<注意>
少し痛い話です。
また、この物語は『言霊(コエ)』本編から分岐していますので、先に『言霊(コエ)』を読まないと、さっぱり解かりません。
言霊βサイド
俺の言葉を信じて、澪は声を取り戻す為の手術を受けた。
そして…
現実は現実らしく進行した。
こんこん…
ノックをして、室内へと足を踏み込む。
本当は、ノックをする必要など無いのだが、それが礼儀という物だろう。
酷く非現実的な空間…
壁も天井も真っ白で、ある物はベッドと窓と丸椅子。
そして、ベッド近くの窓には、今日も真っ白いカーテンが揺れていた。
「おはよう…澪」
「あ〜」
俺の挨拶に、体に比べて大きなベッドに横たわった澪が俺の方を向き、顔を綻ばせて、挨拶を返す。
いや…
そうした様に見えた。
キッ…
ベッド近くに丸椅子を持っていって、腰掛ける。
今日は、来るのが少し遅れてしまった。
「今日も…元気か?」
「う〜」
口から垂れる涎(よだれ)を口元の置かれたタオルで拭いてやりながら、言葉を続けると、触れられるのを嫌がる様に澪がそっぽを向く。
今日は、少々機嫌が悪いらしい。
「いつまでも暑いが、もう秋だからな。制服が冬服になったぞ」
「あっあ〜」
そう言いながら俺が上着を脱いでいると、澪が俺の方に唯一動く右手を伸ばした。
そして、俺の上着を掴もうと、握ったり開いたりする。
…そうか
「ああ…そうだな。お前がうどんをぶっかけて来たんだっけか」
「あ〜あ〜」
右手で受け取った俺の上着を大事そうに抱える澪の姿に、二年前の冬を思い出した。
「あの日は寒かったぞ」
「う〜」
また垂れてきた涎を拭いてやりながら、澪の頭を撫でてやる。
少しだけ生えた髪が、ざらざらとした感触を俺の手に伝えてきた。
……
「なあ…澪」
「お〜」
俺が呼び掛けると、澪は分かっているのかいないのか判らない笑みを浮べて、俺の上着を手放した。
そのまま上着は、リノリウム張りの床へとずり落ちて行く。
「幸せか?」
「う〜」
上着を落ちたままにして、俺は澪の手を両手で包み込んだ。
「お前の望みは、叶ったぞ。…幸せか?」
「あ〜う〜」
俺の問いかけに、澪が微笑んで答える。
『幸せ』らしい。
俺はそれを確認すると澪の手を放して、床の上着を拾った。
「そうか…じゃあ、学校に行って来る」
そして、椅子の横に置いた鞄を持ち、病室を後にしようとする。
すると…
「あっあ〜」
がしっ
素早く右手で俺のズボンを掴んだ澪が、捨てられた子犬の様な顔で俺を引止めた。
その目から、ぽろぽろと涙が零れる。
「心配するな。明日も…明後日も…ずっとお前に会いに来てやる」
そして、今日も俺は、愛する女性(ヒト)の瞳から零れる涙と、唇から垂れる涎を丁寧に嘗(な)めとってやってから、病室を後にした。
パタン…
お前が…
澪が、俺の問いかけに、幸せだと微笑む限りは…な。