*児ポ法、正式名称は『児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律』ですが。
まあ、この法律を、規制強化推進派は、国会審議を通さずに、しゃんしゃんで規制強化の方向に持っていこうとしているわけです。
そこらへんの、潔癖症且つSEXヘイトな性癖とか、その目的を達成するためには他の何物をも省みない態度とか、そんな危険な思想に対する反目はあるわけなんですが。
多分、議論の前提となるべき、根本のところを、きっと誰もちゃんと解説してくれていないんじゃないかなと思う。
つまり。
『子どもの権利』ということ。
そして『子どもとはなにか』ということ。
これでしょう。
ここでは、子どもの権利云々を語る人々に合わせて『子供』を『子ども』と表記しましたが。
この、文字の書き換えについての真意をも含めた、子供というものに対する対応のあり方を、きちんと整理しておかないと、多分、真に『子どもの為』ってことは、言えないんじゃないかなと思うのだ。
つまり。
子どもとは、大人と同じ権利を持った、大人と同列に扱われるべき権利主体であるのか。
それとも、子供とは大人の庇護を受け大人の守護の下にのみ存在を許される客体であるのか。
子供は、肉体的、精神的、政治的、その他的に優位に立つ『大人』から搾取され続けている。
これが、現状である、というのが出発点である、と思う。
しかし子供は成長して『大人』となり、生産者となるべき存在である。
生産者は国家の基礎となるべき存在であり、その生産者は正しく統制されねばならないという観点から、子供は適切な方法により保護され、生産活動に従事するに足る存在として十分な育成が成されねばならない。
ということになります。
全体主義的、社会主義的発言になっちゃったな。
ま、言葉の用い方はどうでもいいでしょ。
主義主張はどうでもよくって、その基盤ということについて言えば『全ての国民が十分な満足を得ること』こそが、社会主義だの共産主義だの自由主義だのその他主義だのの根っこにあるんだから、別に言葉の方向はここでの問題じゃないでしょう。
問題は『子供は捻じ曲げられることなく大人になる』べきであるという方向性だけだからね。
で。
子どもは大人と違う存在であり、子どもは大人が保護し、教育し、成長させねばならない存在であるから、子どもは大人の監視の下に、大人の認める範囲でのみ行動を赦されねばならない。とするべきであるか。
子どもは大人と同じ存在であり、子どもは大人と同様の権利、義務、その他を保有する存在であるから、子どもは大人と同様の行動を期待され、そのための教育を行わなければならない。とするべきか。
で、さらに言えば『子ども』とはどの年齢、どの教育課程、どの状態をして区別さるるべき存在であるのか。
ここらへんのことが、問題の本質なんだと思うのですだよ。
例えば、ものすごく議論を矮小化すると。
子ども、例えば小学生に対して性教育を施すべきか否かという時。
小学生に性教育は早すぎる、と考える場合、それは『子どもは大人と違う存在である』という立場であるわけだ。
逆に、早期性教育の重要性を説く場合、それは『子どもは大人と同じ存在である』という立場であるわけだ。
ま、本当に矮小化した二分化なんで、これが問題の本質ではないんだけれど、でもまあ、こういう感じの違いがある、ということはわかるな。
で、どっちの方向性でも。つまり『子どもと大人は違う』でも『子どもは大人と同じである』でも、どっちでも、大きな問題はないのだ。
即ち、子どもが生存し、子どもが成長するときに必要となる保護については、どっちの思想から施されても、同じ結果を得ることができるのである。
ただし、正しくそれが施行された場合に、という但し書きがつくのだけれど。
この違いは、人々が宗教によって規定付けられているか、政治によってか、経済によってか、その他によってか、そういう違いと同程度の違いしかない。
宗教が問題ではないし、経済的思想による問題でもない。それが、どのように行使されるかだけが問題であるのだから。
さて。
規制強化推進派の論は、基本的には子どもも大人も全部ひっくるめて厳しく統制しなければならないという観点であり、子どもを直接保護すべき親権者からの保護を重視しなかったとしても、子どもは『国家』という存在から重度の庇護を受けることとなり、これは前者、つまり『子どもは大人と違う存在である』という言であると言えると思う。
