和憩団欒房〔わけいだんらんぼう〕 過去Log 01
官制大観のメッセージ・ボード「和憩団欒房〔わけいだんらんぼう〕」の、99年05月~00年3月までの過去ログから Q&A タイプのやりとりのみ編集抜粋したものです。収録にあたってざくっと削除させていただいた部分も少なくないので、本文内容とタイトルが一致していない場合がありますが、悪しからずご了承ください。
- ■神祗官について 福田 理恵 (99/05/17 20:46:19)
- ちょっと興味があって覗いた者です。(大学の専攻が日本文学だったので・・・)
神祗官というのは実際どのような仕事内容なのでしょうか。
(宮中行事の催事の為の日取りの決定などはやはりこの官職の人が行っているのでしょうか?)
すみません、神祗官についてざっと読んで質問するのも何なのですけど・・・
私自身が宮廷行事と官職がどのように結びついているか有職故実を勉強して
イマイチわからなかったんですよ。
- ■神祇官と祭祀との関係 しげちゃん (99/05/18 10:35:46)
- 1. 神祇官は祭祀の日取りの決定を行っているか。
2. その他、祭祀における神祇官の役割は。
という線で、わたしのわかる範囲で、回答してみますね。
● 1. 日取りについて。
これは大まかなことは「令」に規定されています。
具体的には「神祇令」に、何月にどういう祭祀を行うかが定められており、
(わたしは「格式」の勉強はまだ詳しくしてませんのでわかりませんが)
「式」などに詳細な「期日に関する規定」があったかもしれません。
この規定に従って、神祇官が太政官に祭祀の申告を行います。
そうして太政官が「散斎の日」の夜明け(午前4時頃くらい)に、
関係諸司へその旨を知らせます。
散斎の【斎】とは「もの忌み」のことです。忌みというと神道の概念の
ような印象を受けますが、そもそも唐の令にこの規定があります。
斎には致斎と散斎とがあります。
致斎は「ま忌み」で、内面的な忌みです。心に思うところを禁忌します。
(現代人の心にたとえれば、たとえば、えろえろなことを想像したり、
あいつ殺しちゃろう、とか「思う」ことを慎む、ということですね。)
この期間は、祭祀以外のことは全面禁止です。
散斎は「あら忌み」で、致斎の略式。外面すなわち行動を慎む忌みです。
この期間は、諸司は仕事することは構わないのですが、刑罰は禁止、
喪を弔うとか病人を見舞うとか、肉食、音楽も禁止です(日本の場合)。
祭祀は大中小の種類に分けてありますが、この種類によって、
(致斎や)散斎の期間(1日~1ヶ月)が規定されています。
● 祭祀における神祇官の役割
神祇官の役人の祭祀での仕事は、
たとえば、祭祀に供する幣帛や飲食・果実の類を長官(神祇伯)が自ら
責任を持って監督する、とか、特定の祭祀について特定の氏族が
命じられた役割を勤める、たとえば、東西文部w1の刀を奉ゆ澑詞を読む、
中臣w1詞を読む、卜部は解え除きをする、などありますが、
これはよく知らないけど現代の神社やお寺で、神主さんや宮司さん、
事務局長など、職掌によって役割分担があるのと同じ感じじゃないかな。
現代に仮に「神社統轄本部」だか「神社統括省」なんてのがあるとしたら、
そこが管理したり任務としそうなことを、当時の神祇官がしている、
祭祀そのものは神職が行う、と考えて、大きな間違いはなさそうに思います。
- ■国司の謎 時岡 基夫 (99/06/09 01:20:56)
- 国府、国司が崩壊した11世紀以降も○○守とか△△介などの官職名が時代劇にでてきます。具体的には大岡越前守や吉良上野介などです。ひどいのになると戦国時代には山賊に毛の生えた程度の武士までこの”守”や”介”を名乗っています。質問ですがこの○○守とか△△介の官職本当なら天皇から貰うのでしょうが、とくに戦国時代にはどうなっていたのでしょうか?儀式などやっていられないと思いますが。自分で勝手に”おれは今日から時岡薩摩守だ”などと名乗っていたのでしょうか。
- ■源氏物語 村崎康麿 (99/06/09 03:45:32)
- >時岡さん
シロウトの私がレス付けるのもなんですが、戦国時代においては、低い官職は勝手に名乗る武将が多かった(ハクを付けるため?)と私も聞いております。いわゆる“僭称”というやつですよね確か…(私も時折「正五位上式部大輔 村崎康麿」などと勝手に名乗る場合があるのですが(^^;)…。
ただ“守”クラスになると流石に遠慮していたらしいっすよね。
それにしても、江戸期においては特にそうですが、統治地と官職がほとんど関連性がないということは、単なる名誉職だったのでしょうねえ。
私の故郷熊本における加藤清正の官位は、確か「従四位下肥後守 主計頭」という表記をどこかの文献で読みました。これは一応関連してはいます。ただ、ここに出てくる「主計頭」という官職のみで判断したのか『加藤清正は“武”だけでなく、経済にも明るかった…』等と書いてある物語も多く、疑問を感じております。ホントのところ、どうなんでしょ???
というわけで、そこいらへんの疑問、まとめてどなたか教えて下さい!!!
