マチビトキタラズ

第二章・姉(ミサキ)

 

 

 

桜の花びらが雨に打たれて舞い落ちる。

濁った空は春の訪れを拒むように、ただ冷たい雨を降り積もらせていた。

 

 

 

私は何の変わりも無く進級した。

アイツが居ないという、最も肝心な事を除いて…

 

『立ち入り禁止』

 

始業式も終わって自由になった私は、今日も一緒に帰ろうと誘いに来るだろう詩子を避けて、放課後の屋上に行った。

 

 

 

「…誰の事?」

 

あの日、詩子が不思議そうな顔で言った言葉。

予想していなかった訳じゃない…

でも、期待していなかったと言えば嘘になる…

詩子もアイツの事を覚えていないという事。

それは、私に更なる絶望感を与えた。

 

「茜、元気出してね。」

 

別れ際に、心配そうな顔で詩子がそう言った。

元気になれる訳が無い…

たった今、詩子の言葉で絶望感と孤独感を感じたばかりなのだから…

 

 

 

だから、詩子に会いたくなかった。

誰にも心配を掛けず、誰もいない屋上で一人、泣いていたかった。

 

ギィィィィィ……

 

錆付いた屋上への扉を体全体で押して開けると、暖かく微かな桜の香りがする空気と、茜色の光が私を包んだ。

 

「……」

 

綺麗な夕焼けが、視界いっぱいに広がっている。

学校も…

下校する生徒も…

街道の木も…

家も…

車も…

みんな茜色に染まっていた。

 

あの…私の名前と同じ茜の向こうに、あなたはいるのですか?

そして、あなたも同じ茜を見て、同じ事を考えているのですか?

 

答えは無い。

茜色の空は、ただ光を投げ掛けてくるだけだった。

 

「…酷いです」

 

文句を言ったところで、どうしようもない…

アイツが答えてくれる訳がない…

そんな事は解っている…

それでも私は、茜色をした空の向こうに話し掛けるしかなかった。

夕焼けの向こうにアイツがいる事を信じて…

 

ぽろぽろぽろ……

 

不意に涙が零れてくる。

 

あなたがいなくなってから、何度泣いたか分かりません。

その度にあなたの事が嫌になります。

私は、どれだけ泣けば良いんですか?

私をどれだけ泣かせば、帰って来るんですか?

……

帰って来ます…よね?

 

涙で滲んだ夕焼けに話し掛けていると…

 

ガチャッ!…ギィィィィィ……

 

突然、後ろで錆付いた音を立ててドアが開いた。

急いで涙を拭い、顔を見られない様にフェンスに近づく。

 

「あれ?誰かいるんですか?」

「…はい」

「こんにちは…だよね。まだ…」

 

まだ、夕方だから『こんばんは』には、早いと思った私は、

 

「……はい。こんにちは」

 

と、挨拶を返した。

屋上に出てきた黒髪の女性は、私の隣に並ぶと、夕焼けに目を向ける。

制服を着ていないから、卒業生なのだろう。

 

「……」

「……」

「……」

「何かあったの?」

「え?」

 

しばらく、無言で夕焼けを見詰めていると、不意に女性が話し掛けてきた。

彼女はジッと私の目を見て続ける。

 

「『聞こえ』るんだよ」

「……心が…ですか?」

「ウン。その分『見え』ないんだけどね」

 

少し驚いて聞き返す私に、彼女はニッコリと笑って答える。

 

……

不思議な人…

 

ひゅぅぅぅ……

 

屋上に暖かな風が吹いた。

左右一本ずつの三つ編みにした私の髪が、風に揺れる。

 

「風が気持ち良いね」

「…はい」

 

風になびく黒髪を右手で押さえながら、気持ち良さそうに言う彼女に、私は少しだけ微笑みながら答えた。

 

「夕日は綺麗かな?」

「?…はい」

「そうなんだ。良かった。」

 

奇妙な質問をする女性を不思議に思いながら私が答えると、彼女はまたニッコリと笑った。

 

「何があったかは訊かないけど、元気出してね。」

「……無理です」

 

そう私が視線を逸らして言うと、彼女は、温かな…どこと無く『母親』を連想させる手で私の手を包み込んで、言葉を続けた。

 

「大丈夫だよ」

「……」

「そのうち、また元気が出るよ」

 

微笑みながら、そう元気付けてくれる彼女に、私は苛立ちを感じた。

 

あなたに何が分かると言うのですか…

大事な人を、二度も失った私の気持ちが分かると言うのですか…

消え行く愛しい人に、何も出来なかった悔しさが分かると言うのですか…

 

「そんなに辛い?」

 

答えない私に、彼女は急に真剣な表情でそう訊いてきた。

私の答えは決まっている。

 

「はい…」

「そう…」

 

彼女は何処か悲しそうに微笑むと…

 

「じゃあ、私の辛さも理解出来るのかな?」

 

昔話を始めた。

 

 

 

「……」

「…ゴメンね」

「どうして…謝るんですか?」

 

謝るのは、私の方だった。

彼女の辛さを知ってしまったから…

 

「なんとなく辛そうに感じるからね」

「…辛いお話を聞いたからです」

「そうだね」

 

そう言って、女性はニッコリを笑った。

 

あれだけの辛さを背負っているのに、笑っていられる。

何て強い人なんだろう…

今まで、自分だけが辛くて不幸だと思っていた事が、恥ずかしい…

 

「でも、謝るのは私の方です」

「どうして?」

「あなたには、本当の辛さ…死にたくなる程の辛さなんて分からないと思っていたから…」

 

私より遥か以前に、大事なものを失って…

今までずっと耐えて来た…

そして、これからも耐えてゆく…

 

「じゃあ、おあいこだね」

「…はい」

 

ニッコリ笑った彼女に、私も今出来る精一杯の微笑みを返した。

それが、彼女に出来る最高のお詫びだと思ったから…

たとえ彼女に、私の微笑みが見えていなくても…

 

 

 

あの日以来、私は屋上に行く事が多くなった。

彼女に…みさき先輩に逢う為に…

逢え無い事もあるけれど、私達はあえて再会の約束はしなかった。

辛さを背負っているもの同士が、お互いを慰め逢っているようで、嫌だったから…

だから、偶然逢えた時も、お互いに笑っている事にした。

そして、この時だけは、私も精一杯笑う事が出来る。

私の辛さを理解できる人がいると言う安心感が、私を素直にさせた。

 

「そんな事があるんだね」

 

アイツが消えた事を話した時の、みさき先輩の答えがこれだった。

みさき先輩は、何の疑いも無く私の話を信じてくれて、話し終えると同時に泣き出した私を抱きしめて、泣かせてもくれた。

みさき先輩の腕の中は温かく…

そして、私はこの時初めて、泣く場所が有るありがたさを知った。

 

「何だか、妹が出来たみたいで嬉しいよ」

 

そう…私とみさき先輩は姉妹のような関係になっていた。

『辛さ』という不思議な関係で繋がれた姉妹に…

 

 

 

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