対して規制強化反対派の論は、子どもも大人も正しく自己責任を求められており、子どもに対してはその自己責任に対する知識と智慧とを教育しなければならないとする意見であると言える、つまり『子どもは大人と同じ存在である』という言であると言えると思います。
で。
児童保護だの、子どもの権利だの、そんな議論の本線としての、子どもとはなんであるのか。どういう存在であるのか。
そこらへんを、きっちり自分の中に持っていないと、この問題についての正しい理解を得ることはできないんじゃないかと思う。
私は、どっちかって言ったら、子どもは大人と同じ権利を持っている、とする意見に賛意を表するものです。
また、子どもは義務教育の期間をして区別されるべきだと思います。
つまり、中学校卒業、ね。
ここまでは、国家と、児童の親権者の義務として、児童をそこにはめ込まなければならないと規定されている制度です。
制度とか、国家体制の維持とか、そういうことの必要性について異論を差し挟む気はありません。
現実問題として、子供は知識がなく、智慧がなく、肉体的にも経済的にも全く自立に足る存在ではない、ということについて、異議はないのです。
そういう『全き弱者』であっても大人と同様の『権利と義務』を課せられてしまう、という事実より、弱者は庇護されねばならない存在であるということに正当性が与えられます。
ここでの『庇護』は、多くの場合主観的になってしまうことはある程度仕方ないと思います。
この主観的には、例えば宗教が当てはまります。
基督教といい、モルモン教といい、イスラム教といい、仏教といい、もしくは新興宗教のどれかであったとしても。これは、その親権者の持つ宗教観念から大きな影響を受けることは当然のことです。
また、政治思想や、その他細かい思想的差異についても同様でしょう。
これが、宿命というものであると言えると思います。
人は場所・時代・環境を選んで生まれる事はできない…
ゆえに生まれた瞬間にそれぞれの人間の生きる条件は異なっている。
これが宿命です。
その宿命と、宿命の意味と、そこから離脱する方法を全て教えることこそ、親権者の義務であると規定するべきではないか、という方向に、私の思想は向いています。
つまり、思想、宗教、その他の『生の方向性』を与えつつ、あらゆる方向への可能性を閉ざしてはならない。そういうことですかね。
まあ、すごく理想論的な言ではありますがね。
この言すら、私は私の親権者から受けた教育であるわけなので、これも偏向した教育の成果であるともいえるわけです。
それでも、私は自分のたどり着いた場所について自分で自分を批判する精神は持っており、その上でこの『限りない自己批判』という場所に立つことはそう悪くはないと思っているので、この立場を主張するものです。
で、宿命だの、宿命からの離脱だのの、宗教的もしくは思想的な方向性はまあ、どうでもいいでしょう。
これは、例えば『正しく施行された場合に』という問題、実質的、行動的な問題であるのだから。
いや、それこそが問題である、という事実もあるんですが、それについてはここでは考えません。
なぜなら、問題の本質は、子供は現在保護が行き届いていない状態であり、子供は正しく保護されねばならないという現実こそが問題であるのだから。
そして、その保護のための方向性をどこに向けるのかということこそが、誰も正しく喋ってくれない問題であるのだから。
子どもの権利条約というものがあります。
これは、国連が主導して制定した、国際的な条文であり、子どもとはどうあるべきであり、子どもはなぜ保護されねばならないのかの根本となるべき条文であり、現在世界192カ国(日本を含む)がこの条約を締約しており、現在国連加盟国でこの条約を締約していない国家はアメリカ合衆国とソマリアだけ、というものです。
まあ、本質についてはARC 平野裕二の子どもの権利・国際情報サイトあたりを、見ていただければ。
で、日本での『児童ポルノ云々法』なんてのは、結局ここらへんの『子どもの権利』を正しく守らねばならないという考えから、出てきている、わけです。
いや、基督教関連の宗教的侵略云々なんてな裏の話なんぞはおいといて。理想と本質について、ね。
で、この『子どもの権利』ってのを、正しく見据えないままに、児童保護だの環境正常化だの、そんなお題目唱えたって、どうしようもないんじゃないの?