- ■僭称について しげちゃん (99/06/09 15:36:36)
- 時岡さん、はじめまして。村崎さん、フォローありがとうございます。
実は官制大観の FAQ は今回挙げられていたようなご質問なんです。
わたしは(平家物語には関心がありますが)
13世紀以降の、いわゆる武家時代に入ってからのことは門外漢なので、
たいてい、以下のような内容ばかりを回答させていただいてます。
----------------------------------------------------------------------
武士の場合は、朝廷の官職名を
「僭称〔せんしょう〕(=勝手に自称する)」ということが
あるようなので、あてにならないことが多いようです。
「介」に限らず、「外記」のようなものを含め、
武家の人物が「朝廷の」官職を名乗っている場合、
特に家臣クラスの武将が名乗っている場合は、
必ずしも「朝廷から正式に」任じられたとは限りません。
鎌倉武士団については、たとえば、
「三浦介」とか「千葉介」とかいう称は、
わたしの知る限りでは、正式に就いた官職名ではなく、
そう名乗ったというだけの「自称」です。
ただし、千葉氏は、ある時期から代々、
「下総権介」(正式な官職)に就いていたようです。
(三浦氏については全く知りません。)
----------------------------------------------------------------------
これについて、少し前に、「千葉氏の一族」(当方のリンクページから
リンクさせていただいてます)のばめんさんに教えていただいたことが
あります。
その文章は官制大観で使ってよいとのお許しをいただいてますので、
以下、一部編集抜粋してご紹介させていただきますね。
省略させていただいたところの他、千葉氏についての詳しいお話は
「千葉氏の一族」内に記述がありますので、
関心をお持ちの方はそちらも参考になさってみてください。
======================================================================
とくに、室町時代頃からは
関東の大名たちは、関東公方からの叙任が多かったようです。
そのうち、力をつけてきた大名が、自分の家臣に「官途状」を
かってに発給して、結束を固めていくようになります。
千葉氏でも、家老の立場にすぎない原氏でさえ「官途状」を
自分の家臣に発給しています。
千葉氏などに関しては、すくなくとも鎌倉時代以降の「○○介」は
家督を継いだものの「称号」だと思われます。
三浦氏は、「駿河守」に任じられていますが、当主は「三浦介」を
称していますし、小山氏は、代々下野国権大介の家柄ですから
「小山介」を称していましたが、朝廷からの官職は「下野守」です。
それと、千葉氏においては、「家督」を次ぐ以前に「下総権介」を
継承した嫡子を「千葉新介」と呼んでいます。
そして「家督」を継承すると、はじめて「千葉介」を称します。
千葉常胤の嫡子・胤正は、父がなかなか家督を譲ってくれなかった
ため、60歳を過ぎても「千葉新介」でした(^^;
千葉常胤の孫にあたる「成胤」「常秀」の兄弟は、
それぞれ勢力を二分して争っていた観がありまして、
「成胤」は父・胤正から正式に家督を譲られた「千葉介」です。
官職はといえば「下総権介」(疑問もあります)でした。
幕府は成胤を正式な千葉氏の当主と認めており、
北条時政に次ぐ御家人として遇されています。
それに対して、常秀は千葉氏の庶子という立場でしかありません
でしたが、若い頃から鎌倉にいて、将軍の側近的な役割をして
きていたため、官職においては成胤よりも数段上の
「左兵衛尉」、「下総守」に任じられていました。
常秀は、千葉氏の家督の称号「千葉介」に対抗して、
実際に下総の国主の官途である「下総守」に任じられることを
幕府に願い出たのかもしれません。
======================================================================
それから、曖昧で申し訳ないですが、たしか室町時代に、
「武家の官職は朝廷とは関係ないものだよ。好き勝手にすればー」みたいな
文書が出されたことがあると、どこかで目にした憶えがあります。
朝廷側の文書だったと思うんですが....よく憶えてないので違ってるかも
しれない(^^;
「僭称」については、わたしも、それが行われはじめた理由や時期、
それが黙認された(?)背景など、も少し詳しくはっきり知りたいと
思ってるので、どなたかご教示くださると幸いです。
- ■久々にやってきました みなせ (99/06/11 11:44:53)
- ●「東宮御所」というのは内裏のどこにあるのですか?
●「蔵人」というのは文官? 武官?
●元服する時期というのは決まっているのですか?(ひょっとしたら時代によって
違うのかもしれませんが・・・
- ■江戸時代の武士の官職名について教えてください ろんすけ (99/06/12 05:07:42)
- ところで江戸時代の大名や家老、旗本、御家人が名乗っている官職名は、全て幕府が朝廷に許可を得ているものなのでしょうか?(例・浅野内匠頭、吉良上野介、大岡越前守、中村主水etc.)以前、江戸時代について書かれた本に大大名については記載されており、それによると一応幕府が朝廷に許可を得てはいるが、官職名と位階のバランスが通常と違っているということでした。是非そのあたりのことについて教えてください。
因みに以前書いておられた「神社統轄本部」「神社統括省」的なところは現代にもちゃんとありますよ。名称は「神社本庁」です。(戦後の政教分離により、国家機関ではなくなりましたが)トップの方(カミ、神祇伯にあたるのかな?)の名称は「庁長」です。
- ■情報有り難うございました! 村崎康麿 (99/06/16 05:51:15)
- >ろんすけさん
素人の私がレス付けるのもなんですが、枯れ木も山の賑わい(^^;ってことでお許しを…。
あくまでも私見ですが、江戸時代に関してはご存知のように身分制度はかなり厳しゅうございましたし、征夷大将軍には朝廷に対して官位奏請権がありましたから、ほとんどの場合、奏請された官位なのではないでしょうか。
ただ、確かに官職と位階についてはアンバランスなものが多いですよね。前にも書きましたが、加藤清正なんかは従四位肥後守 主計頭 とかでしたから…従五位下が適当なんですよね確か?行というには多すぎるようですし…(「従四位 行 肥後守 兼 主計頭 加藤清正」つうのもなんか不自然ですね)。あるいは国持ち大名に関しては位階のみを高めに設定していたのでしょうか??
しげちゃん(さん)は平安期以前がご専門のようですし、どなたか詳しい方いらっしゃいませんかねえ…。鎌倉期以降の僭称についてもそうですが、私も興味津々なのですが、調べる術さえわかりません!!
- ■元服/東宮御所/文武官 しげちゃん (99/06/20 16:24:58)
- 帰宅しました(^^)
みなせさん、はじめまして。
ご質問の件、わかる範囲で回答させていただきますね。
● 元服について
「元服〔げんぶく/げんぷく〕」とは、
現代語の「成人式」、すなわち儀式のことをいいます。
女子の成人式にも使いますが、ふつうは男子の成人式のことを指します。
【元】とは首(頭部)のこと、【服】とは冠のことで、
具体的には、それまで頭頂部を人目にさらしていた「童〔わらわ〕」が、
「これから冠を被る(ようになる)よ、という儀式」です。
それから、いつ頃からかは知りませんが、皇太子・皇子などの元服の夜には、
女子を添い寝させる風習もあったようです。
「元服」をする時期は、少なくとも9世紀半ば以降(清和天皇以降)、
「身長が4尺5寸(約136cm)以上となったとき」を一応の基準としたようです。
一般的には5~20歳くらいの間に行われ、天皇の場合はだいたい11~15歳くらい、
皇太子・親王の場合は11~16歳くらいの間に行われたようです。
(詳しくは知りませんが、庶民にまで「元服」のような風習が広まるのは、
室町時代以降のようです。)
「元服」という儀式をしてない人は、成人と呼ばれるような年齢になっていても、
"一人前の大人"とは見なされません。
(適切な例かどうかわかりませんが、たとえば酒呑童子の姿を想像してみてください。)
● 東宮御所について
「内裏」とは「(天皇の)御所」のことで、
東宮は(幼少期は知りませんが)一応、別世帯を構えてますから、
「東宮御所」は内裏の外、京内のどこかにあるはずです。
「平城京」では「大内裏」の内、東の「外京」に東宮があったみたいですね。
こういうのは時期によって異なるでしょうし、「里内裏」のことなども参考になると思うので、
「予備知識」の「内裏」などもご覧になってみてください。
わたしが回答できるのはここまでです(^^; どなたかのフォロー期待します。
また、みなせさんも、後日、ご自身で調べられたことなどありましたら、
こちらへフィードバックしてくださるとうれしいです(^^)
● 蔵人は文官か武官か
さて、ここでクイズです(^^; 蔵人は文官でしょうか武官でしょうか。
☆ヒント☆
文官/武官の違いについては、「予備知識:官職:職の種別区分」の「武官/文官」を参照ください。
蔵人の職掌は「蔵人所」を参照ください。
☆補足☆
「律令官制の沿革」の「律令制衰退期」という項にも書いていますが、蔵人は「延喜式」の組織図に載せられていません。
てなわけで、
(わたしはまだ「蔵人式」を含め「格式」の詳しい勉強に至ってないのですが、)
"現段階のわたし"の知る限りでは、蔵人は文官/武官の正式な規定をされていません。
が、おそらく蔵人は文官として扱われていたろうと思います。
どなたか、フォローよろしくお願いいたします。
- ■矛盾発見 しげちゃん (99/06/21 01:24:46)
- いまファイル更新してて気付きましたが、
「蔵人所」の『五位・六位蔵人』の総称「職事」の記述は、「予備知識:官職」の「職事」の説明とやや矛盾しますね。
時代による違いがあるのかもしれませんが、よくわかりません。
とりあえずそのまま保留にしましたが、「予備知識:官職」の「職事」の説明の方を優先させてください。
- ■平安時代の色々について ハルノ (99/06/22 13:57:57)
- 1.「五節舞」は、大嘗祭、新嘗祭に宮中主催でしか行われなかったのか、
または舞姫たちの年齢はいかほどだったのか。
貴族の宴の余興などで舞われたりはしなかったんでしょうか。
でも、「五節」ですものねぇ・・・。
2.殿上女童の服装は衵のみだったのか?
