マチビトキタラズ

第四章・放浪人(シュン)

 

 

 

銀杏並木の回廊を、しとしとと細い線が流れる。

無残に踏みつけられた銀杏の葉を、雨が覆う。

 

 

 

ととととと…

 

みさき先輩を見付けた澪が、私やアイツにした様に勢い良く抱き着こうとして…

 

とッ!

 

急停止した。

そして、スケッチブックとみさき先輩を交互に見ながら、考え込み始める。

何をやっているのか疑問に思いながら様子を窺っていると、何か思い付いたらしく澪はみさき先輩の手におずおずと触れた。

 

そお…つんつん…きゅ

 

「どなたですか?……あっ!この手と匂いは澪ちゃんだね。」

 

ぶんぶんぶん……がしッ!

 

みさき先輩が澪の事を認めると、澪は『そうなの』とばかりに握った手を上下に勢い良く振って、先輩に抱き着いた。

 

「ふふっ…澪ちゃんは今日も元気だね」

 

うんっうんっうんっ

 

嬉しそうに微笑みながら澪の頭を撫でるみさき先輩に、抱き着いたまま澪が頷く。

触れている部分で、みさき先輩が澪の動きを感じられるから、会話が成り立っているらしい。

 

「…こんにちは」

「あっ!茜ちゃんもいたんだ」

「…はい」

 

みさき先輩は、私の事を『茜ちゃん』と呼ぶ。

恥ずかしいからそう呼んでもらいたくないのだけど、先輩は止めようとしないので気にしない事にした。

 

「…では、行きましょう」

「ウン…お世話になるね」

「いつもは、私がお世話になってますから」

 

元々今日は、みさき先輩と二人で、アイツと一緒に見付けた公園へ紅葉狩りに行く予定だった。

でも昨日、家に帰る途中で逢った澪にその事を話すと、彼女にしがみ付かれながら『連れていって』と強請(ねだ)られてしまい、澪も参加する事になったのだ。

 

「そう言えば、澪ちゃんと会うのも久しぶりだね」

 

うんうん

 

澪は、みさき先輩と既に知り合いらしく、先輩の家へ向かう間も、ずっと嬉しそうにしていた。

ちなみに詩子は、今日大事な用が有るらしく来ていない。昨日電話をしてきた時も、かなり残念そうにしていた。

 

「あれ?何だか、おいしそうな匂いがするね」

「ワッフルです。公園で食べましょう」

「わぁ、ワッフルなんて久しぶりだよ」

 

わ〜い

 

ワッフルと聞いて、みさき先輩が嬉しそうな表情を浮べ、澪も飛び上がらんばかりに喜ぶ。

こういう時のみさき先輩は、無邪気な少女の顔になる。けれどその内側には、ずっと明けない闇への恐怖と、それと戦う強さを持っているのだ。

 

「…冷めない内に行きましょう」

「ウン……ねえ、澪ちゃん?離れてくれないと歩きにくいよ」

 

歩き出そうとしたみさき先輩が、くっ付いたままの澪に困った顔を向ける。

 

う〜ん…

 

でも、澪もまた困った顔をして、なかなか離れない。

どうしたのだろう?

 

「大丈夫だよ。ほら、手を繋ごう」

 

みさき先輩がそう言うと、澪は差し出された先輩の手を、両手でしっかりと握って歩き出す。

そして、それを見た瞬間、やっと私は先程澪がとった行動の意味が分かった。

二人の間では、五感の内の二つ…視覚と聴覚が失われているから、残りの三つでお互い(正確には澪から先輩へ)の意思を伝えるしかない。

もし澪が、いきなり先輩に抱き着けば、目の見えない先輩はたちまちパニックを起こす。

先輩にとって澪の『呼びかけ』は、とても危険な行為なのだ。

だから、澪はそっと先輩の手に触れて、先輩が自分の事を認識してくれるようにしたのだろう。

 

「良いですか?」

「ウン、じゃあ澪ちゃんお願いね」

 

うんっ!

 

こうして私達は、談笑をしながら公園へ向かった。

 

 

 

「良い風が吹いてるね」

「…はい」

 

澪の案内で公園のベンチに座りながら、みさき先輩が気持ち良さそうに目を閉じる。

今日は、空気も暖かく本当に気持ちが良い日だった。

紅くなった葉は、秋を物語っていたけれど、空気は春の様に感じられる。

 

そっちの世界にも、紅葉が…季節の移り変わりが有りますか?

吹き抜ける風に、温かさと香りを感じられますか?