そういう、感じがするのですよ。
子供ってのは、何なのさ。
*強い意思と決意とを以って戦わない、ということと、臆病だから戦えない、ということとは、全然違う。
戦争放棄、平和万歳。
それは、正しい。
世界中の誰もが、正しいと認めるであろうスローガンだ。
でも、そのための『意識の方向』は、どこにあるのか。
それこそが、最も重要な問題となる。
日本国憲法第9条をもう一度眺めてみる。
第2章 戦争の放棄
第9条【戦争の放棄,軍備及び交戦権の否認】
(1)日本国民は,正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し,国権の発動たる戦争と,武力による威嚇又は武力の行使は,国際紛争を解決する手段としては,永久にこれを放棄する。
(2)前項の目的を達するため,陸海空軍その他の戦力は,これを保持しない。国の交戦権は,これを認めない。
憲法.jp
交戦権ということについては、後で考える。
今、第9条(1)を読む。
私たちは平和を望んでいる。
私たちは戦争を放棄する。
武力による威嚇を放棄する。
武力の行使を放棄する。
私たちは、武力を用いない。
全ての場合において、武力を用いない。
つまり。
私たちは、自分が殺されそうな場合であっても、武力を用いて抵抗することはない、ということだ。
私たちは、誰かが私たちに銃をつきつけ『さあ国を明け渡しなさい』と迫った場合でも、決して武力によって抵抗することはない。
誰かが私たちから、土地を、財産を、命を、尊厳を奪おうとしているときにも、武力によって抵抗することはない。
憲法第9条は、そう言っている。
誰かが私たちを守ってくれるだろか。
誰も、私たちを守ってくれない。
日本国は、集団的自衛権を否定している。
つまり、自分の国家に対する脅威はないけれども、自分の友好国に対して第三者が武力を行使した場合、友好国に対して武力による援助を行うということ。そういう集団的自衛権を、日本国は否定している。
自分の国家は否定しているのに、他国に対してそれを期待するのは傲慢というべきだ。
あなたが危なくても、僕はあなたを助けない。でも、僕が危ない時には助けてほしい。
それを傲慢といわずして何といおう。
私たちは、誰からも守ってもらえず、自らが自らを守ることすら放棄し、武力に対してその身を晒す事を選んでいる、わけだ。
それはすなわち『強い意思と決意とを以って戦わない』ということだ。
その生き方は、非常に尊い。尊く、気高い。
だが、その生き方はとても厳しい。
非暴力非服従。それは、とても厳しいことだ。
私たちは、私たちの生命が危機に曝されても、武力によって抵抗しない。
殴られようとも。奪われようとも。殺されようとも。抵抗しない。
もし、無気力と臆病とで抵抗しないのであれば、それは「奴隷の生き方」だ。
自らの無気力と臆病とにより抵抗せず、暴力による支配に従うのであれば、それは奴隷の生を受け入れたということだ。
一生涯を、暴力と、略奪と、陵辱とによる支配に捧げるということだ。
もし、強い意志と決意とにより戦わないことを選択するのであれば。
暴力と、略奪と、陵辱とを受けたとしても。決して支配されない。決して服従しない。決して負けない。そういう生を選択した、ということだ。
永遠に殴られ続け、奪われ続けても、奴隷の生を受け入れない、ということだ。
己の生命を危機に晒しても、支配を受け入れない。そういうことだ。
あなたたちは、それを知っているのか。
それを知った上で、武力の放棄を叫んでいるのか。
本当に、そうなのか。
武力侵攻を受けたとき、あなたは誰からも守ってもらえない。永遠に、誰からも守ってもらえない。
あなたにできることは少ない。
たった一人で逃げ出し、危機から遠く離れること。
