言霊(コエ)
ガシャン!
あまりの驚きに、俺は持っていたコーヒーカップをソーサーに叩き付けた。
幸い割れはしなかったが、その音に、周りのお客が何事かと俺達の方を注目する。
「本気か!?」
うんうん
心持ち声を落として訊く俺に、向かいの席でフルーツパフェを頬張っていた澪が、生クリームの付いたウェハースをさくさく食べながら頷いた。
「で?成功率は?」
う〜んと…
俺の質問に、澪は鞄と一緒に置かれたスケッチブックを手に取って、ウェハースを咥えたまま数字を書き込む。
『30%ぐらい』
「ばか!それじゃ低すぎる!止めとけ」
ぶんぶんぶん
『や』
あまりの成功率の低さに俺が反対すると、澪もぶんぶん首を振って反抗した。
しかし、澪が声を出せるようになるかもしれないと言っても、成功率30%はどう考えても低すぎる。
あとの70%は、失敗…
最悪、澪自信を失う可能性だってあるのだ。
「絶対に分が悪いって…」
『や』
バンッ!
しかし、そんな俺の心配を余所に、澪はスケッチブックを叩き付けるようにテーブルに放り出すと、そのまま店を飛び出していった。
俺も急いで後を追おうとするが、レジで捕まってしまい、代金を払っている内に澪を見失ってしまう。
そんなに低い成功率に賭けなくても…
俺は、今のままで十分に幸せなのに…
…それとも、澪は幸せじゃないのか?
「……いない」
店を出てから、二人分の荷物を抱えつつ三時間以上も探しているが、澪の姿はおろか、あの大きなリボンさえ見付ける事は出来なかった。
「怒って家に帰ったのか?」
それなら、荷物を置きっぱなしにして行く訳がない。
やはり、衝動的に飛び出したと考えるべきだろう。
今ごろ路地裏とかで泣いてるんじゃないか…
そう考えると、一番大事なものを傷つけたようで、自分自身に腹が立ってくる。
ゴッ!
「くそっ!澪を傷つけてどうするんだよ…」
近くのコンクリートの壁に拳を叩き付けて、俺は先程自分の言った事を悔やんだ。
俺が、みさおとみずかの元へ行っている間、澪はひたすら俺を信じて待っていてくれた。
だから俺は、『コイツの望む限り側にいてやって、力になってやろう』と、帰ってきた俺にしがみ付く澪を見ながら、心に決めたんじゃないか…
それなのに…
ゴッ!
もう一度、思いっきり拳を叩き付けると、俺は澪の姿を求めて、ズキズキと痛む拳を押さえつつ、もう一度商店街を走り始めた。
「……」
えぐえぐえぐ
灯台下暗しと言うか、飛び出した喫茶店のすぐ横の路地で、澪は膝を抱えて静かに泣いていた。
俺は、すぐ近くで泣いている澪に気付かず、商店街中を走り回った事になる。
「…澪!」
ビクッ!
わたわたわた…
息を切らせた俺が声を張り上げて呼び掛けると、怒られたと思ったらしく、澪は脅えた目で俺を見ながら逃げ出そうとした。
「澪、待ってくれ!」
「……」
ぺこぺこぺこ
引止めながら俺が近づくと、今度は頭を下げて涙目で謝り始める。
先ほど自分が取った行動を思い出して、俺が腹を立てていると思っているのだろう。
俺は一度深呼吸をして息を整えると、まだペコペコと頭を下げ続けている澪に近づいた。
「澪…」
「……」
俺が静かに呼び掛けると、澪が体を堅くする。
俺が悪いのに…
澪は、自分を責めて、こんなに脅えている…
俺は…何をやってるんだ…
目を堅く瞑り、体を硬直させている澪の姿に罪悪感を覚えながら、俺は澪の頭に出来る限り優しく手を置いて、撫で始めた。
「澪…謝るのは俺の方だ。ゴメンな」
「……」
俺の言葉を聞いて、澪の体から、幾分力が抜ける。
「突然だったから、驚いたんだ…」
「……」
更に言葉を続ける俺を、顔を涙でくしゃくしゃにした澪が、上目遣いに俺を見上げた。
「ホントに?」っと、目で言っているのが分かる。
「本当だ。…もう一度、最初から話してくれないか?」
「……」
うんっ!