細長なんて、働く人の着る服ではなかったのでしょうか・・・?
女童に上がる子供たちの家の格などご存知の方はいらっしゃらないかな。
どなたか、ご存知でしたら、おたすけ下さい。
- ■五節舞その他 しげちゃん (99/06/23 09:11:17)
- ハルノさん、はじめまして。お役に立ってるようでしたら幸いです。
ご質問の件ですが、いくつかの言葉は詳しくご存知でない方もおられると思いますので、
ハルノさん個人というより、不特定多数向けに回答させていただきますね。
そんなん知っとるわい、てな説明があっても(^^;許してください。
● 五節舞〔ごせちのまい〕について
> 「五節舞」は、大嘗祭、新嘗祭に宮中主催でしか行われなかったのか、
はい、"わたしの知る限りでは" そうです。祭のイベントの一環ですね。
「五節舞」は、2日日の「豊明節会〔とよのあかりのせちえ〕(=新嘗会〔しんじょうえ〕)」で舞われます。
ちなみに「豊明節会」では、他に「久米舞」「吉志〔きし〕舞」その他の舞も行われます。
「五節〔ごせち〕」と呼ばれる5つの「節会〔せちえ〕」は公宴(宮中で行われる宴)です。
(江戸時代に決められた「五節供(五節句)〔ごせっく〕」とは異なります。)
主催者は、んー、やっぱり天皇だろうな。
------------------------------------------------------------
01/01 元日節会
01/07 白馬節会〔あおうまのせちえ〕
01/16 踏歌節会〔とうかのせちえ〕
05/05 端午節会〔たんごのせちえ〕
11月中旬頃 豊明節会
------------------------------------------------------------
「節会」というのは、そもそもは「節日〔せつじつ〕に行う集会」という意味でした。
「節日」とは、上に挙げた「五節」の日に 03/03 と 07/07 を加えたものです。
時代が下ると「公事(朝廷の重要な行事)があるときの公式酒宴」を「節会」というようになります。
余談ですが、現代、春と秋に天皇・皇后主催で赤坂御苑に各界功労者等を招く
「園遊会」てのがありますね。お庭には手巻き寿司とかジンギスカンとかの
模擬店が出されていて、おみやげに虎屋の"残月"をいただいて帰る(^^;
あれは雅楽演奏の流れる和風ガーデンパーティ式の公宴ですが、
「節会」ってあんなふうな催し物、と考えて大きな間違いはないと思います(あくまでも私感)。
> 舞姫たちの年齢はいかほどだったのか。
「五節舞姫〔ごせちのまいひめ〕」は(一応)未婚(嫁入り前)ですよね。
公卿のおうちから2名と、それ以外の殿上人・国司のおうちから
2名(大嘗祭ではもう1名追加)、出されます。
「五節舞姫」の年齢について書かれたものを"わたしは"見たことないですが、
参考までに「采女」を見てみると、養老令で「采女」として貢がれるのは、
13歳~30歳となってますので(くー、わたしは範囲外だ、失礼ね~)、
「五節舞姫」もやっぱりそのくらいの範囲で、かつ未婚(嫁入り前)の年頃
なんじゃないでしょうかねぇ。とすると10代後半てことになるのかな(^^;
> 貴族の宴の余興などで舞われたりはしなかったんでしょうか。
> でも、「五節」ですものねぇ・・・。
そうですねー(^^;
「五節舞」を教える人を「五節舞師〔ごせちまいのし〕」と云いますが、
古い時期は「田舞」「倭舞」なども教えていました。
(時代が下ると(遅くとも9世紀以降)、分化してそれぞれ専門の舞師が置かれます。)
「五節舞」は収穫に関わる舞なのかもしれませんね(想像)。
● 衵と袿と細長
・ 衵〔あこめ〕と袿〔うちき/うちぎ〕
衵と袿とは実質的に同じもので、保温(や、おしゃれ)用に、
肌衣(肌着)の上、表衣(上着)の「内側に着込む」ものなので、
「あこめ」「うちき」といいます。
普通、すそを短く仕立てたもの(主に男性か年少者用。特に幼少女用)を「衵〔あこめ〕」、
すそを長く仕立てたもの(女性用)を「袿〔うちき/うちぎ〕」と呼ぶようです。
・ 細長〔ほそなが〕
「細長」は晴れ着ですよ。主に公家の赤ちゃん・少女の装束だったようですが、
年長の女性でも「衵〔あこめ〕」(袿の書き間違いじゃないです(^^;)
の上に着ることがありました。
● 女童?
女童というのは "わたしの知ってる範囲には" ないのですが、
「童女〔わらわめ/わらわべ/めのわらわ〕」、ないし、「女孺(女嬬/女豎)〔にょうじゅ/にょじゅ/めのわらわ〕」のようなものだとすると、
いずれも「小間使い」のような、お掃除とか、調度品運びとか、灯りの係とかをする
下級職ですので(どこ出身の誰々といった実例を知りませんが)、
家格は低いんじゃないかと思います。(家格を問うような家柄でもないかも(?))
これはわたしは不明で間違ってるかもしれません。
- ■「伊勢斎宮」展見に行きました♪ みなせ ありす (99/06/25 16:18:07)
- そういえば「斎宮」の呼び名というのは、伊勢と賀茂とでは微妙に違うという話を
聞いたような・・・? 違っていたらごめんなさい。
さて。レス頂いた、
>元服について
貴族の元服(平安時代)というのは、除目の時期と重なるものだったのですか?