逃げず、侵略者に目を向けること。きりりと目を向け、立ちふさがること。武力に拠らず、己の精神の強さのみを頼みに立ち向かうこと。
どっちか、だ。
私には、どっちも選べない。
私は、武力を以って抵抗することの方を選ぶだろう。
戦うことを選ぶだろう。
武力に拠らず戦えた人間は、有史上数えるほどしかいない。
残念ながら私は、マハトマ・ガンジーにはなれない。
己の命や、己の愛する人の尊厳や、自分たちの生活を守るために、私はきっと戦うことのほうを選ぶ。
自分が殺されないために、他人を殺すだろう。
*平和憲法、などと言って喜んでいるのは、それは別にいいんだけれど。
憲法第9条は、もっと強烈な「己の生の指針」についてを日本国国民に対して問うているのだということを、知っておくべきなんじゃないかなと、思う。
平和ってのは『己で選択』し、『己の決意』に基づき、『己の行動』によって維持しなければならない、強烈なもんだっていう意識は、まああたしも含めてほとんどの日本人には、ないんだろうなあ。
ま、だからこその、平和憲法であり、平和な国家なんだけれど。
誰にも頼らず『平和』を維持するを、平和憲法を以って成し得ているなんて安心していると、多分誰にも助けてもらえないまま死んで行くんだと思うよ。
*こないだの、米国とイラクとの戦争で。
巻き添えになって死んでいった幾多の市民たち。
彼ら彼女らに思いを馳せ、平和への念を心に刻むってのは、それは正しいのだけれど。例えば『有事』ってのは、日本国国民たる私を含めた一億余の命のどれかが、理不尽に失われていくという事態であるわけだ。
イラク人の子供が病院で苦しんでいる映像がニュースで流され、私たちはそれに感銘を受けているのだけれど。あのベッドに横たわるのが、もしかしたら私であるかもしれないし、あなたであるかもしれない。それが『有事』であるわけだ。
*っていう意味において。
私は、日本国憲法第9条が『平和憲法』であるとは、ちょっと言い難い。
もっとエキセントリックな言葉を使えば、件の条文は『日本国は自らと自らの国民を奴隷であると認めた』文章であるとすら、言えると思う。
いや、もしもあなたが『非暴力非服従』という苦しく険しい道を歩むことを選択したのであれば、それは尊いことであり、第9条は正しく『平和憲法』であると信じられるのだけれど。
私には『非暴力非服従』という茨の道は通り難い。
したがって、私にとってはこの憲法は、背負い難い重荷である。
*あたしは、無料だの格安だの、そういう売り文句は決して信用しません。
なので、某Y!BBとか、そういった『最大3ヶ月間無料!』なんて言っている業者は、決して信用しません。
その業者が安くできるということは、他の業者も安くできるということか、もしくはその業者が無茶をしているということに他なりません。
安けりゃいいってもんでもないでしょ。
サービスには対価が必要だって言う意識が必要だと思うの。
でも。上記「広島県東広島市のインターネット接続業者」は、遺憾よなあ(笑)
途中解約できないって言うのが、最悪。
いきなり「明日から値上げします。文句は受け付けません。解約も赦しません」ってのは、それはボッタクリ商売でしょ。
*要は、有事法制だのなんだのではなく。
日本国憲法は何を言っているのか。
自衛隊はなんのためにあるのか。
そっちでしょ。本線としては。
日本国憲法の第9条ってのは、こんな文章です。
第2章 戦争の放棄
第9条【戦争の放棄,軍備及び交戦権の否認】
(1)日本国民は,正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し,国権の発動たる戦争と,武力による威嚇又は武力の行使は,国際紛争を解決する手段としては,永久にこれを放棄する。
(2)前項の目的を達するため,陸海空軍その他の戦力は,これを保持しない。国の交戦権は,これを認めない。
憲法.jp
