、原色だけで、文字を大きく。
で、なおかつ、軽く。
やっぱし、そういうの、いいのじゃないかなあ。
中身で勝負?
勝負できるか?(笑)
*で、久しぶりの日記だってのに、18禁系なハナシ。しかも、ちょっと鬼畜入っています。
進む人だけ、進め。
*えっち系のHPってありますわな。
そういうののトコロで、テーマが『切断』っての、あるわけです。
人体切断。
腕とか、脚とか、切られちゃっているの。
切断どころか、完全に死んじゃう程まで、切り刻まれていたりもする。
方向性としてここからも二つあって、切断されることが『苦痛である』パターンと、切断されるのが『快楽である』パターン、かな。
う〜ん、ちょっと違うなあ。嫌がる少女(時々少年だったりもするけど)を、無理矢理押さえつけて切断する、っていう方向性と。切断された体を持った少女(もしくは少年)の媚態、っていう方向性と、かな。
まあ、どっちも同じ、とまでは、言いませんが。でも、ヴィジュアルとしての身体は、切断された肢体ということで、同じということにしましょう。
異形、なんだよな。そういう身体っていうのは。
でも、そういう身体ってのについて、美を感じたり、欲情したりする人も、いるワケです。
いや、非難ではないぞ。
あたしも、ね。
そういうの、実在の生命に対してするのは、絶対にイヤだ。
許され得べからざる行為であると思う。
でも、そういう『切断された身体』もしくは『部分としての身体』っていうもの、そういうのって、美しいと感じるときも、あるのです。
うん。
例えば、ミロのビーナスって、彫像があるけど。あれは、腕が切断されているよね。
サモトラケのニケ、なんて、腕も首すらもない。
まあ、切断と言う行為の末の身体である、と、それが偶発的に失われている、という違いはあるけれども。
でも、そういう彫像についての美を認めるんだったら、『切断された身体』だって、美を認めざるを得ないんじゃないかな、と。思ったりもするのです。
傷ついた肉体の美って言うの、あるしね。
まあ、そういう、傷ついた、血まみれの、そういう肉体に感じる美ってのは、また別のものなような気がするので、それはおいとこう。
きっと、身体切断ってのは、例えば『SMの行き着くトコロまでいっちゃったモノ』では、決してないと思う。
多分、身体の、なにに、どこに、どういう部分に、美を感じてしまうか、ということなのかな。そういう、フェティッシュな感情の激しいものなのではないかな、と。
そういうトコロから行くと、切断された身体ってのは、結局『美を感じる部分のみを持っている身体』であって、それはつまり『余分なもののない身体』なのではないかな。
そういう、例えば腕とか、脚とか、そういう余分なもの(普通は余分じゃない、って言うのは、普通の人の言うことで、そうではない人もいるのかもしれない)を削ぎ落とした、美のみを抽出した、肉体。
美にみが抽出され、強調された肉体。
そういうものを愛でるっていう方向性も、あるのかな、と。
あ、あと。
逆のパターンで『失われていると言うことがその部分を強調する』っていうのも、あるかなあ。
腕を愛するからこそ、その腕を切断してしまう、と。
フェティッシュな感情の、激しいトコロのひとつだよな。それも。
あとは、そうだなあ。
あるはずのものがない、という、アンバランス、かなあ。
身体改造っていう方では、あるはずのものがない、とか、ないはずのものがある、とか、そういうテーマってのは、あるよな。
アンバランスである身体っての、そういうものが美しい。
それは、あるよなあ……
なんか、わかんなくなってきました。
全然、まとまらないので、おしまい。
*巨人強すぎて、面白くないです。
巨人ファンにはたまらないかもしれないけど。
でも、もうちょっと、デッドヒートとか、首位の奪い合いとか、そういうの、見たいよなあ。
うむ。どうしたもんでしょうな。