>東宮御所について
以前、「東宮」というのは字の通りに東に御所あるからそう呼ばれているのだと
聞いたことがあるのようなないような?? なので漠然と内裏内の東側にあるのだと
思っていたのですが、内裏の外にある場合もあったのですね。平安時代でも?
- ■RE: 「伊勢斎宮」展見に行きました♪ しげちゃん (99/06/28 08:22:44)
- > 「斎宮」の呼び名というのは、伊勢と賀茂とでは微妙に違うという話を
> 聞いたような・・・?
ん、たとえば、伊勢の斎王の事務は斎宮寮が、賀茂の斎王の事務は斎院司が担当します。
この話は、浅井虎夫さんの新訂「女官通解」講談社学術文庫に詳しく載せられてますよ。
(そこで勉強したことが、官制大観にはぜんぜん反映できとらんな(^^;)
> 貴族の元服(平安時代)というのは、除目の時期と重なるものだったのですか?
うーーーん、それはわたしはわかりませんけど、
特に根拠のない「感じ」としては、除目とは関係なさそうな気がします。
当時のいろんな史料にあたってる方ならご存知かもしれないですね。
> 「東宮」というのは字の通りに東に御所あるからそう呼ばれているのだと
> 聞いたことがあるのようなないような?
そういう説もあります。まだ「これが定説!」みたいなのはないみたいです。
ちょっといま確認しないで書いてますが、東という方角は、季節では春にあたり、
色では青にあたり、すなわち若者を表す、みたいな説とか。
「皇居、及び、皇族呼称など」や「春宮坊」の辺りに何かそんなこと書いてなかったかな。
書いてないかもしれませんが(^^;よかったらそちらも参照してみてください。
- ■元服と東宮に補足 しげちゃん (99/06/28 14:15:53)
- 補足です。
元服のことですが、清和天皇~中世の「天皇の元服」に限っては、
全て 01/05 までに、つまり、年が変わってすぐに、行われているようです。
東宮のこと、
平安京の内裏図を見てください。あの中にある建物は全て、現代流にいえば、
倉庫・作業場・控え室、といった天皇の私的な用をなす建物です。東宮の住んでいる建物はありません。
それから「里内裏」の記述も読んでいただけました?
平安時代でも、11世紀半ば以降(つまり後半150年ほど)は、天皇も内裏に住んでません。
- ■宮内庁ホームページ公開 しげちゃん (99/07/01 07:42:57)
- 本日(それとも昨日かな?)より、宮内庁のホームページが公開されたそうです。
(メールで教えていただいた情報です。ご紹介ありがとうございました(^^)☆)
http://www.kunaicho.go.jp/
というわけで、いま、さっそく伺ってみました。
案外、詳しく紹介されてて、ちょっと意外というか、うれしいです(ね~)(^^)
ただ、職員については、もっと詳しく全部を紹介してくださったら、
さらに"おもしろい"のになー、と思いました。
現在でも、内舎人とか、殿部とか、女孺とかの職員はいらっしゃるんですよ。
- ■ありがとうございます! ハルノ (99/07/02 10:50:47)
- 丁寧なお返事、ありがとうございます。
こちらの方もちょっと図書館などを漁ったのですが、
NHKで源氏物語の平安時代を解説なさった
(北の方の役割などについて)
明治大学の服藤早苗さんの著作や論文が童舞について詳しく
書かれているみたいですね。
- ■レスありがとうございます♪ みなせ ありす (99/07/07 17:23:02)
- 何とはなくいつも不思議に思っていることなんですが、「かさね色目」のことです。
(こんなことはココに書くことじゃないかもしれませんけれども、なんか大家さま
詳しそうだと思ったもので(^^;))確かにいろいろなかさね色目がありますが、
男性用・女性用のかさね色目というものがあるのでしょうね? 皆、そういったこと
はやはり古文書等で調べているのかしらん??
- ■Kenichiさん&みなせさんへ しげちゃん (99/07/09 08:38:51)
- ● かさね色目
これについては、廃止された八條さんのサイトが詳しかったのですが、残念ですね。
女性の装束については「満佐須計〔まさすけ〕装束抄」という本が定番な感じです。
先日のハルノさんのご質問にあった童装束なんかもこれに詳しいようです。
男性(狩衣)については、八條さんは「物具装束抄」を中心に扱ってらしたので、
これが一番よいのかもしれません。
いずれにしても、本(当時の)によって書かれてある内容が少しずつ違ってるようです。
装束は、(わたしも関心あるのですが、)
わたしよりも「やえむぐら草子」(当方のリンクページからリンクさせて
いただいてます)のやえむぐらさんの方が、ご専門ですし詳しいですよ(^^)
- ■はじめまして 若清水 (99/08/16 10:13:21)
- 親王などの務く役職なども教えてください(自分で調べろっつの・笑).
- ■親王の就く職について しげちゃん (99/08/20 09:23:00)
- ■ 親王の職について
時期によって若干違うと思いますが、養老令の規定では以下のようになっています。
あくまでも官位(品)相当の上では、ですけどね。
--------------------------------------------------------------------------
● 一品の品階を持つ親王の場合
・太政大臣
● 二品の品階を持つ親王の場合
・左右大臣
● 三品・四品の品階を持つ親王の場合
・大納言
・大宰帥
・八省卿(=中務卿・式部卿・兵部卿・民部卿・治部卿・刑部卿・大蔵卿・宮内卿)
--------------------------------------------------------------------------
- ■津司について しげちゃん (99/08/23 10:24:37)
- 情報&質問のメール(08/20付)をいただきました。
以下、いただいたメールの部分転載、及び、わたしの回答部分です。
(個人名等は必要と思われませんでしたので伏せさせていただきました。)
----- ここから -----
> さて、おとといの新聞(魁新聞と、日経新聞)に「津司」の記事が
> 出ていました。なんでも、港の管理と渤海国との外交官が役割
> なんだそうです。確かに、我が国は四方を海に囲まれているの
> で、港の役割は重要です。当然、朝廷としても、管理する役所
> をおいているはずなんですが、この「津司」というのは、こうろ
> 館の下に配属されているんでしょうか。
> 不勉強と言うよりは、どうやって調べればいいのかがわからな
> いところです。すいませんが、この「津司」の役割について教え
> て下さい。
「津司」というのは、初めて聞きました。
(お教えくださって、ありがとうございました。)
根本史料に多くあたっておられる方なら、あるいはご存知の方もおられるかも
しれませんが、これまでの書籍等ではまず取り上げられていないことから、
残されている記録の少ない役所&新しく確認された役所かと思われます。
それから、臨時に置かれた役所である可能性も高いですね。
今回のそれら新聞記事内容を詳しくお教え願えましたら嬉しいです。
いまのところ、時代や、置かれていた地名その他、詳しいことがわからない
ので、その役所の役割については、なんとも回答できないです。
(時代や地方がわかっても "知らない" ことに変わりはないのですけど(^^;。)
で、どこの配下に置かれているかというと、これも勝手に推測するばかりですが、
地方のものであるなら、国司(大宰府等を含む)の管理下で動いた可能性も
ありますが、挙げておられた鴻臚館というのは、いまでいうなら迎賓館みたいな
ところ(?)ですから、その下に置かれていたとは考えにくいです。
----- ここまで -----
- ■津司について・追加 しげちゃん (99/08/23 11:14:05)
- 先の発言で「時代がわからない」と書きましたが、よく考えてみると、
渤海との外交を担当していた、ということなので、
8~10世紀初頭のもの、と、ある程度わかるんでしたね。
それでも範囲が広いですが、たぶん8世紀、いわゆる奈良時代くらいのもの
なのでしょうね。渤海との交流がとりわけ目立つのはこの時期だから。
(大はずれかもしれないけど(^^;)
とすると、養老令と重なるか、若干その後になるかって感じかなぁ。
- ■「津司」について 鈴木 幹 (99/08/24 22:22:36)
- どうーも、下で「津司」について、問い合わせた鈴木 幹です。
よろしくお願いします。
もう一度、新聞を読んだところ、やはり時期は8~10世紀のものであり、
続日本紀に載っているようです。
読んでみたいと思っていますが、近くの図書館にあるのかなあ?