頭から手を放すと、澪は涙を振り飛ばしながら元気に頷いて、俺の胸に飛び込んできた。
『泣けないの』
路地裏で話をするわけにも行かないので、俺は澪を連れて公園に行くと、ベンチに座って話をする事にした。
澪は、俺から受け取ったスケッチブックを開くと、物凄いスピードでその小さな体に秘められた思いを書き始める。
『泣いているのが見えないと気付かないの』
「……」
澪が、意識して書いた事なのかは分からないが、俺には、その言葉が痛かった。
確かに、あの時澪の泣き声が聞こえていれば、三時間も商店街を探し回ったりはしなかっただろう。
『わらっても』
『おこっても』
『だれもきづかないの』
「…みお」
なおも、澪の思いが綴られてゆく…
今迄、澪とこんな話をした事は無かった。
いや、意図的に避けていたのかもしれない…
澪が喋れない事に目を瞑って…
ただ、今の幸せにしがみ付いていたのかもしれない。
『こえだすの』
「……」
スケッチブックの文字が、滲んでいる。
見ると、澪の両目から、ポロポロと涙が溢れていた。
『話したいこといっぱいあるの』
『聞いて欲しいこといっぱいあるの』
『伝えたいこといっぱいあるの』
ページを捲るのさえもどかしいほど想いが溢れているらしく、一ページ゙にそこまで書くと、澪は最後に見開き一ページ゙を使い、殆ど殴り書きのような文字で、
『あなたに』
と書いて、また俺の胸にしがみ付いてきた。
そして、えぐえぐと静かに泣き始める。
……
…いくら成功率が低いからって、最初から諦らめてたら、何も出来ないか…
そう考え直した俺は、澪の背中をぽんぽん叩きながら口を開いた。
「……分かった。とにかく、どんな物なのか教えてくれ…」
うんっ!
俺の胸から顔を上げた澪は、満面の笑顔を向けると、服の袖を引っ張って澪の家へと俺を案内した。
『もしかしたら賛成して貰えるかもしれない』
それだけでも、嬉しいらしい。
「…やっぱり、分が悪いな」
澪の家で紅茶(澪はコーヒーが駄目らしい)をご馳走になりながら、渡された家族への説明用資料に目を通し、さらに詳しい話を聞く。
澪が言葉を喋れない原因は、言語を司る脳が寝ているかららしい。
つまり、言葉を喋る方法を『知らない』状態にあるらしいのだ。
だから、手術の目的は、その部分を覚醒させる事となる。
しかし、下手をすれば、言葉が喋れないままなのは勿論、他の障害を引き起こしたり、最悪、澪の命さえも危ない。
かなりリスクの高い手術と言えるだろう。
「でも…」
そう言いながら視線を上げると、両手を握り締めた澪が真剣な眼差しで俺を見つめていた。
澪にとっては、俺の言葉がかなりの決定権を持っているらしい。
「決心は、固そうだな…はぁ」
うんっ!
俺がため息混じりに言うと、澪は真っ直ぐ俺の方を向いたまま、その首がもげんばかりに元気良く頷いた。
そして、また俺の顔をじーっと見つめる。
「……」
「……」
『反対?』
答えない俺に、澪がスケッチブックで問い掛けてくる。
それでも俺は、黙ったまま考え事を続けていた。
リスクが大きすぎる…
やっぱり、声なんて無くても、澪は澪なんだから、今のままで良いんじゃないか?