改めて読んでみると。
こんな、中途半端かつ曖昧な「平和憲法」とやらを、大事そうに押戴いて「日本は平和の国」だ等と嬉しそうに主張するのも、少々いかがなものかという気分になるな。
*まあ、自分から他人の国家に対して戦争を仕掛けて、他国民を殺したり、他国を占領したり、そういう行動は一切とりませんよ、と。
それは、いいんじゃないの。
それをして「平和の国」気取りも、まあアリだと思うのよ。
十分、許容範囲内です。
でわ。
私たちの住む国土に、他のどこかの、侵略を目的とした集団が入り込み、私を殺害しようという意図でもって装備した武装を用いた場合。
このとき、私は何をするのか。
私は何をして、私は国家に対して何を望むべきなのか。
*自衛隊は「日本を守るために編成された武力」であります。
国際紛争を解決する手段としての武力による威嚇または武力の行使を放棄する、と言ったとき。
他の誰かから日本国民を守るための対応も「国際紛争を解決するための手段」と見た場合、この日本国は日本国民を守るためにいかなる軍事的対応もとることはできません。
あなたが、他の誰かから殺されようとしているとき、日本国は、すなわち日本国民はあなたを守り、あなたを助けることは決してない、ということです。
あなたは助けられることなく、見殺しにされます。
誰からも、助けてもらえません。
それが「平和的」ということだから。
で、そういう時、自衛隊は必要ないわけだ。
なぜなら国民は何かがあった場合「従容として死に赴く」のだから、日本国を守るべき武力は必要ない。
したがって、日本国に「自衛隊」は必要ない。
あなたは、日本国から守られることはない。
「日本国」というのは、実は「日本国民」と対立概念ではなく、日本国民の集合を日本国と呼んでいる、概念的な「個人」であるのだから、この場合『あなたは自分を守ってはならない』という「平和憲法」とやらを抱きしめたまま、平和的に死ぬわけだ。
*もし「平和的に死ぬ」のがいやなら、抵抗することになる。抵抗するための手段として、自衛隊を編成する。
自分を守ってはならないので、他人の顔色を伺い、袖の下をばら撒くことでなんとか平和を保つ?
そんな「奴隷の平和」を、それほどまでに大事にしたいのであれば、その主張を愚かであると断ずることはありませんが。
私は、いやだな。
死にたくないしさ。死にたくないから、税金だって払っておりますが。
*もしもあなたが「平和憲法」を崇拝しており、日本には自衛隊は必要ないという主張をされるのであれば。
武力によるものではない、日本国を守るための方策を提示してもらいたいもんである。
自衛隊に拠らず、武力に拠らずに日本国を守るための方策を模索すること。多分、こっちの方向性も、ものすごくエキサイティングだと思う。
願わくば、有事法制反対を主張されている皆様方が真剣に、自衛隊の意義とか、国防の意味とか、実際に「有事」となった場合に何をするべきか、とか。
そういうことを考えて、その上での「有事法制反対」を叫んでおられるのであれば、よいのですが。
まあ残念ながら、上の検索結果から飛べる、ほとんど全ての頁は、頭の悪い「せんそーはんたい!」を主張するのみで、論理的な議論を積み上げようという意図が全くないわけです。
だもんで、有事法制に反対という主張の全てが、頭の悪い主張に堕してしまい、有事法制に反対するべき「リアリティのある」意見になっていない。
その結果、有事法制は、議会を通過してしまうわけです。
反対する側は、もっと脳を使わないと遺憾と思う。
反対です、反対です、反対ですと、3回叫んでみても、なんの意味もない。
むしろ、反対するという行為が「バカの行為」であるとしか受け止められないような、愚かしい「反対運動」に現を抜かしているから、論点そのものを賛成派のいいように誘導されてしまい、なんの意味もない「反対運動」をしている間に賛成派が主流となってしまうんだ。