- ■津司について しげちゃん (99/08/25 08:20:51)
- * 鈴木 さん
「続日本紀」なら、文庫本もありますし、たいていの図書館に置いてあるでしょう。
「平安遺文」の天平3年7月5日にも船司津司の名が出てるようですね。
- ■津司について(最終) しげちゃん (99/08/26 09:03:32)
- 「続日本紀」養老四年正月二十三日に、「渡嶋〔わたりしま〕津軽津司従七位上諸君鞍男ら六人を、
蒭葯〔まつかつ〕国(粛慎)に遣わし風俗視察させた」旨の記述がありますね。
後述の新野直吉さんのお話では「渡嶋津軽津司」とは、
「(以下引用)渡嶋すなわち北海道から津軽までの海域(北の海みちが通じて
いる来航沿岸)を対象として港津業務を管轄」していた「津司」、だそうです。
● 参考文献
わたしは読んでないので、津司のことも書かれているかどうかはわかりませんが、
新妻利久さんの「渤海国史及び日本との国交史の研究」という本(出版社は不明)が
参考になりそうです。
● 参考サイト
「秋田美人」というサイトに新野直吉さんの「北方古代日本文化と秋田美人」というタイトルの講演内容が載せられてあって、
その「北の海みち」という章節 http://www.media-akita.or.jp/akita-komachi/akita-beauties-study2.html に、
渤海との交流などが解説されています。
参考になる文章なので「津司には特に関心ないよ」という方もぜひご覧になってみてください。
それから、参考になるかどうかは人次第かな(?)と思いますが、
「帝國電網省」というサイトの「喫茶室」(掲示板)、
今年の6月 http://www2.justnet.ne.jp/‾yoshiro/bbs/log_199906.html にも、
「津軽外三郡誌」との関わりから、「続日本紀」のこの記述について言及されてます。
*****
なるほどねー。「津司」って、渤海との関わりを学ぶ上では有名な言葉だったんですね。
これを調べてる課程で、他にもい~っぱい知らない役所や官職名(やその変遷)を
発見してしまいました。また課題が増えた、て感じ....。
- ■荘園に関して 柴田 (99/09/12 01:27:02)
- しげちゃんさん、ものすごいお久しぶりデス。。。
千葉氏のページの柴田です。
最近、荘園の職掌に関して、こんがらがってしまい、助けてもらおう!と思って書き込ませていただきました。
たとえば、平安時代末期の相模に大庭景義という人物がいました。彼は、「大庭御厨司」であり、さらに御厨内の「懐島」に館を持っていたために「懐島権守」と称していました。この場合の「権守」とは、おそらく国緝に関する「権守」ではないと思うんです。だとすると荘園の職掌のひとつ。。。?
なにか荘園の職に関してご存じのことがありましたらお教え下さい。
- ■まとめてRES です しげちゃん (99/09/13 00:24:52)
- * 柴田(ばめん) さん
こんにちは。ご無沙汰しています。
ご質問の件、残念ながら、わたしではお力になれそうにありません。(わたしはまだまだ令文を通読している段階で、荘園、田畑、土地制度、産業・経済、地方政治、そうした諸々の個別の勉強には行き着いてなくて、まったくダメです。)
「荘園公領制」という概念をご存知でしょうか。比較的最近(25年ほど前)出てきた概念ですが、ほぼ承認され定着しているようです。それまでは土地制度は、私領を中心に捉えた「荘園制」という概念で考えられてきましたが、「大田文〔おおたぶみ〕(国ごとの土地台帳)」や国緝領の研究が進展して、たとえば鎌倉時代の公領と荘園との面積比は半々だった(公領の方が圧倒的に多い国も少なくない)ことなどがわかってきて(つまり、公領を無視・軽視できないことがわかって)、そんな中で新しく登場した概念です。わたしはよく知らないので(ここでした荘園公領制の説明ももしかしたら間違ってるところがあるかもしれません)参考になりそうな本を挙げておきます。(すでにご存知だったらごめんなさい。)
「荘園公領制」の提起者、網野善彦さんの『日本中世土地制度史の研究』塙書房
あと、「負名〔ふみょう〕制」とか「免除領田制」などを調べてみるのもいいかもしれません。律令制が崩壊した後、王朝国家体制の下で採用された新しい収奪体系は「名〔みょう〕」等を媒介とするものです。
以上、直接の回答にはなってませんが、何か参考になりましたら幸いです。
また、どなたか詳しくご存知の方がおられましたら、ぜひフォローお願いいたします。
- ■メールでいただいたご指摘 しげちゃん (99/09/25 00:23:33)
- 以前、こちらのボードへも書き込んでくださったことのある谷口真起子さんより、メールで以下のようなご指摘や補足をいただきました。本文転載不可とのことで、編集等してご報告させていただきます。
谷口さん、いっぱいのフォロー、どうもありがとうございました(^^)
■ 誤った部分についてのご指摘
● 「国司」のページの下国の守の位について
(誤り)従六位上 →(正しくは)従六位下
● 「蔵人所」の「蔵人所別当」の項について
(誤り)はじめは宇多天皇の代、藤原時平が大納言で任じられ(以下略)
(訂正)はじめは醍醐天皇の代、藤原時平が大納言で任じられ(以下略)
藤原時平が蔵人所別当になったのは、宇多天皇の譲位があった寛平9年7月3日の4日後、7月7日(『公卿補任』寛平九年条)とのことです。
以上2点については、後日、該当箇所を訂正・更新しておきますね。
■ 補足いただいたこと
● 「大学寮」の「文章博士(紀伝博士)」の項で、「紀伝・詩文を担当して教授する令外の官職です。特に才名のある人を選任します。定員は1名。 」と書いている部分について
- 神亀 5年(728): 明経直講1名を割いて文章博士を置く(正七位下)
- 大同 3年(808): 明経直講1名を割いて紀伝博士を置く(正七位下)
- 弘仁12年(821): 文章博士を従五位下の官とする
- 承和 1年(834): 紀伝博士を廃止し、文章博士を2名に増員
(『平安時代史辞典』「文章博士」「紀伝博士」、及び、『国史大辞典』「紀伝道」より)
● 「大学寮」の「進級~卒業の仕組み」の項で、
・「桂を折る」という表現について
「折桂」は「試験に及第する」という意味を持つ語で、『蒙求』「膾〓一枝」に基づいており(※「〓」=ごんべんに「先」)、膾〓が晋の武帝に「臣賢良に挙げられ、対策天下第一と為れるも、猶ほ桂林の一枝、崑山の片玉のごとし」と答えたという話(『晋書』膾〓伝)があるそうです。
・ 「文章得業生」について
文章得業生になるには、試験ではなく文章博士の推挙が条件ではないか、とのことです。菅原道真の『菅家文草』には、省試と対策は収録されているけれども、文章得業生になる際の試験の解答というのはないそうです。