そんな考えが、頭の中に浮んでは消える。
「……」
「……」
くいくいくい
袖を引っ張って答えを促す澪に、俺は静かに、そしてゆっくりと言葉を紡ぎ出した。
「…やってみて声が出なかったら、俺はお前を…捨てるかもしれないぞ…」
自分で言っておいて、何てずるい奴なんだろうと思う。
澪は、何よりも俺が側に居てくれるのを望んでいる。
それを利用するなんて…
やっぱり、俺ってサイテーだ…
「……」
ぶんぶんぶん
しかし澪は首を振り、ニッコリと、疑う事を知らない子供のような笑顔を浮べて、スケッチブックを俺に向けた。
『大丈夫なの』
『がんばるの』
次の日、俺は学校を終えると、そのまま屋上に向かった。
澪の事を相談できる人物で、俺の知り合いと言うと、彼女以外には浮ばなかったのだ。
「…みさき先輩」
「あれ?浩平君?久しぶりだね」
今日も彼女は屋上に居た。
既に卒業しているものの、屋上には時々来ているらしく、掃除をサボって来た時などには、たまに会う事もある。
「あぁ…三週間ぶりくらいか?」
「そうだね」
そう軽く挨拶を交わしながら、みさき先輩の横に並ぶ。
今日の空は曇っていて、お世辞にも綺麗な夕焼けとは言えなかった。
確か、夕方から雨とか言ってたっけ…
空気に雨の匂いを微かに感じながら、俺は口を開いた。
「なぁ…先輩」
「もう、先輩じゃないよ。クスッ」
「みさき…さん、ハイリスクと引き換えに目が治るかもしれなかったら…どうする?」
俺の言葉に、いつも笑顔を浮べているみさき先輩の顔付きが険しくなった。
見えていないはずの瞳から、射るような視線を感じる。
「…どういう…事かな?」
声のトーンを落として訊いて来るみさき先輩に、俺は澪の事を話し始めた。
「浩平君、顔に触って良い?」
「?…あぁ…」
俺の話を聞き終えると、みさき先輩は俺の方に左手を差し伸べながら、そう言った。
少し疑問に思いながらも、俺はその手を取って、自分の頬へ導く。
パンッ!
「っ!」
みさき先輩の左手が俺の頬に触れた瞬間、彼女は右手で俺を引っ叩いた。
そして、悔しそうな顔で真っ直ぐ俺を見ると、怒りを堪え、声を絞り出すように話し始める。
「浩平君には分からないだろうけど…私や澪ちゃんみたいにハンデを背負ってる人はね。どんなに平気そうに見えても、いつもその痛みに耐えて生きているんだよ」
「せんぱ…」
バシッ!
今度は、思いっきり引っ叩かれた。
先程も叩かれた頬がジンジンと痛む。
「分が無い事は、澪ちゃんだって分かってるんだよ。凄く不安なんだよ」
悔しそうに右手を握り締める先輩の声に、怒りと悲しみが感じられる。
「澪ちゃんはね…澪ちゃんは、浩平君に勇気を貰いたかったんだよ!嘘でも「大丈夫だ」って言って貰いたかったんだよ!それなのに…それなのにィィ!」
「先輩…ゴメ…」
バギィッ!
「ぐがっ!」
何と今度は、拳で思いっきり殴られた。
その反動で俺とみさき先輩は、冷たくザラザラした屋上のコンクリートに倒れる。
「みさき先輩…」
三度に渡る衝撃で口の中を切ってしまい、言葉を発する度に口の中に血の味が広がった。
一方みさき先輩は、屋上のコンクリートに蹲(うずくま)ったまま、荒い息を吐いている。
「ハァハァ…今すぐどこかへ行って!浩平君なんか嫌いだよ!」
そして、俺を殴った手を痛そうに押さえながら、そう叫んだ。
俯いて顔は見えないが、彼女の瞳から零れ落ちた涙が、コンクリートにいくつもの染みを作っているのが見える。
「……ゴメン」
唇を噛みつつそう言い残すと、俺は頬を押さえながら屋上を後にした。
ザァァァ……
予報通り降り出した雨の中を、一人で歩く。
「せんぱい…みお…」
いつも笑っているから…
いつも楽しそうに生きているから…
ハンデなんて気にしていないのかと思っていた。
歩きながら空を見上げると、遥か上空から降り注ぐ雨粒が目に入って痛かった。
馬鹿だな…俺…
五体満足な奴だって、くだらない事を気にして悩んでるんだ。
先輩や澪が、ハンデを気にしてない訳なんて無いじゃないか…
みさき先輩や、ましてや澪とはいつも一緒に居るのに、気付いてやれなかったなんて…
…やっぱり、俺には澪の側にいてやる資格なんて、無いのかな?
今ほど自分が小さく、子供じみて見えた事は無い。体ばかりでかくて、心は澪より小さい気がする。
「……」
雨の中を当ても無くさまよっていた俺は、何時の間にか澪と初めて逢った公園に来ていた。
「……」
あの時、澪が座っていたブランコ…
塗料が剥げ、チェーンも錆だらけになったブランコを見ながら、澪の事を考える。
にこにこ…
元気で、満面の笑顔を向けてくれる澪…
えぐえぐ…
恐がりで、泣き虫で、いつも俺の腕にしがみ付いてくる澪…
『がんばるの』
どうしようもないくらい要領が悪いけど、いつも一生懸命な澪…
いろんな澪が、頭に浮んで来た。
そして、いつでもその小さな体に、俺には想像も付かない程の痛みを抱えて生きている。
…澪
ゴメンな…気付いてやれなくて…
本当に…ゴメンな…
スッ…
自分の情け無さに拳を握り締め、涙を流しながら心の中で澪に謝り続けていると、突然、後ろから小さな傘を差し掛けられた。
誰?