こっちはもうすぐ冬です。

あなたが私を助けてくれた…

あなたが私を愛してくれた…

そんな季節が、来ます。

 

くいくいっ!

 

「茜ちゃん?ワッフルは?」

 

袖を引っ張られる感覚と、みさき先輩の声で私は現実に引き戻される。

横を向くと、澪が目をきらきらさせていた。

 

「はい…」

 

待ち切れなさそうにしている澪に微笑み掛けると、山葉堂からずっと手に持ったままだったワッフルの袋を開け、中から一つずつ取り出して渡す。

かなりの時間持ち歩いていたのに、まだワッフルは温かかった。

 

「頂きま〜す」

『いただきます』

 

そう言って先輩と澪が、それぞれ自分のワッフルを頬張る。

でも一口食べた澪が、慌てた様子でスケッチブックにペンを走らせた。

 

『あまいの』

「はい。おいしいです」

 

澪が食べているのは、練乳蜂蜜。

私が一番気に入っているワッフルだから、これにしたのだれど…

 

『すごくあまいの』

「はい。とても甘くておいしいです」

 

澪は先程のページに書き足して、私に見せた。

何だか字が歪んでいる様に見える。

普段の澪はもっと綺麗な字を書くはずなのに…

 

『たべれないくらいすごくあまいの』

「…そう?」

 

更に書き足したスケッチブックを私に向ける。

どうやら澪もこのワッフルを気に入らなかったらしい。

この間、詩子にも食べてもらったけれど、やはり気に入ってもらえなかった。

自分では、他に類を見ないこの甘さがおいしいと思うのだけど…

 

「そんなに甘いの?」

 

うんうん

 

興味深そうに聞いていた先輩が、澪からワッフルを受け取る。

ちなみに先輩は前に苺が好きだと言っていたので、ストロベリーを選んでおいた。

 

ぱくっ…

 

「う〜ん…ちょっと甘すぎるかな」

 

どうやら、みさき先輩も気に入ってくれなかったらしく、一口食べた後、苦笑しながら澪にワッフルを返した。

 

えっと…えっと…

 

一方澪は、困った顔をして先輩から返されたワッフルと私の顔を交互に見ている。

 

「これと交換する?」

「……」

 

私が自分の分であるココナッツを差し出しながらそう言うと、澪は『でもぉ…』と視線を落とした。

折角貰ったワッフルを台無しにする様で気が引けるのだろう。

 

「渡すワッフルを間違えたみたいです」

 

私がそう言うと、ようやく澪は自分のワッフルをおずおずと差し出して、私のと交換した。

そしてペコッと一礼して、今度はココナッツのワッフルをおいしそうに頬張り始める。

 

「茜ちゃんって、優しいね」

 

うんっ!

 

二人に褒められて、私は顔が熱くなるのを感じた。

 

「…そんな事…無いです」

 

 

 

ワッフルを食べ終わって、しばらく雑談をしていると…

 

「そうだ、茜ちゃん達に見て貰いたい物が有ったんだよ」

 

と言って、先輩が傍らのバッグから何枚かの紙を取り出した。

一見何も書いていない、ただの白紙に見える。しかし手に取ってみると、それに点字が打ってある事が分かった。

 

「分かる?」

「読めません」

 

ふるふるふる

 

物珍しそうに手に取っていた澪も首を振った。

 

「『ヘレンケラー』だよ。まだ途中だけどね」

「…途中?」

 

疑問に思った私と澪が、同時に紙から顔を上げる。

先輩は一呼吸置くと、少し照れながら話し始めた。

 

「それ、私が作ったの」

「え?」

「おとぎ話とか、伝記…あと会議とかのテープをね。点字に書き換える仕事を目指してるんだよ」

 

空を見る様に視線を上げて、自分の夢を話すみさき先輩は、とても生き生きとしていた。

そして、舞台上の澪と同じ様に、とても輝いて見える。

 

……

本当に強い人…

自分にしか出来ない仕事を見付けて、自分と同じ痛みを持つ人の力になろうとしている。

 

「まだまだ練習中だけどね」

「頑張ってください」

「ウン…でも、いつか…こんな仕事が必要無くなれば良いね」

「…そうですね」

 

点字も…そして手話も不用になる…

そんな日が来れば、本当に良いと思う。

それぞれのハンデを越えて微笑み合っている二人を見ながら、私はそんな事を考えていた。

 

 

 

ガチャッ!…ギィィィィィ……

 