ただ、「得業生」というものが置かれたのは、聖武天皇の代、天平2年(730)で、菅原道真の活躍した時代よりも150年ほど溯りますから、時代によって事情が異なるかもしれませんね。文章博士の地位もだいぶ異なります。
・ 「秀才」の「方略の策」に関して、「『方略試』はこのルートを通った人が受験する官吏登用試験で、国政の根本テーマ....「なぜ中国の~の時代には賢者が多く出たのか出なかったのか」といったことですが....に対する解答(方策)を『方略の策』という論文で提出するものです。」と書いている部分について
問題を「策問」、答案を「対策」と呼ぶそうです。
【問題】とか【答案(解答)】という言葉の意味が分かりにくいかと思いますが、たとえば、現代で、「国政に関わる小論文の問題が2問出題されて、1つは税金に関する問題、1つは外交に関する問題だった」といったときの、「小論文の【問題】」という語に当たるのが「方略の策」という語、具体的な「税金/外交に関する【問題(設問)】」に当たるのが「策問」、それで、「方略の策」の「答案」が「方策」、個々の設問に対する「答案」が「対策」、という理解でいいかと思います(もし間違っていたらご指摘お願いします(^^;)。わたしの文章では「解答」という言葉を使ってますが「答案」という語の方が適当(わかりやすい)と思うので後日置き換えますね。
- ■「文章道」か「紀伝道」か 谷口 (99/09/25 12:30:34)
- 管理人さんのメールによれば、
>もし谷口さんのご都合が悪くなければ、どうぞお気になさらず
>ボードをご利用ください。
とのことでしたので、長文になりますが、掲示板の方で補足します。
谷口> 『国史大辞典』「紀伝道」には「文章道」ではなく「紀伝道」という
谷口> べきだという記述もあります。
しげちゃん> その項の担当者の方が書かれていたのは、「【紀伝道は、】文章
しげちゃん> 道ではなく紀伝道というべきだ」ということだったのでしょうか。
しげちゃん> 前後の文脈や主語がわからなかったので、いまひとつわからなかっ
しげちゃん> たのですが、この一文だけ見てみると、「そりゃそうだ、文章道
しげちゃん> は文章道、紀伝道は紀伝道と呼ぶべきだろう」くらいの印象しか
しげちゃん> 受けませんでした(^^;
しげちゃん> それより、『国史大辞典』に、わざわざ「~というべきだ」と書
しげちゃん> かれてあるということは、逆に、そう云わない傾向もあるという
しげちゃん> ことなのでしょうかねぇ?
『国史大辞典』「紀伝道」から問題の箇所を引いてみます。
紀伝道の教科内容は史学と文学の間で比重が揺れ動いたため、他道ではた
とえば、明経博士・明経生などから成る学科を明経道と称したのに対して、
文章博士・文章生などから成る学科は紀伝道と称し、冠称を異にしている。
しかるにおそらく明治以来このことを理解せずに、文章博士・文章生など
から成る学科を文章道と呼び始め、これが今に至るまで引き継がれている。
そのためひいては、紀伝道のほかに文章道なるものがあるかのような誤解
まで生んでいるので、史的名辞としても文章道を用いないことが望ましい。
この項は『上代学制の研究』の桃裕行氏が執筆しており、これは、
『国史辞典』に依頼された項目に「紀伝道」があった。紀伝道とは何か。私
はそれまで単純に、明経博士・明経生等から成る学科を明経道、明法博士・
明法生等から成る学科を明法道、算博士・算生等から成る学科を算道と呼ぶ
と同じく、文章博士・文章生等から成る学科を文章道と呼ぶとして少しも疑
わなかった。一方「紀伝道」という字面に何度も御目に懸っていることもま
た確かであった。そこで史料の上で、「紀伝」または「紀伝道」という字面
を追跡した結果、当時学科を呼ぶ言葉として、「紀伝道」はあっても「文章
道」はないことが分った(『本朝文粋』二、菅原文時封事三箇条の第三条に
見える「文章道」は学科の名称ではない。【谷口注-「文章の道」の意味】
学科の名称としての用例を私は小中村清矩『陽春廬雑考』巻六、明治二十年
三月稿の「古代文学論」に見出したが、あるいはもっと遡り得るであろう)。
文章博士・文章生等から成る学科を紀伝道と呼ぶのは、その名称の発生の時
点におけるこの学科の内容たる史学・文学のうちいずれに重点を置いて考え
たかによるものであろう。
(桃裕行「復刊あとがき」『桃裕行著作集第1巻 上代学制の研究〔修訂
版〕』思文閣出版、1994年、491~492ページ)
という見解の元に書かれたようです。
ただ「文章道」「紀伝道」のどちらを採用するかは人によって随分違うよう
で、どちらか一語という場合はもとより、混用しているケースもありました。
#専門家でもあまり神経使ってない用語なんでしょう。
- ■文章得業生と試験 谷口 (99/09/26 16:35:21)
- この問題に関しては、10世紀以降の状況を前提として書いています。
#テーマが「平安中期~末期(10世紀~)の官制」ですので。
まず得業生が設置された天平2年の太政官奏(『職員令集解』に引用)には、
得業生十人。明経生四人、文章生二人、明法生二人、算生二人。並びに生
内の人の、性識聡慧にして芸業優長なる者を取れ。
とあります。
そして『本朝文粋』巻2・64に引かれた弘仁11(820)年の太政官符には、
文章生には良家の子弟を取り、寮にて詩若くは賦に試みて之を補し、生の
中にやや進む者を選び、省にて更に覆試(二次試験)し、号して俊士と為し、
俊士v睨楚の者(傑出した者)を取りて秀才生とすべし。
とあります。ただ、天長4(827)年には俊士は廃止されますので、俊士と秀才生
(同時に名称も文章得業生に戻されます)を区別する試験は行う必要はなくなり、
結果「やや進む者を選ぶ」だけになったと思います。
しかし、肝腎の『延喜式』(905年編纂開始、927年奏上)には選抜方法について
の記述はありません。試験があれば何らかの史料に「試」という文字が見えるは
ずですが……。
『上代学制の研究』によりますと、
文章得業生には文章生あるいは給料学生かゆ�に従って補されたが、稀に
はその為に試験が行われている。これは単独で行われることはなく、文章
生試と一緒に行われ、及第者の中の優秀な者の一人ないし二人を文章得業
生に補したようである。
として、その例として寛仁2(1018)年と久寿元(1154)年の文章生試を挙げて
います(292頁)。
-------------------------------------------------------------
「『文章道』か『紀伝道』か」について更に補足します。
『平安時代史辞典』「紀伝道」の項には、
当初は特別の学科名がなく、紀伝道と呼ばれるようになるのは貞観年間のこ