はぁはぁ…う〜ん…
振向くと、息を切らせた澪が、自分が濡れるのも構わずに一生懸命背伸びをして、俺に傘を差し掛けている。
「澪ッ!」
俺は、崩れ落ちる様に膝を付くと、澪に抱き着き、その小さな胸に顔を埋めて泣いた。
その勢いに驚いた澪が、俺に差し掛けていた水色に白の水玉が入った傘を手放す。
何故、ここに澪が居るのか…
どうして、こんなにも涙が溢れてくるのか…
そんな事は、全然分からない。いや、どうでも良かった…
ただ、澪が居る事が嬉しくて、澪の気持ちを分かってやれなかった俺自身が悔しくて…
ひたすら俺は泣いた。
「……」
…なでなで
突然、俺に泣き付かれた澪は、おろおろと戸惑っていたが、暫らくすると、いつも俺が澪にやるように、優しく俺の頭を撫で始めた。
「澪…大丈夫だから…俺が付いてるから…安心して手術受けろ…」
「……」
澪の胸から顔を上げて俺が言うと、澪は一瞬驚いた顔をした後
うんっ!
雨と嬉し涙で濡れて顔に、満面の笑みを浮べて頷いた
澪…なのか?
手術当日、病室に行った俺を待っていたのは、頭からシーツを被った少女だった。
ベットの端から、手首に巻かれたリボンが見える事で、かろうじて澪だと分かる。
「澪、何やってんだ?」
「……」
もそもそ
俺が呼び掛けると、澪は近くのテーブルに置かれたスケッチブックを引き込んで、シーツの中でごそごそとやり始めた。
おそらく字を書いているのだろう。
暫らく待っていると、澪はスケッチブックを持った左手だけを外に出す。
『つるつるで恥ずかしいの』
……
…なるほど
手術の対照が脳なのだから、頭の毛を全て剃ったのだろう。
何となく髪が無い澪を見たい気もしたが、後で物凄く怒られそうなので、止めておく事にした。
その代わり、スケッチブックを取り上げ、チェックのリボンが巻かれた左手を握ってやる。
「絶対に大丈夫だからな。…そうだ!終わったら、歌を教えてやる。童謡でも何でも好きな歌を考えとけ」
がばっ!
両手で、澪の小さな左手を包み込みながら、俺がそう約束してやると、突然、澪がシーツを跳ね上げて起きた。
うんっうんっうんっ
そして嬉しそうに何度も頷く。
相当、嬉しいらしい。
しかし…
「み…さお?」
頭がつるつるの澪を目の当たりにして、一瞬、昔の光景が頭を過ぎった。
妹のみさおが、入院していた頃…
どんどん衰弱して行くみさおの髪が無くなった日の光景が、頭にフラッシュバックする。
ぶんぶんぶん!
しかし、俺は頭を振って、悪い方へと傾きそうな思考を振り払った。
そして、そんな俺の様子を不思議そうに眺めている澪を抱きしめると、背中をぽんぽんと軽く叩きながら…
「大丈夫…絶対に大丈夫だ…」
そう自分に言い聞かせるように呟く。
う〜ん…う〜ん…ばたばたばた
しかし、苦しかったのか、暫らくすると腕の中で、澪が暴れ始めた。
ばさっ!