三人で紅葉狩りを楽しんだ次の日、私は屋上へ行った。

今日はみさき先輩に逢う為ではなく、なんとなく一人になりたかったから…

 

「やあ」

 

しかし今日は先客がいた。

線が細く、どこか不健康そうな男子生徒が、にこやかに声をかけて来る。

 

「今日は、里村茜さん」

 

しかも男子生徒は、私の名前を知っているらしい。

だけど私には、この男子生徒が誰なのか分からなかった。

名前はおろか、今迄その姿を見た事さえ無い。

 

「誰?」

「別に怪しい者じゃないよ。時間が来たら、すぐに消えるからね。」

「…消える?」

 

『消える』と言っても、この場から去るという意味なのだろうが、その言葉に一瞬ギクリとして、つい問い返してしまった。

 

「そう、この世界からね」

 

しかし男子生徒は、さも当然と言った顔でそう答えた。

その言葉通りの事が、現実にありえるのを知らないからそんな冗談を言えるのだと思う。

 

それとも、私をバカにしているの?

 

「…バカにしているんですか?」

「じゃあ、君は何をしているんだい?」

「……」

 

まさか…知っているの?

この人も…『消える』の?

でも…何で私達の事を?

 

「僕も彼と同じなんだよ」

「アイツを知っているんですか!?」

 

自分でも珍しいくらい上ずった声で、そう言いながら男子生徒に向き直ると、彼は何かを諦らめ切った様な微笑みを浮べていた。

 

「それほど面識が有るワケじゃ無いけどね。消えて行く様子を見ていたから…」

「あなたには、アイツの記憶が有るんですか!?」

 

私は、自分でも可笑しいくらいに慌てていた。

そして、期待していた。

もし、私以外の人にアイツの記憶が戻りつつあるなら、帰って来るかもしれないから…

 

「有るよ。でも、僕は例外的な存在だから…あっちとこっちをフラフラしているんだよ」

「……あなたが覚えていても、何も変わらないんですか?」

「そうなるね」

 

しかし、期待は一言で砕かれた。

 

じゃあ、この人は何?

あっちとこっちをフラフラしている?

 

「……」

「……」

 

しばらくお互いに何も言わず、周囲に静寂が訪れる。

落ち込み、考え込む私を、何故か羨ましそうな視線で、彼は見ていた。

 

「彼に逢いたいかい?」

「…いいえ」

 

夕日に照らされた静寂の中、ぽつりと呟くように言った彼の質問に、私が首を振りながら答え、お下げがワンテンポ遅れて揺れる。

 

「どうしてだい?」

「また、消えてしまうかもしれないから」

 

二度と消えないという保証も無く逢うのは嫌だった。

もう二度と別れるのは嫌だった。

 

「なるほど。じゃあ逢いたくないんだね」

「…嫌です」

 

彼の質問に、また私は首を振りながら答えると…

 

「どうして?」

 

彼は面白そうに再び理由を訊ねてきた。

 

「私の側にいて欲しいからです」

「なるほど」

「…逢わせてくれるんですか?」

 

再び消えるかもしれないアイツに逢いたいとは思わなかったけれど、試しに訊いてみた。

 

「それは無理だよ。僕は神様でも魔法使いでもないからね。今、僕と君が逢っているのも『運命の邂逅』…無数にある道が偶然交わったに過ぎないんだよ」

「……よく解かりません」

 

突然難しい話を始めた彼に、私は眉根を寄せて答える。

 

「要するに、僕にはどうにも出来ないけど、君が彼に逢える可能性が高い道を選び続けていれば…つまり、君が彼の事を想い続ける限り、彼が帰って来るかもしれないという事だよ」

「……」

 

私が、想い続ける限り、アイツが帰って来る?

本当に?

 

「……ちょっと喋りすぎたかな…そろそろ消えなきゃいけないみたいだ」

 

彼が寂しそうに微笑みながらそう言うと、私が昔見た光景と同じ様に、薄くなって…

後ろの景色が透けて見えて…

風に流されるように…

 

「彼に逢えたら、氷上シュンがよろしくと…」

「…待ってください!」

 

私の制止の甲斐も無く、『氷上』は、『消えた』。

……

 

「…ありがとうございます」

 

後に残された私は、先程まで『氷上』が居た場所に一礼すると、屋上の扉を開いて帰途に就いた。

 

……

私が想い…待ち続ける限り、アイツが帰って来るかもしれない…

それなら、想い続けます…

そして、待ち続けます…

だから…

だか…ら…

 

 

 

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