とである。(中略)漢文学をも専攻する学科が紀伝道と呼ばれた理由は明ら
かでなく、九世紀末には文章道という名称が併用された形跡もある。しかし
十世紀以降は専ら紀伝道の名に統一された。
とありました(執筆は久木幸男氏)。
- ■文章得業生関連のお話へのレス しげちゃん (99/09/29 08:52:08)
- 谷口さん、どうもありがとうございます。
● RE: 文章得業生と試験
> 『延喜式』(905年編纂開始、927年奏上)には選抜方法について
> の記述はありません。試験があれば何らかの史料に「試」という文字が見えるは
> ずですが……。
延喜式で弘仁年間の太政官符を補うのはちょっと間が開いてると感じられませんか? それから、上で引用した考え方に沿ってみると、「文章博士の推薦」である場合についてもやはり、そういう記録が残っているはず、となってしまうのではないでしょうか。
(推薦ではなかった、としたいわけでも、からんでるわけでもないので誤解しないでください(^^; ごめんなさい)
素人のわたしがあれこれ考察しても始まりませんが、弘仁11年(820)の太政官符(=太政官が出す指示文書)で、
> 省にて更に覆試(二次試験)し、号して俊士と為し、俊士v睨楚の者(傑出した者)を取りて秀才生とすべし。
※現代語訳: 式部省でさらに二次試験を行って、(合格した者を)名付けて「俊士」とし、俊士のうち傑出した者を取って「秀才生(=得業生)」とすること。
(「俊士」とか「秀才生」という言葉をわたしは知りませんが、「秀才生(=得業生)」としてよかったですか?)
とあって、その翌年の弘仁12年(821)に文章博士を従五位下に昇格させていることは、関心を引かれますね。
文章博士による推薦を可能にする(世間に認めさせる)前措置みたいな印象を受けます。
ただ一方で、上の太政官符の内容は、
・二次試験に合格した者を「俊士」とする。
・その「俊士」(=合格者)のうち、試験の成績がよかった者を「秀才生」に取る。
というふうにも読めそうです。
古藤真平さんの「文章得業生試の成立」(『史林』74-2 1991年)とか、「文章科と紀伝道」(『古代学研究所研究紀要』3 1993年)といった文章が参考になりそうですね(わたしは読んだことないです)。
「上代学制の研究」(初刊1947年)は、その方面の勉強をされる方の必読書と思いますけど、約50年前のものなので、一部の内容について、もしかしたらちょっと古くなってるかもしれないと思っています。それから、谷口さんはすでにお読みになってるかもしれませんが、上で挙げた古藤真平さんの文章の他、久木幸男さんの「日本古代学校の研究」(玉川大学出版部 1990年)なども必読かなと思います(これもわたしはまだ読んでないですけど(^^;)、学制に関心をお持ちの方々へ参考までに。
● RE: 「文章道」か「紀伝道」か
この件は私信にさせていただいたつもりだったのですが....、まいっか。
ちょっと調べてみましたら、文章博士が担当した学科の名称については、桃裕行さんの「文章道という学科名はなく、紀伝道とするのが望ましい」という提言(1960年代に出された)のあと、他の方から指摘がなされているというか、まだすっきりしてない感じですね。
久木幸男さんは、谷口さんの引用された文章にもあるとおり、「清和・陽成天皇の代(9世紀後半の貞観・元慶年間)頃は、文章道・紀伝道の両呼称が併用されていた可能性があり、10世紀以後になって紀伝道に統一されていく」との指摘をされてて、一方、古藤真平さんは、詳細は知りませんが、桃裕行さんの提言を支持しておられるようです。
で、以下は久木説に沿って考えたものになるのかなと思いますが、
文章博士1名を設置したのは神亀5(728)年7月21日の格で、このとき同時に文章博士の担当する学科も設置されてるようです。学科の名称は何とされているでしょう(あるいは学科名は書かれてないでしょうか)。
それから、大同3(808)年2月4日の格で、初めて紀伝博士1名が置かれたようですが、約25年後、その紀伝博士を廃止する旨を書いた承和元(834)年3月8日の太政官符によると、紀伝博士を置いたとき同時に紀伝生と紀伝得業生も置いたようですね。
で、これだけの記録を伺う限りでは、ここまでの時期、「文章博士の担当する学科(いうなれば文学科)」と「紀伝博士の担当する学科(いうなれば史学科)」は、別々の学科であった、ということになりますよね。
(なお、ここで挙げた格や太政官符は、いずれも『痢瞽三代格』で確認できると思います。いま、わたしの手許にはありませんが。)
てことで、紀伝博士(と、その担当してる学科)を廃止して文章博士を2名に増員したときから、文章博士の担当する学科(文章道)は紀伝博士の担当してる学科(紀伝道)を吸収し、そうしていつからか併せて「紀伝道」と呼ぶようになり、同時に文章博士のことを紀伝博士と呼ぶようになる、といった変遷があったのではないか? というのが、現時点のわたしの意見です。
(わたしは "研究" を行っていない素人ですので、この意見は「こいつはこう捉えてるんだな」程度に聞いていただけると幸いです。)
> どちらを採用するかは人によって随分違うよう
> で、どちらか一語という場合はもとより、混用しているケースもありました。
そう、今回の件に限らず、同じ人物が同じものを指すのに複数の単語を混用してる例って、少なくないですね~。その方が本を書かれた時期とかにもよるのかな。
(指す対象がひとつしかない言葉なら、どんな名前で呼ばれてても結局、事柄の理解の妨げにはならないから、さほど困らないけど)
- ■論争の後始末 谷口 (99/10/10 09:38:42)
- ・紀伝道と文章道
結論だけ書きますと、時代が下ると紀伝道に収束するようですが、
肝腎の当初の学科名称はやはり不明のままです。
辞書類では「紀伝道」で立項しているので、それに合わせた方が
読者にすれば分かりやすいのではないか、というのが根底にあっ
たんですが……。
・文章得業生と選抜試験
詩作試験の存在は初耳だったことがそもそもの発端でした。で、
最近平安朝文学の先生に伺ったところ、やはりなかったのではと
の話。「なぜ試験があったと言えるのか」を先にお聞きすれば良
かったですね。
- ■メールでいただいた質問(西雅院について) しげちゃん (99/11/02 13:39:27)
- メールでいただいた質問です。わたしは全然答えられなかったのですが、そのやりとりを匿名で代行アップさせていただきますね。引用部分は、わたしのコメントで途切れてますが、一続きの文章です。
どなたかご存知の方がおられましたら、回答してさしあげてくださいませ。
***** ここから *****
> 「西雅院」が東宮御所としての役割を果たしていたという話をちらりと
> 聞いたのですが、いかがなものでしょうか?