俺が、開放してやると、またシーツを頭から被る。
どうやら今頃、つるつるの頭を見られた事に気付いたらしい。
ぽふぽふ…
シーツの上から、澪の頭を軽く叩いてやると、俺は病室を後にした。
パタン…
「良いですか?」
「はい…」
部屋の外で待っていた医師に返事をすると、俺は澪の母親と共に手術室の在る階へと向かった。
ちなみに澪の家は母子家庭なので、父親は居ない。
死別したのではなくて、離婚したらしい…
多分、澪が原因で…
だから、澪は女手一つで育てられたという事になる。
それでなんだろうな…
この人、何となく由紀子さんに似てる。
ちょっとやそっとの事では動じず。
いつもキビキビとしている澪の母親は、仕事でいつも忙しく走り回っている叔母によく似ていた。
もっとも、直接会うのは今日が始めてなのだが…
「本当に、ありがとうございます」
「ですから、もう良いですって…」
俺の事は澪から聞いているらしく、澪の母親は、先程から何度も俺に頭を下げている。
俺が貸したスケッチブックで、澪が他人とのコミュニケーションを取る方法を得た事…
それにより、明るく元気な娘に育った事…
今回の手術を受ける決心をした事…
全て、俺のおかげだと思っているらしい。
実際のところ、俺は助言をしただけで、澪自身が決断したに過ぎないのだが…
カッカッカッ…
澪の手術が始まってから暫らくすると、病院の廊下に杖を突く音が響き始めた。
来て…くれたんだな…
手術室前の長椅子から立ち上がると、俺は音の方へと歩き出す。
彼女を、迎える為に…
「…先輩」
「……」
盲目者用の白い杖を突いた先輩は、一度俺の方を向くと、視線を落としてこちらに歩いてきた。
カッカッ…
……
…まだ、怒ってるのか?
「……」
「……」
取りあえず、みさき先輩を手術室の前まで案内すると、長椅子に並んで座った。
ちなみに澪の母親は、一度軽く会釈をしただけで、ずっと手術室のドアを凝視している。
関係の無い事には首を突っ込んでこない、大人の態度と言えるだろう。
その心遣いに感謝しつつ、俺は、みさき先輩との話を始めた。
「……」
「……」
とはいえ、どう切り出して良いものか分からない。
澪の手術が今日だと教えた時も、みさき先輩は黙ったままだった。
屋上の一件で、かなり嫌われてしまったらしい…
「…まだ…怒ってるのか?」
「……」
「ゴメン…俺が…子供だったんだな…」
俺が視線を落としてそう言うと、みさき先輩は、意を決した様に顔を上げて、俺の方を向いた。
そして、とても辛そうな表情で口を開く。
「あれは、私が悪かったんだよ。逆の立場だったら、私も浩平君みたいに考えたと思う…」
「先輩…」
「引っ叩いて、ゴメンね。痛かったよね?」
心配そうな表情で俺の方を見る先輩…
その手が、俺を求めて空中をさまよっている。
俺は、先輩の手を取ると、そっと打たれた頬に当てた。
「ほれ、これくらい全然大丈夫だ。今度からは、もっと腰を入れて引っ叩かないと、俺は倒せないぜ」
「クスッ…今度からはそうするよ」
そう言って、みさき先輩は、久しぶりに優しく、温かな笑顔を向けてくれた。
俺もつられて笑顔を浮べる。
何も特別な事をしなくても良い…
素直に謝れば良かったんだ…
「なぁ…あの後、澪に電話したの先輩なんだろ…」
「さ…さぁ…知らないよ」
俺の言葉に、みさき先輩がギクリとした顔で答える。
考えが顔に出易い事に、気付いてないらしい。
俺は、笑いを堪えつつ、お礼を言った。
「ありがとう」
「な…何の事だか分からないんだけど」
「本当に、ありがとう」
「……」
一生懸命に惚(とぼ)けようとしているが、全て顔に出ている。
俺が、重ねてお礼を言うと、みさき先輩は恥ずかしそうに俯いてしまった。
別に、恥ずかしがるような事でもないと思うけどな…
むしろ、胸を張って良い事だと思う…
三十分後…
「……」
「……」
会話も途切れてしまい、廊下に静寂が下りる。