*まあ、あたしは有事法制には賛成なんですが。
しかし、上記「有事 反対」でgoogle検索した結果にひっかかる53,400件の頁が、こんなに頭の悪い「反対運動」を展開していることには、憂いを感じてしまうものであります。
お前らの享受している「平和」は、何が、誰が、どこがかんばっているおかげでの、平和なんだか、理解できているんだろうか。
日本には平和憲法があり、国連憲章には平和が明記されているから自衛隊は必要ない、というのであれば。
同様の理論で、日本には民主主義的教育があり、刑法があり、罪に対しては罰が与えられることになっているから、自分の家には鍵をかける必要はない、等と、彼らが言うのかどうか。
*平和は、誰が、どうやって維持しているのか。
平和を維持するための組織や運動は、どれほど重要なのか。
脳を使って、考えたほうがいい。
*国家には個人を守る義務があり、これを怠ることは損害賠償を認める程に罪である、ということだな。
でも、国家が国民を守るための法律を整備することには反対する、と。
*有事である、ということは。
どこかで、誰かの生命に危機が迫っており、またはこのまま事態を放置した場合誰かの命が確実に危機にさらされる、という事態である、わけだな。
そのとき、私は何をするべきか。あなたは何をするべきか。私たちが何をするべきか。日本国はどうするべきか。それが、有事法制、だと思うのだ。
いかなる場合であっても軍事力の行使はこれを赦さない、なんて言う方々は、自分の身近に危機を感じていないってことか。
まあ、危機に際しては抵抗せず従容として死に臨む、なんて方々も、いるんでしょうがね。現実は、そんなに悟った人間ばかりでもあるまい。
軍事力即戦争であり、戦争即悪という、そういう脊髄反射にも似た、アレルギー反応ともいえる即応的な回答は、実は現実的な意見ではないと思う。
日本国民の皆様は、結局日本国が自分たちを守ることを期待してる、でしょ?
それとも、なんにも期待しなくなっちゃったのかな。
*そーいや、新聞なんかでの特集だと『有事法制が整備されると、日本が危機の際にはこんなことになる』っていう論調で解説されていたりしますが。
では、有事法制がない場合、日本が危機の際にはどうなるんだろう。
そういう方向性で説明してくれているところは、ついぞ見ませんね。
両方とも考えるってのが、正しく「思考」でしょ。
脊髄反射的に「せんそーはんたい!」って叫ぶのは、思考じゃないと思うのだが。
*政治家や、企業の不祥事に対して。
通常時には問題が起こらないよう運営し、万一何か問題が発生した場合には、速やかに情報を公開しつつ、迅速かつ公正な対応をするように。
等と言っている「一般的な市民」とやらが。
有事法制については「日本社会を軍事モードに変えていく」等と言って反対するわけだ。
そうか。
「一般的な市民」とやらの感覚とは、即ち「己に義務が発生しない限りの、最大限の保護を望む」ってワケですな。
ま、その感覚がわからないってなこた、言いませんがね。
そんな阿呆揃いの国家には、あんまり明るい未来を予想することはできませんな。
*軍事力の行使について、その方法論を問うているのか。
軍事力そのものを否定しているのか。
それは、わかりませんが。
己を守るために、己の力を行使することを拒み、または、己以外の力だけを頼むのであれば、それは、健全ではないと思うものであります。
*ま、こんくらいで。
真剣に「有事法制」の問題点について考えているのであれば、それはいいのですが。
単なる「軍事力アレルギー」としか受け取れない言葉には、がっかりするね。
*この犬、©ごはんぢゃワンは、怖い。
アンパンマンと、いい勝負だ。
「ご飯が減って力が出ないよ〜」
「©ごはんぢゃワン〜! 新しい脳髄よ〜!」
怖い。