いやぁ、わたしは知りません(^^;
そんなハナシないぜ、て意味じゃなくて、わたしが無知だって意味です。
> 確か何かにそういう記述があったという話だったのですが(すみません。
> その本の名前を忘れてしまって(汗))
その本、わたしがご紹介したものじゃないですよね?
わたしはよくわかんないです....。
> だいたい、私自身が「西雅院」という所がどういう役割を担う建物かも
> 判っていないものですから(汗)
わたしもわかってないです(^^;
手許の「有職故実大辞典」を見てみましたが、「西雅院」は載ってないです。
もうひとつ、講談社学術文庫の「有職故実」の下巻の目次に
「殿舎」というのがあるので、これには載ってる[かも]しれないですが、
いま、上巻の方しか見つからなくて(家のどこかに下巻もあるけど、
ゴミの山に埋もれていて、どこにあるかわからない)、確認できないです。
(ただ、載ってないような気もします。)
***** ここまで *****
- ■雅院 野村朋弘 (99/11/03 21:10:21)
- ご無沙汰をしております。鎌倉時代の野村です。
西雅院は東雅院と共に東宮坊の置かれた処で、東宮御所とかが西雅院
に置かれていました。
ちなみに宇多は即位しても臣下に下っていた事もあり基経を憚って、
基経が死ぬまで即位した仁和三年から寛平三年二月まで雅院を御所にし
ていたとか。
あと古今集にも「東宮雅院にて」から始まる詠が有ったと思います。
記憶が曖昧なんですが、確か平安時代史事典のどこかに載っていたと
思います。ご参照して頂ければ幸いです。
- ■雑談です しげちゃん (99/11/05 04:29:04)
- わたしの実家は福岡県門司区の大里〔だいり〕というところにあります。
平家ゆかりの場所というと下関〔しものせき〕ばかりがクローズアップされますが、対岸の門司〔もじ〕にもいろいろ名残があります。たとえば、門司の人でも知らない人が少なくないんですけど、大里〔だいり〕という地名は、内裏〔だいり〕に由来しています(と子供の頃から聞いています)。すぐ近くに安徳天皇の御所(だったと云われるところ=「柳の御所」)があるんです。安徳天皇がお風呂を使ったことから「風呂町」転じて「不老町」とかね。平家とは関係ないけど、下関とか門司っていう地名も面白いでしょ(^^)
わたしの「平家ぷろじぇくと」は、このこととほとんど関係ないんですけどね(^^;
- ■即位10年 しげちゃん (99/11/12 08:32:09)
- 今上天皇の即位10年だそうです。今日は大きな式典があるようですね。お昼2時から NHK でも放送されます。(式典は雨天中止の可能性もあるそうですが、東京は今日お天気があまりよくなさそう、どうなるんでしょ。)
珍しい装束を見られそうですが、「幡〔ばん〕」もこんなときでないとなかなか見られないものと思うので、関心をお持ちの方は注目してみてください。(NHK では「旛〔ばん〕」という字を当てていたけど、幡と旛は同じものと考えて大丈夫なのだろうか?)
幡というのは、「流れ旗」いわゆる「のぼり」のことです。金属や玉その他で造られたものもありますが、多くは、錦・綾・羅などで造られています。長方形の「幡身」、側面に「幡手」、下端に「幡足」が付いているのがオーソドックスな基本形。さっき、TV でちらっと見たものには、頂にもそれぞれ飾りが付いていたようだけど、この頂部分は何と呼ぶんでしょうねー。
朝儀に用いる幡もいろいろあるようで、近年用いられているのは、「玲鋏形大錦幡〔れいしけいだいきんばん〕」とか「菊花章錦幡〔きくかしょうきんばん〕」とかいうもののようです。
それから、今上天皇のときはどうだったか知りませんが、むか~しの即位の儀では「万歳幡〔ばんぜいばん〕」「鷹像幡〔ようぞうばん〕」「四神幡〔しじんばん〕」等を使っていたようです。
今回もそういうのを見ることができるのでしょうかねぇ。
- ■平安時代史事典 野村朋弘 (99/12/14 00:09:11)
- どうも、前回の書込いらいご無沙汰してしまい申し訳在りません(^^;
後日平安時代史事典で確認したところ、最初の概説の部分で記載されて
いました>東宮御所
と云うか、一応平安時代史事典を持っているので最初っからきちんと確
認しておけばもっと詳細な事が書けたのに申し訳ないです>みなせさん
- ■はじめまして つる (00/03/21 22:10:13)
- 露見のときにおもちを3つのむというのは
どういう意味なのでしょうか?
初歩的な質問だと思いますがよろしくお願いします
- ■まとめて RES です しげちゃん (00/03/21 23:32:33)
- * つる さん
はじめまして。
> 露見のときにおもちを3つのむというのは
> どういう意味なのでしょうか?
「露見」とは新婚3日目の披露(=「ところあらわし」)のことでしょうか。
ご質問の出所など、も少し詳しいお話があれば、と思いますが、
いずれにしても、いまのところピンとくるものがないです。
(初めて聞きました。)
もし「ところあらわし」のことだとすると、よくわかりませんが、
(現代の?)婚礼のしきたり等を扱ってらっしゃるサイトの方が回答を
得られやすいんじゃないかな?、と思いました。
- ■露見 曉雨堂 (00/03/29 07:15:44)
- こんにちは
露見なんですが、分かりませんねぇ。
分からないのに口を挟むのもなんですが、
気になったので、だれか教えて下さい。
露見自体は、摂関期の儀式書にも出てくるものですが、
「おもちを3つのむ」というのは、初めて聞きました。
是非詳細をお聞きしたいです。
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