沈んで行く雰囲気の中で不安に駆られた俺は、思わず声を上げた。
「大丈夫だ。絶対!」
「うん。早く澪ちゃんとお話がしたいな」
俺の言葉に、合わせてくれる先輩。
だけど、先輩も凄く不安なんだと思う。
おそらく、今の澪に自分を重ねて、不安に押し潰されそうになっているだろう。
「そうだな。たくさん話そうぜ」
「楽しみだよ」
それでも、みさき先輩は、笑顔で応じてくれた。
澪が、声を取り戻して帰って来ると信じて…
一時間経過…
「澪ちゃんが羨ましいな」
「え?」
また沈み始めた空気を、今度はみさき先輩が吹き飛ばそうとする。
「浩平君が、側に居てくれて…」
「そんな…俺なんて…」
本当に羨ましそうな顔をする先輩に、俺は、恥ずかしくなってしまい、視線を落とした。
先輩は、そんな俺の様子が分かるのか、楽しそうに微笑みながら続ける。
「ふふっ私が取っちゃおうかな?」
「…先輩の事、嫌いになるぜ」
そう言って、フワリとした笑みを浮べながら手を重ねてくるみさき先輩に、俺は彼女を横目で睨みながらそっと手を除けた。
俺に手を除けられて、みさき先輩がほんの少し悲しそうな顔をする。
「…冗談だよ」
でも、すぐに笑顔になってクスリと笑ってくれた。
その笑顔に少しだけ罪悪感を感じる。
みさき先輩には、まだ澪にとっての俺が…支えとなってくれる人がいない…
……
いや…それ以前に不安を抱いてる女の子への態度じゃなかったな…
そう心の中で反省しながら、今度は俺が先輩の手を取った。
「…先輩にも、いつか現われるさ。それに、俺や澪だって近くに居る」
「うんっ…私、浩平君や澪ちゃんに逢えて幸せだよ。」
三時間経過…
「……」
「三時間か…」
みさき先輩が、盲目者用の時計(文字盤のカバーを開いて、直接針に触れられる)で時間を確認する。
「浩平君は、最初に何を言ってもらいたい?やっぱり名前?」
「『あ』」
「浩平君!」
首を傾げて訊いて来る先輩に、場を明るくしようと俺が少しふざけて答えると、物凄い目で睨まれてしまった。
手術開始から三時間…
冗談を真に受けてしまう程、みさき先輩は参って来ているらしい。
「冗談だ…最初は、思いっきり泣かせてやりたいかな?」
「泣く?」
一度思案した後、俺が前々から考えていた事を口にすると、先輩は意外そうな顔をした。
「ああ…大声あげて、声が嗄れるくらい、胸の中で泣き喚かせてやりたい」
手術室のドアを眺めながら話し続ける俺の横顔を、みさき先輩が、驚きと羨ましさの混じった顔でじっと見詰めている。
そして少し拗ねたような顔をして、口を開いた。
「…やっぱり、取っちゃおうかな?」
「先輩…」
「だって、羨ましいよ…」
まるで、俺と澪の両方に嫉妬しているかの様な顔で(実際そうなのだろう)、視線を床に落とす。
「たとえ先輩が本気でも、俺は澪を選ぶぜ」
「う〜ん…残念だよ」
俺がキッパリとそう答えると、みさき先輩は、心底残念そうな顔をした。
五時間経過…
「あっ!」
「どうしたの!?」
俺の声に、みさき先輩がはじかれたように顔を上げた。
澪のお袋さんも、立ち上がってドアの方へ駆け寄る。
「消えた…」
「終わったの?」
「そうみたいだ」
ウィーーーン
カラカラカラ……
暫らくして、手術室のドアが開き、まずは執刀医が出てきた。
先輩の手を取って、執刀医の側まで行く。
ドアの隙間から一瞬リボンの巻かれた左手が見え、胸が張り裂けそうになったが、とにかく結果を知るのが先決だった。
「手術は…成功しました」
「よし!」
「やったね」
執刀医の言葉に、俺と先輩が手を取り合って喜ぶ。
澪のお袋さんも、目から大粒の涙を流していた。
「ですが…今迄、脳が寝ていたので…明瞭な発音が可能かどうかまでは…」
「そう…ですか」
「でも、喋れないわけじゃないんですよね」
また場が沈みそうになるのを、みさき先輩が空元気とも取れる明るい声で引き戻そうとする。
しかし、執刀医の顔は険しいままだった。
「とにかく、クランケが目覚めない事には、なんとも…失礼…」
「……」
そう言って去っていく執刀医の後ろ姿を見ながら、俺はただ立ち尽くす事しか出来ない。
「浩平君?」
「ああ…大丈夫だ」
そう…大丈夫だ。
絶対に、澪は声を取り戻して帰ってくる。
その時は、いくらでも…声が嗄れるまで鳴かせてやろう…
だから…
安心して帰って来い。
十日後…
澪が寝ている病室に、俺、澪のお袋さん、みさき先輩と、先輩から話を聞いた深山先輩が集まった。
勿論、医師や看護婦も同席している。
いよいよ今日、手術の結果が分かる…
方法は簡単、澪に声を出してもらうだけだ。
もっとも、澪自身は一週間くらい前から起きていたのだが、小さな澪には手術による体力の消耗が激しく、また、今まで使っていなかった器官を使うのだから、無理をしない様に大事を取って、今日になったのだった。
「澪…」
俺が呼び掛けると、ベットに横たわっていた澪が、微かな脅えを含んだ笑顔を向ける。
手術後の体力消耗で痩せこけた顔には、かつて溢れんばかりの元気さで俺の手を焼かせた少女の姿は見る影も無かった。
声が出ないかもしれない…
そう思って不安なのだろう。
実際、俺自身でさえも不安と緊張で舌が乾き、心臓が早鐘を打っている状態だ。
今の澪がどんな気持ちでいるか、考えるだけで目眩がしてくる。
「…澪」
その小さな頭に巻かれた白い包帯が、痛々しい。
包帯の巻かれた頭に触るわけにもいかないので、まずは安心させる為、痩せ細った小さな両肩に手を置いて、目線の高さを揃えてやる。
そして、出来る限り優しく、静かに…
「澪…ほら、『あ』って言ってみろ…」
俺は澪を促した。
「……」
でも、澪は声が出なかった時の事が恐いらしく、口を開こうともしない。
「澪…約束しただろ…歌を教えてやるって…」
俺は、努めて笑顔のまま続けた。
それでも、澪は目尻に涙を浮べ、ただ脅える小動物のように小さく震えていた。
「恐く無いって…大丈夫だ…俺が付いてる」
澪の両肩をぽむぽむ叩きながら、俺はさらに促す。
すると、ようやく澪は、恐る恐る小さな口を開いて声を出そうとやり始めた。
「そうだ…どんなに小さい声でも良い…絶対に俺が聴いてやるから…」
そして…
はぁー
ぱくぱく…
澪の口からは、小さく息が漏れただけだった。
その後も、懸命に口をぱくぱくさせているが、何の音も出て来ない…
「はぁ…」
「そんな…」
「駄目…だったの?」
澪の様子に、俺の後ろから落胆の声が聞こえて来た。
一方澪は、目に涙を浮べながらも一生懸命、口をぱくぱくさせている。
こんなの嘘だ…
絶対に、大丈夫だから…
澪は、声が出せるはずだ…
目に溢れてくる涙で、澪の顔が滲んでゆく。
顔をくしゃくしゃにしながらも、ひたすら口をぱくぱくさせている澪の姿が、不憫で、見ているのが辛かった。
もう良い…
たとえ、喋れなくても、ずっと俺が側に居てやる…
お前が泣いてる姿、怒ってる姿、笑ってる姿、みんな俺が見ているから…
だから…
だから、もう止めろ!
「澪ッ!」
ぽろぽろと涙を零して音の無い声を出す澪を、俺が声を張り上げながら抱きしめた瞬間…
「んひぁ!」
「……」
少し高めの、幼い少女の声が耳元でした。
部屋の中が水を打ったように静まり返る。
俺は、暫らく澪を抱きしめたまま呆然とすると、ゆっくりと澪の体を離して、その顔を見つめた。
「あ…け?こ…へ…な」
俺を見上げる澪の唇が動き、そこから先程の声が流れ出す。
そう…澪の声が!
「…やった」
「成功だ!」
「え?今のが澪ちゃん声?」
今迄、諦めが支配していた部屋の空気が、一気に歓喜のそれへと変わった。
澪のお袋さんが泣き崩れ、看護婦が祝福の言葉を掛ける。
みさき先輩が深山先輩と抱き合って喜び、担当医が、満足そうな表情でカルテに何やら書き込む。
「澪…おめでとう」
がばっ!
「あおうごうあぐ…」
俺が祝福してやると、澪は俺の胸に飛び込んできて、泣き始めた。
意味不明な言葉を叫びながら…大声で!
俺は、驚くほど痩せてしまった澪の体を壊さない様に優しく抱きしめると、澪が泣き疲れて眠るまで、その背中を優しく撫で続けた。
おかえり…澪
よく頑張ったな…
「……ぐー」
ぺたぺた…
頬に何かが当たるのを感じる。
でも、俺は眠り続けた。
「ぐー…」
ばふばふばふ
今度は、何かで、叩かれた。
でも、起きるほどの事じゃない…
「ぐー…」
「あけぃうねぇ」
ゆさゆさ…
意味不明な少女の声がすると、激しく体を揺さ振られる。
でも、俺にとっては心地良い揺れだ…
「ぐーー…」
「あくぃて!あけぃてぇ!」
ぺちぺちぺち
ゆさゆさゆさ
今度は、頬を叩きつつ体を揺さ振るという、二段攻撃に遭う。
でも、俺を覚醒させるには、まだ程遠い…
「…ぐーー」
ぴょん!
「あけぃたぇお!」
…どざッ!!
声と共に、俺の上へ何かが降ってきた。
「ぐぇ…みっ澪か?」
「さうなう」
目を開けると、澪が胸の上でにこにこと笑顔を浮べていた。
「いくら起きないからって、コレはないだろう」
む〜
「おけぃなぁゐのあわゆひお」
「…それっ!」
気合と共に、俺は両腕を伸ばして、胸の上で不満そうな顔をしている澪を布団で巻くと、体を反転させて上下逆になった。もちろん、腕を突っ張って、澪に体重を掛けない様にしてやる。
「……」
「…ぁぅ」
しかし、結果として澪を押し倒した格好になってしまい、お互いに凍ってしまった。
腕の中で、小さな澪が更に小さくなって体を堅くする。そして、幼い顔が当惑した目で俺を見つめ返していた。
澪と無言で見詰め合ったまま、暫らく時間が流れる。
……
そして…澪がその大きな瞳を閉じた。
「……」
そんな意地らしくも可愛らしい澪の様子に、俺は表情を緩めると、その顔に自分の顔を近付けて…
ちゅ…
澪の紅潮した鼻の頭にキスをした。
「さてと…行くぞ澪」
ほへ?
体を離した俺が、制服を取りながら声を掛けると、ベットの上で布団を被ったままの澪が、惚けた顔で首を傾げた。
鼻の頭にキスとは、かなり予想外だったらしい。
ついでにもう少し、からかってやるとするか…
「それとも、続きをするか?」
そう言いながら、俺が澪の方を見て意地悪く微笑むと、澪は慌てて飛び起き、顔を真っ赤に染めて、ばしばしとスケッチブックで俺を叩き始めた。
「痛い痛い」
あれから…
澪が声を取り戻してから、もう半年が経った。
今では、溢れんばかりの元気さを取り戻して、つるつるだった頭もショートカットぐらいまで髪が生え揃い、一見男の子に見えない事も無い。(言ったら、いきなりスケッチブックの角で叩かれるが…)
「まぁ、今日も、元気で何よりだ」
「がんけぃなう」
「『元気なの』か?だんだん上手く喋れるようになってきたな」
俺が褒めてやると、澪ははにかんだ表情で、がばっと俺に抱き着いて来る。
最初は意味不明な音を発するだけだった声も、日常会話を通じて、段々聞き取りやすくなって来た。
何でも、言葉や歌は耳で覚えるもので、日常会話を交わす事が一番の練習になるらしい。
まだ俺以外の人には、あまり通じないけれど、担当医に言わせれば、かなり速いスピードで回復しているそうだ。
「ああはをおけげなう…」
「『あなたのおかげなの』だな。そうだぞ、感謝しろよ」
「んんっ!」
さらさらとした髪を撫でてやると、頬を染めた澪が、恥ずかしそうに俯く。
そして、ポツリと一言…
「だいすきなお」
と、初めてハッキリとした言葉で言った。
「あっ!」
「大好き…あったお、いへあお」
もう一度、今度は大きな声で言うと、澪はスケッチブックを振り回しながら、ぴょんぴょん飛び跳ねて喜びを体全体で表現する。
声を取り戻してからも、こういう所は変わらない。
「澪…」
俺は、部屋の中で跳ね回っている澪を後ろから抱えあげる様にして抱きしめると、驚いて振向く彼女の唇に自分のそれを重ねた。
どうしようもなく要領が悪いけど、人一倍一生懸命なお前だから…
話したい事…
聞いて欲しい事…
伝えたい事…
一つずつ、ゆっくりで良い…
その小さな体いっぱいに詰まった思いを…
俺に…
そして、みんなに…
言霊・完